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理想の死に方

「申し上げにくいのですが...」
医師からの前置きの言葉に、私は全てを悟った。
「検査の結果、現在の医療では治療の施しようがない病気です。余命は2ヶ月と考えてください。」
なるほど、未知の病気で私は死ぬのか。死を目前にして、ある意味希少な存在になれたではないか。

「ただ、この病気は症例が少ないので、明確なことは申し上げられませんが...」
さすがに死ぬと言われると頭がふわふわしてきたが、続けられている言葉になんとか耳を傾ける。
「不幸中の幸いといいますか、まず治療薬がないので薬の副作用に悩まされることはありませんし、病状が悪化した際に体が痛んで苦しむようなこともありません。何も感じないままいつの間にか病気が進行し、眠るようにして安らかな最期を迎えられます。」



というような病気ならば、寿命で死ぬより嬉しいと感じてしまうのは私だけでしょうか。今のところ、私の理想の死に方です。
いざ本当に死ぬとなると、受け入れるまでに2日ほど無駄に過ごしてしまうかもしれませんが、きっかり2ヵ月後とわかっているのならば、最期に向けて必要な手続きをし、身の回りの整理をしたあと、割高になってもいいからあちこち旅行をしてお世話になった人へ挨拶へ行き、贈り物を送り、死の前日には家族と固い握手をかわした後、きれいな花と大好きな猫の写真で溢れた棺桶に自ら横になる。そして火葬の後は海に散骨してもらう(海への散骨は既に遺言書にも記載済みです)。


また、余命であれ、寿命であれ、
どちらにせよ死ぬとわかれば、自分の持っているお金は使い込んでから死にたいと思っています。周りの人間に「あの人はお金が無くなったから死んだのか」程度に思ってもらわないと、私の死因に関して悶々と考察されるのも気味が悪いからです。考えたところで、わかるはずもないくせに…
今死にたい人がいるならば、食べ物でも旅行でもなんでもいいので、お金は使い切ってから死んだほうがいいのではないでしょうか。
それができないうちは、恐らく、生きる楽しみも保留にしてしまっていませんか?そのせいで生きることが楽しくないと感じてしまっているかもしれません。

もし、余命を宣告されるより前に、生きることに疲れてしまった時。
自分に絶望し、世の中に絶望し、
死ぬと決めた日。
首を吊る前に、薬を飲む前に、線路に飛び込む前に。
私だったら、いつもご褒美の時にしか買わなかったフルーツタルトをお腹いっぱい食べ、高くて買えなかったワンピースに袖を通し、フォルダに残しておいたお気に入りの写真や動画をもう一度だけ見てから、
最後の幸せな思い出とともに死にたいなと思います。


そんなことをしているうちに気が変わって、生きることに逃げたって構わないと思いますよ?

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