「かく」とは理解することだ
今は小学校からもタブレットを使うみたいだね。
私は中学2年の時からで、少しワクワクしながらも、毎度タブレットをそれ専用の棚に取りに行ったり戻したりの面倒があったのを覚えている。
高校からは指定のタブレットを買ったから、その面倒は無い。
でも1年の頃は授業中にタブレットでゲームや漫画を見る生徒のおかげでよくクラス集会が開かれたものだ。
2年になってクラス集会が一切無くなったのは、多分その行為自体が無くなったからではないんだろう。
別にそんなことは私に関係ないのだが、たまに授業を受けているとふと感じることがあって。
やめろと言いたい訳ではない、ただ疑問を抱くだけである。
あまりノートの板書に力を入れない先生の授業で、これだけは大切だから小さな紙切れにメモをしてとって置いてほしいという要望が度々あった。
私は言われた通りメモ帳の空白のページをちぎり、そこへ線を引き始めた。
すると何度か聞こえたのは、タブレットからなるカメラのシャッター音だった。
何人かの生徒はタブレットにその板書を残そうとしたのだろうと。
そんな事が数回あって、なんだか少し悲しいような気がした。
本当に他人事だから私がわざわざこんなこと気にする必要は全く無いんだけどね。
それは「紙にペンで書く」という行為が意外にも必要な行いだと私は思うからだ。
「かく」ためにはその対象をしっかりと理解しなければならない。
その字がなんの言葉だろうか、そのグラフに四角が何個必要だろうか、線は何本必要だろうか、それら全てが収まるためには どれだけの大きさのメモが必要だろうか。
そしてそれら全てを理解した上で、そのままを再現してみせる。その行為を「かく」というのだ
なぜ画家はあれほど綺麗な景色を目の前に真っ白なキャンパスを置くのだろうと。
せっかくの景色に目を向けたかと思うとまたすぐに絵の具を手に取るのは何故かと。
それは「かく」ためだ。その美しい景色を理解するためだ。
「かく」とはそういう行為だと、私はそう思うんだ。
タブレットに残したその板書は、きっとアルバムの中にすぐに埋もれてしまうよ。頭に残る前に。そこに写る板書も、きっと彼ら自身の字ではない。
別に構わないんだ、目で見てすぐに覚えられる人もいるだろうから。でもみんながみんな「かく」理由を忘れると、それは少し寂しいような気がするんだ。
今の私も、段々と「かく」ことを忘れてるんじゃないかなってまたひとつ寂しくなる。