「物語」
「若者の読書量が...」「読書しろ」という冷たい視線。もちろん読書にはメリットが多くあるというのは身に染みて分かっているつもりだけれど、私は別に読書でなくても良いのでは?と思う。一番大事なのは「物語」に触れることなんじゃないかい?と。漫画でも映画でもアニメでも、ドラマでも良い。そのツールは何でも良くて、物語に触れることがその人を構成する細胞ひとつひとつを少しずつ濃くしていく、というイメージ。一つ物語に触れると、その分一つ多く人生を歩むのと同じことだと最近ぼんやり考える。
「文学」とは何かという問題がある。どこまでが「文学」なのか。一般的には小説が文学だと思われがちだけれど、答えは人それぞれで。映像や絵画を「文学」の括りに入れる人もいるし、写真を「文学」だと言う人もいる。深く掘り下げると語源はラテン語のlitteraとその派生語のlitteraturaであり・・・と長く説明が続くが、どこまでを「文学」と呼ぶかは自由らしい。私は「文学」とは「物語」を持つものだと思っている。(写真なども物語を持っていると捉えることが出来るが、ここでは共通して目に見える物語。)
私が文学に興味があると気が付いたのは、安部公房の『赤い繭』に出てくる「彼」と出会った時だった。確か高校2年生の秋頃、現代文の授業で扱われた作品だった。初読の時、いつも通り「へー」という感じで特に興味も持たず淡々と黙読していたら、突然「彼」という単語が出てきた。彼?彼って誰のことだ?どこで出てきてた?と思ってページを戻してみてもいない。やっぱり突然「彼」が出てきている。「棍棒を持った彼」(これはただの警察官?なんか違う気がする)「彼は言う。「こら、起きろ。(略)それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ。」」(生きているだけで罪...わかる。今まさに自分が感じていること。身分差、疎外感。)そして極めつけ。「彼は繭になったおれを、汽車の踏切とレールの間で見つけた。最初腹をたてたが、すぐに珍しい拾いものをしたと思いなおして、ポケットに入れた。しばらくその中をごろごろした後で、彼の息子の玩具箱に移された。」(どいうことだ。モノとしてしか扱われない。モノに対する異様な自分の中の感覚、気持ち。モノを捨てられない自分。棄てられる赤い繭の男。)こんなに衝撃的な作品は初めてだった。括弧内は初めて読んだ時の私の心の声。結局「彼」が誰なのか分からず、それまで国語の復習をしたことはなかったのに(不真面目だった...)その日家に帰ってから初めて教科書とノートを見直した。気になって仕方がなくてネットでも調べ、翌日現代文の先生にも初めて質問してみた。「彼」はメタファーだった。この時初めてメタファーが何かを理解した。そこからは安部公房の作品を読みまくった。メタファーが沢山あって不思議な作品ばかりなので未だに一冊も理解できていない。「文学」に興味を持って、沢山本を読んだ。
でも思い返してみると私はそれより前から「文学」に興味を持つ要素は持っていたのだと思う。小学生の頃から便覧が好きで、授業中に話を聞かずに便覧を眺めて怒られたりしていた。便覧を眺めていて、太宰治のノートの写真に一目惚れ?した。何故かは自分でもよく分からない。「芥川龍之介」という文字で埋められたノートの一ページ。太宰さんの年表を見て、さらに惹かれた。私は多分そこからずっと太宰さんに惹かれ続けている。その関連で読んだ又吉直樹さんのエッセイで、今度は又吉さんに惹かれた。なんだろう。私には到底見えない色が、この人の目には鮮明に見えているんだろうな、という感じ。
もっと「物語」に触れようと思う。
なんだかよく分からない文章になったけれど、ただの日記です。とりあえず8月になったら課題から解放されるので、溜めていた小説を読みまくりたい。そして最近悩んでいること。私は小説が好きなのか小説を書く人が好きなのか?国語科の教員になりたいと思ったのはただの憧れなのかもしれない?自分のことが一番よく分からない。自分の意志をきちんと知りたい。
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