ただ上手いの何が面白いのさ

 今日は本当にくだらない話をする。
 愚痴というか負け惜しみというか、とにかく面倒な話だから苦手な方は見ないことを先に進めておこう。

 高校に入ってからはパタリと消えた、俳句の授業。好きでない人にとっては本当に必要のないものだったのかもしれないが、私はそういう授業が好きなうちの一人だった。
 他にも小説の内容を自分で書き換えてみようだとか、新聞の文を自分で作ってみようだとか、ある度に一人ワクワクしていた。

 しかし俳句の授業では楽しさと同時に、なんだつまらないな、そう感じる場面が多々あった。

 俳句の授業は小学校でも中学校の両方ともやった記憶だ。この記憶というのも曖昧なものだが。

 私は俳句を当時学校で習うということを、こんな風に考えていた。俳句とは昔昔ながらのものだ。見なくはないが、今の時代にありふれているかと言われれば違うもの。それであってなぜ今勉強し、今の私たちが俳句をかく必要があったのか。

 それは 昔にあった俳句というものを学んで、自然や季節に対する見方を知り、それでもって私たちの日常を改めて振り返る機会。そんなふうに思っていた。

 だから今の私たちの現代を意識し、俳句らしさも残した一句を私は詠んだのだ。

 先生はそれを見て面白いと笑ってくれた。
 私自身もよくできていると思った。

 そしてみんなが提出し終えた後、クラスでの投票があった。そう、誰の俳句が良かったかの投票である。私は少なくとも3、4人からは一票ずつ貰えるだろうと思っていた。

 しかし、結果は2人からの2票だった。
自分に対して、なんだとんだ自信家じゃないか、そうはもちろん思ったが。投票の多かった俳句を見て、少しつまらないなとも思った。
わかっている、何ムキになっているのだと、自分の作品を過大評価しすぎただけだろうと。

 もちろんそうだ、票を集めた俳句は確かに上手いのだと思う。しかし私はその俳句は、どこかネットで調べれば出てくるような、ただただ巧みな句、そんな印象を持ったのだ。どこか借り物の言葉のような。
 私が今いっている言葉がどれほど醜いかは知っている。

 そう、ただ悔しかった。
 こんなただ上手いだけの響きの良い俳句に負けた。こんなただ上手いだけの俳句の面白さが、私には分からなかった。

 本当にそんなこと思ったことあるの?
そう聞きたくなるほど、とても小中学生が考えているような内容ではなかったから。

 まあ、そんなくだらないことへのくだらない話。こういう文章になるとどうもぐちゃぐちゃになる。

 明日はもっと余裕をもって書きたいな。

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