「人間は生まれるまでは、水平である」

「ガチャガチャが好き」
「ギャンブルが好き」
ガチャガチャは楽しいものだったのに、昨今、風刺に使われる嫌な言葉の元となってしまった。
対して、ギャンブルはイメージが少しずつ良くなっているような気がする。

無論、相対的に言えば、ガチャガチャに対する好意の方が上である。

----「〇〇ガチャ」----

聞くたびに考えさせられる。
 何で測れば平等に?
 どう補助すれば公平に?
 何を埋めれば平均に?

「夢を持つことは大事なことです」
そんな言葉の裏にはいつも、恵まれた何かを持つ人たちの無垢な笑顔がある。
スポーツを志し半ばで諦めた両親を持つアスリートの卵、
土地を持っている家系に生まれた未来の地主、
ギターにお金をかけていた父親とピアノの先生をやっていた母親を持つシンガーソングライター。

勉強すれば上から10番目に、
運動すればど真ん中の平均値を出し、
絵を描けばりんごをさくらんぼに変化させる自分。
マイナスポイントを書き出せばキリはない。
誰かを軸に自分の良し悪し考えても仕方がない。
なのに、人様の才能に嫉妬している背景には、
自分の無味無臭への無自覚があるのだ。
その環境さえ手に入れば、
「俺だってなれたはず。」
「私も味わえた景色のはず。」なんて思えるから、
嫉妬なんてしている。

やがて気づいてしまう、
そんなパラレルワールドを想像して、あわよくば手にしたいと思った瞬間から、何者にもならない、なれない自分に。

もとより、どんな家族に、家系に、自分が産み落とされるかなんて、誰にも決められやしない。
だからこそ、自分に定められた運命を認めるしかないはず。
そう、その中で自分で自分を楽しめるかが、人生の満足度を決める。

なのに、今では、自分を他者と比較する方法でのアピールをしなければならない場所が増えている。 

「諦めなければ良いのだ、突き進め」と、
夢を叶えた実力者が、
夢を叶えることが許された人たちが、
夢を諦める選択肢を持たなかっただけの人たちが、
「夢の呪い」を信じきった笑顔を浮かべて発信しつづける。

彼ら発言者の背景を無視して、その言葉だけが作用して、
「あの子が持つ『コレ』が欲しい」
となっていく。
ハイブランドのバッグ、デバコスの下地、軽くて暖かいおしゃれなコート。
最新モデルのバスケシューズ、おしゃれな運動用靴下。
平行二重、メイクしなくても膨れてる涙袋。
運動能力の低さをカバーできる高身長、
クソガキにならない大人びた声。

“あの子”を深く見ずに、『コレ』のために浅はかな動きをする。
『コレ』の価値が、使用者によって変わることに気づけず、手に入れようと立ち向かい続ける。
だが、手に入れた瞬間に、減価償却が行われていく。
減価償却であれば良いが、著作権の譲渡権のように消尽する可能性さえもある。
急な雨に見舞われて購入したビニール傘が捨てられていくこと、折りたたみ傘の傘袋だけが道端で泥まみれになること、インクが出るはずなのに姿なくなる3本セットの安物の黒ボールペンが線路の隙間に落ちていくことと同じと考えれば良い。

手に入るまでは欲しくてたまらなくて、
努力する過程さえも自分の心を満たしてくれるのに、
目に見えてしまうものについては、
手にしたら煌めきはなくなる。
無駄と認めたくないけど意義を見出すため、
焦燥感に駆られてしまう。

己はなんのために生きて、何に向かって動きたいのか。
誰かに気づいてもらえると信じて、誰かに褒められると願っていた、心のどこかで誰かに認められることで得られる好感を求めていることに、気づかないほうが幸せだろうか。

過剰な自己存在への自問自答と、
他人から褒められる人が持つ輝きが、
努力の名の下に周囲の人をぶん回していき、
「環境のせいにしてはいけない」「自分でどうにかしろ」という流れを生み出してしまった。

それゆえに、流されるままに生きていたら、流れる可能性のある場所がどんどん濁っていく恐れすらある。
流しそうめんの竹の上を泳いでいたはずなのに、気づいたら屋根の雨粒を流す筒へと、棲家を変えさせられている。

人間には多くの分岐点が存在する。
選択できるわけでもない分岐点が、
性別、周囲の人間、そして立地。

だいたい上京のタイミングになりがちな、
大学入学までに開いた差は、基本的に埋められにくい。
義務教育および高校までの経験値は、
金で買うことも、何かしらの成功で補填することもできない。

「関東ローカルの昼のテレビ番組が見れるようになった!」

関東ローカルのテレビ番組かどうかを意識することは、関東で生きてきた全ての人にあるわけではなく。
私はテレビの内容によっては気にしていたが、
自分が見たテレビが全てだと思い、基本的には気にするタイミングはない。
無論、逆もあるのだが、上京した時に起きがちな現象である。
そして、「その衝撃」を「楽しいコンテンツ」「悲しい現実」のどちらで捉えるかが、生き方の軸を作っていく。

「夢にまで見たテーマパークだ!」
夢に見る前に行く人、夢になってから待ち望んでいく人、たまたま行ってしまった人。
自分がどの立場になるかは、ある程度予想がつく。
こちらの方が残酷で、
肌で感じる暑さや皮膚で感じる波動、
耳で覚える雑踏、足に流れる汗は、
自分の年齢によって、価値、感情が変化していってしまう。

大学生なら「大したことなかった」と思うものが、
幼稚園児なら「怖い」、
遠足でみんなで出向いたなら、「よくわからなかったけど楽しい」

考えれば考えるほど、
意味のない想像や意義を見出せない妄想が、
止まらなくなる。

「良いな、ずるい。私も出会えてればな。」という心の声を、見て見ぬ振りをする若い頃の白髪のように隠して、日々をこなす。

「推しが今日も素晴らしい」
「会えたことが幸せ」
「好きすぎる、アイドル最高」
そんなことを言う人が増えた今、
乗っかって儲けようとする組織が齷齪する今、
仮想空間でのセクハラが増える今、
「ナマモノ」に対する価値が上がっている。

転売チケットでも、
詐欺かもしれないチケットでも、
嫌いな人から譲られたチケットでも、
取り合いになっている。

チケットを掴むチャンスすらない人は、
「あの会場なら私は行けるのに!」
「こっちの会場しか行けない!家がなんでここなの!私が行けないならライブ会場が来いよオラ」
なんて考え始める。

そうして生きていくうちに、
自分が手にしたかった性別、容姿、趣味、
人脈、環境、全てを持っている人に遭遇していく。

彼らが放つ笑顔の純度が高ければ高いほど、
消化しにくい虚しさが生まれた。
信じていたはずの言葉や、
願っていた奇跡のために向かっていた過去の自分までもが陳腐に見えかけるのに、
だけど、そんな辛さを持つ人たちの軌道は誰も語らない。
いや、語れないのだ。
破壊させられた夢見る世界は、
無秩序を助長させるための土壌になりうるから。

「諦めたら勝てないじゃないか!」
ではなく、「諦めたら試合に立てない。」
試合に立ってるなら、諦めても諦めなくても試合結果は変わらない。試合結果が与える感情が変化するだけ。
むしろ、諦めてることもわからず、
試合のホイッスルを聴くことすらできない現実にひれ伏していることにも、気づかないほうが怖い。

人生100年と言う割には、自分の世界、世間は狭かったりする。

そんなことを考えていた頃、
ある世界に足を踏み入れることになった。
それは、土地に根付いた少女歌劇団の歴史を持つ劇団の劇場だった。
テレビ番組で見た、受験密着番組のイメージしかなかったが、縁あって足を踏み入れることとなった。

ある程度調べると、そこを目指す彼女たちは、
「親族にOG」
「祖父母がファンで連れて行ってもらった」
「地元で公演をしていて観劇した」
という経験を、しかるべき年代でしている。

すごい!という反面、
人生はやはり巡り合わせで決まってしまうと思える。

「たまたま」親がOG
「たまたま」祖父母が見せてくれた
「たまたま」地元で公演をしてくれた
というわけで。

だが、彼女たちを知れば知るほど、
「どこにでもある普通の現実」があることを知る。

それは、
「どんなに実力があっても手に入らないステータス」があって、
「強く願っても配属部署によって価値は変わって」しまい、
「時代によって求められる容姿や評価ポイントが変わっていく」
という、どこでも変わらない現実である。

どの組織にいても、どんな社会になっても、
時代の波が生み出す流行の潮に揉まれながら、
自分が欲しいものを手に入れられると信じて、
後ろを振り返る時間も作らずに、
努力という名のもとに作られたゴールを作れない短距離走を長距離走のようにこなしていく。


また、視聴していた頃は、
「たった4回のチャンスしかないなんて可哀想」
なんて考えていたが、
俳優や芸人のエピソードを聞くと、
ある意味優しいのではと思える。

諦める機会が機械的に用意されることで、
コンパスの針を置く位置を、
否が応でも変えることができるのだから。

「叶わなかった夢に費やした努力は、
褒められる努力ではあっても認められる努力ではない」ということにも気づけるわけで。

この世の中に、この日本に、
数多の人たちがいるが、
自分の価値や求める未来や、
築きたい夢や手に入れたい名声が、
かなりの確率で被る。

だからこそ、個性が生まれる前、
この世の外気に触れる前だけは、
全ての人は平等で、公平で、出すまでもない平均値が出せる。

外気に苛まれた大人と呼ばれる人たちは、
「諦めなければ叶えられる」という言葉が、
呪い(ノロイ)」ではなく「呪い(マジナイ)
と思える日に向かって、
努力し続けられるかが、人生の満足度を決めていく。

だからこそ、
刹那さを大切にした道を作り上げようとして、
締め切りを3時間後に控えた今、笑っている。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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