【小説】蝶はちいさきかぜをうむ その7
「え?!動かないって、なんで?!
古いから壊れちゃったの?」
「いやぁ。そうじゃないよ。わしがな…」
俯いたおじいさんの帽子に挿さった野花がふるふると震えていました。
気球商団は、世界中を風に乗って旅をします。
100台ほどの数から成る気球船は主船のひときわ大きな気球を先頭にズラリとv字を描いて太い縄梯子で繋がっています。
あたたかい繊維のとれる雲羊を飼っている気球や、その繊維から服を作る気球、医者や床屋がいる気球、海面スレスレを飛んでいる時に獲った魚介類を加工する気球、世界中の品物を積んだ気球、とまるでひとつの村のようでした。
雲羊の繊維は団員たちの温かい服を作るのはもちろん、取引でもとても喜ばれますから大切に管理されていました。繊維を齧る鼠鶏を追い払うために翅無猫を飼っています。
世界を一周するのに約50年。
そうして、50年毎にやって来る気球商団はどこの国にとっても貴重なお楽しみでした。
この草原にも気球商団がやって来ます。
広い広い草原は商団全ての気球を休ませることができますので、数ヶ月滞在しながら
傷んだ底板を直したり、
雲羊に草原の草をお腹いっぱい食べさせたり、
雨を呼んでもらって水を蓄えたりしました。
番人が初めて気球商団に会ったのは、20歳の頃でした。
商団の通訳の青年も同じ年頃でしたので、すぐに仲良くなりました。
二人は、翼馬に乗って遠くの森まで一気に駆けたり、草原で大の字になってざぶざぶ降る雨を楽しんだりして過ごしました。
あるとき、一頭の翼馬がいななきながらものすごい速さで暴れるように走り抜けていくのが遠目に見えました。
「ああっ!お、お嬢さんが!」
通訳の青年が真っ青になって番人の袖を掴みました。
暴れ走る翼馬の背中には、淡いブルーのワンピースをなびかせた少女が振り落とされんばかりにしがみついていました。
番人はすぐさま、ぴゅいーっ!と指笛で近くにいた仲良しの翼馬を呼び寄せ飛び乗ると閃光のように暴れ回る翼馬目がけて駆け出しました。
もう少しで追いつく、というところで暴走していた翼馬が急にガクンとバランスを崩し、後脚を高く蹴り上げました。
草原に掘ってある水取りの溝に前脚を踏み外したようでした。
翼馬は体勢を持ち堪えたものの、背中にしがみついていたお嬢さんはその勢いでぽーんと高く弾き飛ばされてしまいました。
ぼふんっ
猛スピードで駆けつけた番人は、ぽーんと舞い上がったお嬢さんを翼馬の翼で受け止めました。
「だ、だい、じょうぶ、ですか?」
受け止めたお嬢さんは羽根のように軽く、ふんわりと宙返りをしてすとんと着地しました。
ぶわぁああああっ
突然の来訪者に驚いたのか、足元からたくさんの蝶がお嬢さんを包むように舞い上がりました。
「□○※、△▷※□○!」
たぶん、お礼を言われた、のだろう。
と思いました。
淡く金色に透き通る絹のような長い髪が風にふわりとたなびき、
朝陽が昇る直前の空のような緑がかったすみれ色の大きな瞳でまっすぐに番人を見据え、
小さな野花を置いたかのような桃色の唇からは花のような笑みがこぼれています。
番人はお嬢さんの美しさに目を奪われて、世界が止まったように感じました。
「だいじょ、う、ぶ、ですかぁ」
通訳の青年がぜいぜいと息を切らしながら走ってきました。
「あ、ああ、お嬢さんは大丈夫かな。」
通訳の青年が何やら泣きそうな顔でお嬢さんと話し込み、手を合わせながら何度もぺこぺこと頭を下げています。
お嬢さんは話を聞いているのかいないのか、
じっと番人を見つめています。
番人は、先ほどのことがまるで夢の中での出来事のように感じていました。
目の前で舞い上がったたくさんの蝶たちが、まるで自分のお腹の中に入ってきてしまったのではないかと思うほど、なんだかパタパタと落ち着かない気分になるのでした。
そうしてお嬢さんを自分が乗ってきた翼馬に乗せ、横について歩きながら通訳の青年に話を聞きました。
「お嬢さんは、気球商団の団長の娘さんです。なんていうか、好奇心旺盛で。
この間、私たちが翼馬に乗って駆けているところを見かけてご自分も乗ってみたくなったんだそうです。」
「そんな無茶な!翼馬は仲良くなった人間しか乗せないのに。」
「まあ、そこがお嬢さんの、悪い癖というか何というか。こうしたいってことは誰が止めてもやっちゃうんですよねぇ。困ったもんです。」
その日から、気がつくといつもお嬢さんが後ろについてまわるようになりました。
どこへ行くにも何をするにも何故だかいつも横にいるのです。
番人はなんだかどぎまぎしてしまって、
井戸から汲み上げた水をまた井戸の中に戻してしまったり、
木をくり抜いて作っていたコップの底までくり抜いて筒状のなんだかわからないものにしてしまったりしました。
だんだんとお嬢さんが隣にいるのが当たり前になり、雨を呼んでも草原で雨を浴びるより部屋でお嬢さんとお茶を飲んで過ごすようになっていきました。
そうして数ヶ月間の滞在を終えて気球商団が崖の向こうの街へ移動するときには、
お嬢さんは当たり前のように番人の隣でニコニコと団員たちに手を振っていました。
「お前たちも、街に、行くんだな。」
「ああ。街には風呂ってものがあるらしいぜ。
……お前はもう、ずっとここにいるのか?」
「俺は…番人だからな。」
そうして最後の村人たちを見送り、草原には番人とお嬢さんだけが残りました。
番人とお嬢さんはふたりでゆっくりと50年の時を過ごし、ふたりでゆっくりとおじいさんとおばあさんになりました。
相変わらず言葉は通じませんでしたが、ふたりでいれば言葉はいりませんでした。
プラチナのような朝陽で目醒めたとき
両掌に雨を受けて、
びしょ濡れになって踊ったとき
手をつないで草原に座り、
雲に沈む夕陽を眺めたとき
おばあさんはすみれ色の瞳で
おじいさんをじぃっと見つめて
「はぃる…たぃ」
と言うのでした。
おじいさんには意味がわかりませんでしたが、なんだかその言葉を聞くとむずむずと恥ずかしいような嬉しいような感じがするのでした。
「はぃる…たぃ…?」
にぃあー
みやぅー
「わぁっっっ!!!な、なに!なに!その生き物っ!!!」
風飼いの少年はカウチの上に跳び上がりました。
「ああ。これはね、翅無猫っていうんだよ。
気球から降りてきた子たちが家族を作ったんだね。もう、4代目、かな?」
おじいさんが、足元にいる黒い艶々した柔らかそうな毛並みの動物を撫でながら言いました。
もう一匹は、いつの間にかおじいさんの膝で丸まってくつろいでいます。
「ここのかまどの横がお気に入りのようでね。なんだか居着いちゃったんだ。ははは。大丈夫。噛みついたりしないから。」
少年が恐る恐る撫でようとすると、
翅無猫はその手に顔を擦り付けて
みぁう
と言いました。
作 なんてね
ちょっぴりあんこぼーろ