【小説】蝶はちいさきかぜをうむ その3
底も見えないほど深い崖の向こうには、
広々とした草原が広がっています。
ゆるやかな起伏に小高い丘があり、
丘のてっぺんには街の人々が「お機械さま」と呼んでいる大きな大きな機械がありました。
石なのかブリキなのか鈍い薄茶色の塔のような機械は遠く離れた街からも見えるほど大きく、
厳かに佇む姿はじっと街を見守っているかのようでした。
上に向かって少し細くなっている塔のような円柱に、小さな翼のような四角い板が左右から突き出していて塔の頂上には大きな球体が少し浮いています。
もうずっとずっと昔からそこにあり、もしかすると、街ができるよりもずっと前からあるのかもしれませんでした。
街の人々は「お機械さま」と呼んではいましたが、それが何なのか知る人はいませんでした。
ただ草原の丘の上には「お機械さま」があり、
それが当たり前でした。
深い渓谷の底から突如噴き上がる間欠泉により、橋をかけることもできませんので街から草原へ渡ることはできなかったのです。
50年に一度やってくる気球商団だけは草原から街へ渡ってくることができましたが、
なにせ50年に一度の気球商団の到来は街にとってはお祭りです。
数年前に気球商団がやってきたときは、一段と盛大なお祭りがありましたが、
世界中の珍しい布や品々、
初めて口にする美味しいお菓子、
他の国の話など、
夢中になるものが多すぎて誰も「お機械さま」のことを聞く人はいませんでした。
洗い屋の少女はなぜか、草原に心惹かれていました。最近、おばあさんと一緒に草原が見渡せるベンチにいることが多いからかもしれません。
何人かの大人たちに草原のことを聞いてみましたが、誰も知らないようでした。
時計塔を洗っていた時のことです。
時計塔は街中から見えるように、小高い丘の上にあり、街のどの建物よりもずっとずっと高い建物です。
その時計塔のてっぺんに、山鯨くらい大きなずっしりとした輪っかがついています。
少女は輪っかまで丁寧に磨きながら、時計塔の番人に聞きました。
「おじさん。この輪っかってなんであるの?
時計とは関係ないみたいだし。」
「ああ、それはね、気球商団の錨をつなげるための輪っかさ。この街には気球商団全部の気球を降ろせるほど広い場所がないだろう?
だから、その輪っかに錨をつないでほとんどの気球は空に停泊してもらうんだよ。」
「気球商団って、あの、おまつりのときに来る人たち?」
「ああ。彼らは世界中を一周して、50年毎にこの街にもやって来るんだ。」
少女はまだちいさかったときに見た
綱渡りや宙返りをしながら踊る姿、
陽気で踊りたくなるような音楽を思い出してつい身体が弾んでしまい、
ころころと時計塔の屋根を転がって番人の腕の中にすっとんと落ちてしまいました。
「あ、あ、あ、あ、あぶねぇよう!」
「えへへへ。ごめんごめん。
ねえ、その気球の人たちってあの草原にも行ったことあるのかなぁ?次はいつ来るの?」
「そうだなぁ。この街に来る前はあの草原に長いこといるみたいだな。なにせ、気球ぜーんぶ降ろせるくらい広いからな。
こないだ来たばっかりだから、次に来るのは50年くらい先になるよ。
…彼らが来るとな、風呂屋が大忙しなんだよ。」
と時計塔の番人はふふふっと笑いながら言いました。
「お風呂屋さんが?どうして?」
「うん。彼らはずうっと空で生活してるだろ。だから水は貴重なんだな。あんまりたくさん積んだら重くて飛べなくなっちまうし。
それで、この街に来るとみいんな目をキラキラさせて風呂屋に押し寄せるんだよ。
よっぽど嬉しいんだろうなぁ。」
「そっかぁ。お水が貴重なんだ…」
少女は洗い屋として、じゃぶじゃぶと水を使っているのがなんだか申し訳ないような気になりました。
「それでな、街の風呂屋だけじゃ足りないからよ、どこの家でも風呂を使わしてやるのさ。
お礼にっつってここらじゃ高級な煙熊のお腹の毛で作った帽子やなんかをひょいとくれるもんだから本当はもっとたくさん来てもらいたいもんだが、なにせ50年に一度だからなぁ。
そういえば…くっくっくはっはっは」
話しながら時計塔の番人は急に笑い始めました。
「彼らは、よっぽど水が好きなんだなって思ったことがあってさ。
あれは、こないだの、その前に来た時だ。
あっつい夏でな、みぃんな総出で湖に行ったことがあったのさ。
大人も子どもも大喜びで、一日中湖で泳いで遊んでいたよ。
俺もその頃は、まだ小さかったからな、一緒になって一日中遊んだんだよ。
彼らは子どもも大人も真剣に遊ぶんだ。
誰かが近くの林から大きな大きな浮羽葉を採ってきてさ、近くの大岩からそれに飛び乗れるかって遊び始めたんだ。
もう、誰も彼もがきゃぁきゃぁと声を上げながら、飛び込むんだよ。
ほら、彼らはとても身のこなしが軽いからね。
宙返りをしたり、ふたりで手をつないだりしながら大岩からその浮羽葉に向かって飛び込むんだ。
うまく乗れれば歓声が上がるし、着地に失敗してどぶんと湖に落ちてもゲラゲラと笑うんだ。
あれは、本当に…楽しかったなぁ。
おっと。長話しちまったな。
全部洗い終わったのかい?」
「それが…あとは、大時計のガラスを拭くだけなんだけど、さっき転げ落ちた時に鮫布を落としちゃったの。」
「おや。それは困ったねえ。
…そうだ。アレは使えるかな。たしかこの辺にしまったと思ったが…」
時計塔の番人は管理室の隅にある机の引き出しを引っ張り出して、なにやらゴソゴソと探しています。
「ああ、あった、あった。コレ、使えるかい?」
手渡されたのは、半透明の干からびた煎餅のようなものでした。
「それはな、なんだっけな。えーっと、
“櫛海月”っていうんだそうだ。気球商団の人に風呂を貸したときにもらったんだが、どうも身体を洗ったりするのに使うようだよ。
それを使ってみてはどうかな?
お嬢ちゃんにあげよう。
いや、ほら、ここの管理室までキレイに洗ってくれただろ。おかげでべとべとした気分がサッパリしたよ。
気に入ってくれるといいんだが。」
少女は櫛海月をじぃっと見つめ、匂いを嗅いだり、自分の腕を擦ってみたりしました。
そうして、桶の水にじゃぷんと浸し、ぷくぷくと水を吸ったのを確認してからきゅうぅっと絞りました。
櫛海月で大時計のガラスを拭いてみると、
力を入れなくてもするするーっと汚れが取れていきます。
「わぁ!わぁ!これ、すごい!すごいよ、おじさん!ありがとう!」
瞬く間に大時計のガラスはピカピカになりました。
あんまり綺麗に透き通っているので、飛んできた縞々鳩たちがガラスがあることに気がつかずにぶつかってしまうかもしれません。
少女は丁寧に櫛海月をハンカチで包んでポケットに入れました。
今日はよく晴れているので、遠くの草原が見渡せます。
行ってみたいなぁ
どんなところだろう。
きっとおばあさんの好きな野花がたくさん咲いていて、柔らかな風に草原中が波打つんだろうな。
小鳥が飛んできて、近くの木の実のある場所を教えてくれるのかも。
そんな想像をしながら目を閉じると、
草原の爽やかな風がそよそよと頬や耳元をくすぐっていくように感じるのでした。
作 なんてね
ちょっぴりあんこぼーろ