真面目な話の続き
ついさっき深夜2時にコンビニの夜勤を終え帰宅したバカマグロ農協です。8時間後には某有名ハンバーガー屋でデリバリーのバイトが待っているが、「書かねば…」という使命感が自分の中で拭いきれない為眠い目を擦りながら書く。本当は書きたくない。眠いし。めっちゃ眠いし明日バイト2つあるし。
追伸:とか言って上の文章をはじめに10月から書き始めたのだが飽きて途中で止めて、2022年も終わり2023年を迎え、さらに迎えた上で1ヵ月を経過した2023年2月、バイト先のコールセンターに14時半に出勤したものの電話が一本も鳴らないまま16時15分を経過し、することもないのでヤマトパンクスのnoteも過去のアメブロも全て見ていたら何故かヤマトパンクスのLINE IDが初期のアメブロに掲載されており興味本位で検索してみたら本当に出てきたりして、いよいよ暇潰しの限界を迎えた為、昨日だか一昨日に友人に「早く続き書けや」と辛辣なLINEが来ていたことを思い出したので、書きます。
てなわけで、大分前に更新した「真面目な話」の続きを書こうと思います。見てない人で興味ある人は下線部クリックしたらページ飛びます。まあ決して面白い話題でもないし暗い話題だし壮大な自分語りでしかないのだが、俺はこの記事を有料化している訳でもないので「つまんねー記事書くな!」と外野に言われても関係ないし自己満だし、俺が金属バットでそいつの脳天をぶち叩いても免罪になるに違いないので、そういった意見はガン無視で書き殴ることにします!では。いきます。
思い出したのだが、あの夜、星置駅近くの公園に野宿することにする前に、その当時同じクラスだった友人Fくんの実家にお邪魔していたんだった。持ち合わせの現金も無いことを懸念して、僕を家に上げてくれて、Fのお母さんが夜ご飯を用意してくれた。その時に食べたあの唐揚げの味は今でも忘れていない。そして、そのまま泊めてもらう流れになったのだが、その当時のクラス担任が片っ端から僕が行きそうな所に連絡を取っていたらしく、そのFの母に連絡がいっていた(それかFの母が担任に連絡したのかもしれない。まぁそりゃそうだ。普通に考えて家出している15歳の少年を、1晩だけでも善意で匿い、それで僕の両親から訴えられてしまったり、警察に見つかってしまえば犯罪者になってしまうのはFの母だ。勿論その時点で既に捜索願が警察に提出されていたので、Fの母の行為は当然だろうと思う、し、今思い返せばありとあらゆる人に迷惑をかけ、心配をかけ、労力を割かせた自分の罪は、余りにも重すぎると思うし、深く反省している。が、その当時は「なんで担任に僕がここにいるって言ってしまうんだ」と怒りのような、悲しみのような感情になってしまったのも覚えている。)。その通話が聞こえてきたのか、F本人から聞いたのかは分からないけれど、「このままだと警察や親や担任がここに来て連れ戻されてしまう」と考え、夜ご飯のお礼だけをして、逃げるようにその家を出てきた。
-こう書いてて思うのだが、当時の自分は余りにも自分勝手で幼稚すぎる。情けないしこれを今の友人らに見られるのも恥ずかしいのだが、8年前の自分の醜態を書き殴ることは、自分で反省する更に1歩になるだろうし、逆に自分のこれからの将来を改めて見つめ直す第1歩にも成りうると考えているので、稚拙な文章で醜態を晒して書き連ねているが、少し許して欲しい。-
そして、そのまま星置駅近くの公園にJRで移動し、野宿することにしたのだけれど、今考えれば些か考えが甘すぎたように思える。北海道の12月頭に、防寒具も無しに公園で寒さを凌げる筈など全くもってないのは幼稚園児でも考えれば分かる事だ。とは言ったものの、当時死ぬ事以外何も考えていなかった15歳の僕であれば、「このまま凍死すればいいや」と楽観的に考えていたのだろう。前回の記事でも述べた通り、"死ぬ"事は決めていたものの、その"方法"に関しては全くもって考えていなかったのだ。
話は戻るが、星置駅を出て歩いていると、漸く公園を見つけた。持っていたスマートフォンの電池もそれほど無い。LINEの通知も、電話の着信通知も全て切り、小さな滑り台の上でただ虚空を眺めていた。
暫く時間は経って、恐らく深夜2時頃だろうか。あまり記憶はないのだが、「流石に最期くらい友達くらいには返信でもしておこう」と思いスマートフォンを開くと、高校に入ってから仲良くなった1人の友人から、夥しい数の着信とLINEメッセージが入っていた。
その友人K(以下K)は、僕の不安定すぎる精神状態を常日頃から気にかけてくれていて、学校に行けていない時も会いに来てくれたり、いつも話を聞いてくれたり、ただ何も言わず横に居てくれたり、とその当時1番の精神的ストレスだった母親からのプレッシャーから逃げる事が出来るほぼ唯一の存在だった。
そんなKからの最新メッセージは「今どこにいるの?」だったと思う。詳しくは覚えていない。ただ、僕が無意識下で選んでいた"星置駅"は、そのKが住んでいる最寄駅であり(今考えれば決して無意識下とかでなく、どこか自分がKに対して助けを乞うていた部分があったのだろう)、何かメッセージのやり取りをした後にその公園に会いに来てくれたことは覚えている。遠くから駆け足のような足音が近付いてきて、僕の横で足を止めた。「あ、Kが来てくれた」と思い、僕は救われたような気分と、申し訳ない気分に板挟みされていて、ただ「ごめん」と小さく呟くことしか出来なかった。Kの顔も一切見る事が出来なかった。一瞬の沈黙があった直後、Kは僕の胸に縋り付き、「生きててくれて良かった」と言った。Kは泣いていた。大泣きしていた。僕の為に泣いてくれていた。僕は何も言えなかった。その一言以降、沈黙が続いた。僕が口を開くまでKの体はずっと震え続けていた。Kは12月の深夜、氷点下の気温だというのに上着を着ていなかった。僕が近くにいると聞いて、家に居たままの格好で飛び出してきたのだ。僕はその時間が暫く続いた後にも、ただ小さく「ごめん」と謝ることしか出来なかった。
Kが来てくれた安心感もあったはずだが、同時にこんなにも心配してくれた、迷惑をかけてしまったKに対して申し訳なさと自己嫌悪感の方が強かった。もう7年も前の話だから、所々記憶違いだとか、抜け落ちている所はある。ただ、Kが、「実家だしマンションだし女のきょうだいもいるから家には泊められないけど、お母さんに聞いて車に布団敷いて寝ていいよって言ってくれたから、こんな所で寝てないで今日はそっちで寝ようよ。その方が暖かいよ。」と言って、僕を車まで連れて行ってくれた。
そして、軽自動車だったかミニバンだったか忘れたが、後部座席のシートを倒し、分厚い毛布と枕で少し寝る事にした。雪も降っていたし、もちろんガソリンも消費してしまうし、Kのお母さんが雪が積もって排気口が埋まり死なれたら元も子もないということでエンジンを切ったまま寝ることになった。流石に寒かったはずなのに、死ぬ事しか考えてなかったからなのか、その時患っていた離人症のせいなのかは分からないが、僕自身はそんなに寒さを感じなかった。ただ、絶対に寒いだろうに、1人にはさせたくない、というKの良心で、Kも一緒に車で寝てくれることになった。
ここ数日、数日というか長い間だったかもしれない。自宅にいる時には全く眠りに付けず、かといってスマートフォンを触る気力も無く、ただ布団に入り天井の一点を見つめ夜が明けるまで考え事をして朝を迎える毎日を繰り返していた僕だったが、その日は意外とすぐ意識を失い、寝ることが出来た。深夜2時くらいで、この時点でも親や友人からの連絡は途絶えることがなかったが、それに応えるキャパシティも何もなく、現実逃避をするかのように電源を切り、目を閉じた気がする。
そして朝を迎えた。朝を迎えるとKのお母さんが車にやってきて、「眠れた?」とニコっと笑顔を見せてくれた。そして軽食(なんだったかは思い出せないし、あったかもわからない)と、Kのお母さんが作ったたまごスープを持ってきてくれた。このたまごスープが本当に美味しくて、温かくて、何より優しかった。今まで自分が物を口にして来た中で、優しい味が何なのかなんて分からないが、1番優しい味がした。そしてお母さんが、「このままKを高校に送るけど、一緒に送ろうか?」と言ってくれた。普通に考えれば学校に行けば先生に見つかり警察と両親に連絡が行くことなんて誰でも分かるはずなのに、そんな事は意識せず、「保健室登校で何度もお世話になっていた保健室の先生には謝りに行きたいな」と思い、長時間寝ていてヨレきった制服姿のまま、高校に行くことにした。
そして学校に到着し、靴箱の所でKと別れ、早速自分は「保健室の先生に謝りに行こう」と思い、1階にある保健室へ真っ先に向かった。ドアを開けると、今まで見た事のないくらい驚いた顔をした保健室の先生がいて、こちらに駆け寄ってきた。何を言われたかはあまり覚えていないが、一言謝罪をした。謝罪をしたタイミングで、やっと気づいた。「いやこれもう逃げようがなくない?親に連絡行くじゃん」と。馬鹿すぎる。そりゃそうなんだよな。今考えれば自分が何したかったのか本当に分からない。まぁ15歳なんて目先の事しか考えられないか。という事にしておく。で次に考えたのは「どう学校からまた逃げ出すか」だった。まずいきなり案の定保健室から出させて貰えなかったので、「トイレに行きたい」といってそのまま靴履いて逃げようと考えたのだが、希死念慮を抱いた15歳の少年が家出し、連絡がつかないまま捜索願を出されて学校中の問題となっている僕を、先生達が1人でトイレに行かすわけがなかった。案の定トイレまでついてこられて、僕がトイレから出るまで待ち伏せされていた。もうその頃には保健室の先生だけでなく、副校長や、時々悩みを打ち明けていた数学担当の先生までもがそこに居たので、逃げようがなかった。
諦めてそのまま保健室に戻り、保健室横の応接間(僕が保健室登校をして自習していた部屋)に通されて、壁際のソファに座らされ、向かいには先述した数学の先生と、副校長が座っていた気がする。たぶんそれと同時刻に、警察と親に連絡がいったのだろう。因みにその当時の副校長は凄い気さくな人で、僕を元気付けようと冗談を言ったり、笑わせようとしてきた(でなぜか数ヶ月後ネットストーカーとか下半身露出で警察に捕まって退職してた。)のを覚えている。
そんなこんなでまず警察が到着し、2人組の刑事さんが入ってきて、昨日の朝から今朝までどこに居たのか、とか、何をしていたのか、とかを事細かに聞かれた。ただここで正直にFやKの話をしてしまうと、その親御さん達が最悪捕まってしまう可能性があると考え(そこは頭回ってた)、「ずっと一人でいて、星置駅近くの公園で野宿していました。そこから歩いて高校に来ました。ご迷惑をおかけしてすみません。」と謝った。そして刑事さんが何だかよく分からない調書の様なものを書き上げている内に、僕の母親と父親が到着した。父親はスーツ姿で、恐らく高校か警察からの連絡を受け仕事を切り上げて来たのだろう。母親は普段着姿で、僕が居なくなったことへの焦燥などで仕事どころではなく、自宅にいたのだろう。父親は安堵した顔、母親は号泣していた。ただ僕はその母親の姿を見ても、その当時は正直一切の感情も抱かなかった。「僕をこうさせたのはあなただ。」とまで思っていた。
そして刑事さん達から両親へ、さっき書き上げた調書をもとに僕の昨日から今日までの行動が説明され、捜索願は引き下げておきますだのなんだの伝えられ、刑事さん達は仕事を終え部屋から出ていった。僕はそのまま両親に連れられ車に乗り、家へと帰ることになった。帰路の途中、僕は何を喋っていいか分からなかったが、両親が「寒くなかった?」「ご飯食べる?」「とりあえず帰ったらお風呂入って寝る?」などと聞いてくれた。
そして僕の短すぎる家出は終わった。そこから、母親の僕への態度が大きく変わった。「勉強を極めて頭のいい大学へ行け」の精神から、勉強もそんなにしなくてもいいし、大学行かなくてもいいし、高卒公務員とかもありかもね、とか、とにかく優しくなった。それもあってか、僕の精神状態は少し快方に向かい、家出をすることはしばらく無くなった。
ただそこから1年近く?位は教室に入ることはできず、再び継続して不登校気味になり、行ったとしても保健室登校だったし、そもそも保健室の先生が「今教室に戻すのは精神面に刺激が強すぎる」と判断した為、教室に入ることはしばらくなくなった。実際当時の僕も教室に戻りたい欲はそこまで無かったし、現状の生活で特に不満はなかった。大学ならありえないが、どんなに遅刻しても1コマ分の時間さえ学校に来て保健室にいれば、その日の授業は全て出席扱いになるとかいう対応だったので、保健室登校でも1日少しだけでも来て課題をやれば卒業はできる。僕もそれに甘んじることにしていた。
そこから恐らく2年生の途中まで教室に入る事は無くなっていたと思う。どういう心境の変化かは分からないが、ある時「教室に行きたい」と不意に思い、保健室の先生に相談したところ、「教室まで私(保健室の先生)が同伴する」「1日全てではなく、最初のうちは1コマ分の授業だけ」「教科担任には共有しておくから辛くなったら何も言わず教室を出て保健室に戻ってくること」を条件に、教室に戻る事が認められた。僕は不安とワクワクが混在したような感情で、保健室の先生と一緒に教室に向かう為に階段を上って、自分のクラスがある階についた。その時間は授業と授業の間の10分休みで、トイレに行く生徒や廊下のロッカーから次の授業の教科書を取り出している生徒、廊下で他クラスの生徒と雑談をしている生徒やらでごった返していた。みんなの目線に少し怖くなりながらも、頑張って自分の教室に向かった。向かっている最中、中には怪訝な目でこちらを見る人もいたが、何人かの知り合いや友人は、「お、ダイキおはよー!」とか、「待ってたよ~!」とか、優しい声をかけてくれた。そして教室に到着して、しばらく開けられることのなかった自分のロッカーから少し埃の被った教科書を取り出し、いつぶりに座るのかもわからない自分の席に座った。あまり接点がないクラスメイトは、チラチラとこちらを見てきたりしていた。まあそりゃそうだ。警察沙汰にもなり学校中の問題になった張本人が、急に教室に戻ってくれば怪訝な目で見られることは至極当然のことだ。
ただ、僕にも全く予測できなかったことがあった。1年生の頃から仲良くなった友人数人が、僕が教室に戻ってきたことに対して、「良かった」「ダイキ戻ってきた」と、涙を流して泣いてくれていた。そこにはKの姿もあり、友人らはKが僕と仲が良いことをしっていたので、Kに対して「本当によかったね」って涙ながらに抱き合っているのを見た。僕は当時、「誰からも愛されていない、独りぼっち」としか自分の事を見れなかったが、僕が1時間教室に戻ってきただけで、僕の気持ちを斟酌し、泣いて喜んでくれる友人達が、大切な人達が、確かにそこにはいた。当時の僕は気づいていなかったし、自分はとんでもない不幸者だと思っていたが、僕はとんでもない幸せ者だった。確かに15-16歳。多感な時期ではあるが、僕の為に、僕だけの為に涙を流してくれる人がいるというのは、今考えれば間違いなく幸せ者であり、何より愛されている証拠だった。自分が愛されていただなんて自分で書くのは何とも恥ずかしいが、今現在当時の僕を第三者目線で、他人として捉えることができる今、自信をもってそう言える。当時の僕と今話せるなら、「お前は大丈夫だよ。」「お前を待っている人、大切に想ってくれている人、心から味方になってくれている人がたくさんいるよ。」と伝えるだろう。
ここから少しずつ、教室に戻れるようになってきた。ただそう順当にはいかず、度々精神面を崩して保健室に舞い戻ることになったり、早退することもあった。修学旅行にも何とか行けたが、急に人が怖くなって入浴時間に大浴場に行けず一人だけで泣きながら予備部屋(体調悪い人用の小部屋)のシャワーを浴びたり、翌日の自由行動の日には、せっかくお金を払ってもらって修学旅行に来ているのに楽しめていない自分に嫌気が差し号泣しながらJRに乗ってる変な人になったりしていた。波は大きくあったものの、高校3年生へと進級しクラス替えがあった後は、友達にも恵まれて学校もほぼ毎日行けるようになった。学校祭では後夜祭の大トリでオリジナル曲のバンドを組み、約1000人の前でベースを演奏できるほどまでに回復した。受験も成功し、得意だった英語を活かして今僕が在籍している北星学園大学英文学科に進学できた。まあそこからまた精神面は不安定になって入学して1ヵ月で休学したり、回復して復学後、勉学もサークルも波に乗ってきたのにまた不安定になって留年したり、大学に行かず毎日酒を飲んで辛いことを忘れて逃げていたり、体に計6か所もタトゥーを彫ってしまったり、と未だ何かと完璧な状態へとは戻れていない僕ですが、何とか今を生きています。自分では愛されているなんてなかなか思えないけど、自分の中の第三者的自分が、自分に対して「大丈夫、愛されているよ」と伝える事で守っています。どうにかなります。人生なんて一回しかないんだから、とかいうありふれた普遍的な意見が締めの言葉で良いのかとか思うけれど、極論はもうこれにしか尽きません。口語だったり文章語だったりぐっちゃぐちゃになってしまいましたが、生きてりゃどうにかなります。生きてて辛い人、逃げ出したい人、死にたい人、とりあえず今日だけでも生きてみない?てか明日飲みに行こうよ。君の大好きな漫画家の新作、今月末出るらしいじゃん。それ見てからでもいいんじゃない?あ、そうだ。君の大好きなロックバンド、今度札幌でライブするって言ってたよ。それも俺と行こうよ。将来の事なんて考えていても仕方ない、というか、きっと僕みたいな人は将来を考える余裕もないと思う。だから一回あかだ家でも行ってラストオーダーでカルーアミルクとか頼んでバカデカジョッキで提供されたりして「甘ったるいわ!!!!!」って一緒に苦しんで笑おう。そんなんでいいと思うから、今日だけ乗り越えてみようぜ☆
って本当に中身も文章も混濁してきたし、何を言いたいのかも分からなくなってきた。ちょっと切り替えます。はい、切り替わりました。これを書き始めた理由は、高校1年生15歳の時に起こした自分の中で今でも大きな出来事として今でも深く刻まれていて、この出来事に対して忸怩たる思いが募る一方だったので、ここに書き殴る事で一度自分の中から成仏させたいという気持ちがある為という反面、自分の中で改めてこの出来事を脳内で整頓し、その当時迷惑をかけた、心配してくれた、助けてくれた人々への感謝、謝罪の意を忘れない為でもある。実際書いていて自分の我儘さ、未熟さ、軽率さに辟易した一方で、多くの人たちからの愛を得ていたことにも漸く気付くことができた。今の自分も、この当時の僕の様に精神面的に不安な時期が訪れることがまだあるのだが、そういう時にこの時の出来事を思い出し、15歳の自分と、23歳の今の自分に対して、第三者目線で「大丈夫だよ」と伝えてくれる"助け"にもなる気がしている。だから書き上げる事が出来て良かった。こんなところまで読んでくれている人はほぼいないだろうが、読んでくれてありがとうございます。いつの間にか8000字を超えていた。16時15分から書き始めて今は19時半だ。結局電話1本しか鳴ってない。これで時給1300円も貰ってていいのかな。大学のレポートは2000字でもロクに書き上げられないのに、壮大な自分語りは8000字を余裕で書き上げられるなんて、どうにも皮肉だが、まあいい。また話がズレた。切り替えます。今言えるのは、今現在、親に対しての憎しみや恨みなんてものは無く、毎日感謝しているし、両親の事は大好きです。実際あの時の「勉強して良い大学に行け」という母親の方針も、「いい大学を出ていい所に就職して安定して幸せになって欲しい」という一種の優しい愛であったことも今は分かる。その愛の供給と受容がお互いに不器用だったために両者の間で齟齬が生まれてしまっただけなのだ。世の中にはきっと、こういうすれ違いだとか、ボタンの掛け違いのような不和から生まれる問題が多数存在している。これを見ている人の中にも、きっといる。そういう人たちにとって、この僕の長すぎる自分語りで何か気づかせることができたり、救いの一手にでもなれていたら嬉しい。
結局着地点がよくわからんまま終わってしまったし、前編と合わせたら余裕で10000字超えてしまった。こんなところまで見てくれた人いるんだろうか。特に何もないけど、見てくれた人はインスタのリアクションでもツイッターのリプライでもいいねでも付けといてください。今度ミスド奢ります。何なら感想とかも送ってくれたらこれを書いた甲斐があったなあって思えるので、それも待ってます。ミスド奢ります。では。
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