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自分に出逢う
なんだとぅーーーーーっっっ!!!!
先日、久しぶりにどうしようもない怒りが込み上げてきたのでウキウキと深掘りしてみます。
だいたいは、ぼーっと過ごしているので、
あまり劇的な状況には遭遇しづらい生活形態だと思います。
そして、武道家であった大伯父の血がそうさせるのか危険を察知し事前に回避する能力が高いらしく、ちょっとでもイヤな感じがすると近づかない性質もあって、やはり劇的な状況に遭いにくいようです。
なので、自分はあんまり怒らない方だなー、などと構えていましたら、母が
あんたは小さいときはいっつも
怒ってるか泣いてるか笑ってるか寝てるかで
まあ、寝てる以外はうるさい子だったよ。
と言うのです。
えー?私、そんなに怒ってたの?何に?
思春期の頃からか、なんか、怒るっていうのが自分を棚に上げているような気がして恥ずかしく感じて、「いや、別に、怒ってないし」みたいにカッコつけてただけだったんですね。
でも、怒るっていうのは自分へのメッセージだと最近知ったのです。
無かったことにして蓋をしてしまうのは、もったいないどころか、そのエネルギーは自分へ向かい自らを攻撃してしまうこともあるようです。
今回ずわずわわわっっと怒りが湧いてきたので
これぞチャンス!とばかりに深掘りしてみようと思います。
長らくお世話になっている喫茶店があります。
かれこれ半世紀とまではいかないまでも、長く長くその場所で姿を変えずにいてくれる、
「うん。いつもここにいるよ。」
みたいな安心感をくれる場所です。
飾り切りの入った特注のガラス越しには、
緑と共に陽の光が柔らかく差し込み、
ガラス一枚を隔ててまるで異空間にいるような
時間が止まっているような不思議な魅力のあるお店です。
古ぼけたカウンター、埃をかぶってまるで骨董品みたいだけど現役で動いているコーヒーミル、いつから置いてあるのかわからない謎の置き物、珈琲とカレーの匂いが立ち込める店内、店内を彩るいくつかの花瓶、ゆったりと流れているのか止まっているのかわからなくなる時間。
新しくてきれいでもなく、古ぼけて汚いわけでもない、居心地の良い場所。
そんなお店をされていたマスターが今年の夏にご逝去されました。
一言でいうと魔女のような方で、あまりに素敵な人過ぎるので、その話はまた別の機会に。
そんな彼女が大切にし、少し誇らしげに使っていたコーヒーミル。
構造がシンプルなためか、長い年月を現役で過ごしてきても壊れる気配もありません。
そのコーヒーミルがガリガリと挽いた豆を受ける器の底が抜けていたのです。
原因は挽いた豆をネルに移す際に、器の中に張り付いた豆を落とすためシンクにガンガンと打ちつけていたからでした。
底の金属板は折れ曲がり、まるで顎が外れてしまったみたいにぱかんと口を開けています。
ここ数年で新しく入った従業員の何人かがガンガン打ちつける所を見かけたときは、
「そんなことしたら壊れちゃうよ。手でぽんぽんって叩けばちゃんと落ちるよ」
と提案してきましたが、やり慣れているやり方から離れられなかったのでしょう。
底の抜けた豆受けの器を見て、無性に無性に腹が立ったのでありました。
で、何がこんなに腹が立つのだろうと思ったのです。
モノは長く使えば壊れます。
経年劣化もあります。
でも!
「壊れる」のと「壊す」のは
違うのではないか?!という気持ちが止まりません。
それが自分ではない誰かのモノだったら尚更です。
もしゃくしゃと悲しい気持ちになりました。
モノを雑に扱うこと。
それも、誰かのモノを雑に扱うこと。
それは私にとっては、
「その相手を雑に扱うこと」
でした。
「世界を雑に扱うこと」
でした。
「自分を雑に扱うこと」
でした。
それが、どうしようもなく悲しく、
どうしようもなく悔しかったのでした。
怒りは願望の現れですね。
私は優しくありたい。
私は尊重したい。
私は大事にしたい。
世界を。
私を。
なんてね。