如月
レポートを全て書き終え、クッキー缶を作り、『うみべの女の子』を観てぐちゃぐちゃになり、車校に通い、物語シリーズを生活の合間に見ては、こんな面白いアニメが存在するならやっぱり生きてておもろいかも、と思ったりした。
2月は、冷静に振り返ると生き急ぎすぎた月だったかも。ありがたいことに、大学が無いと、今日は何しよう、って日があって、(←これ、まじでありがたい話)せっかくの春休みを1日でも無駄にしたくなくて、やりたいことリストを開いて今日できそうなことを見つけて実行する。いつか作りたいと言っていた作りたかった料理を作る。そんな感じで、かつてないスピードでやりたいことリストに斜線が引かれていくのを見ていると、心地よい満足感と共に、ほんの少しの空虚感が、した気がした。これ、全部達成しちゃったらどうしよう、みたいな。私の達成したいことなんて〇〇食べたいとかどこどこ行きたいとか、それも海外とか宇宙とかじゃなくて少し遠い本屋とか、隣の県の海とか、そんなもんだから、いくらでも達成できちゃうのも怖い。だったら大きい目標持てばいいじゃんって、そんな単純な話でもない。
最近あまり泣いていない。怖いぐらいに、泣いていない。こんなにも死がよぎらない1ヶ月は今までに無かったので、私としても不思議な感じだった。深く考えることをしようとしないで、浅い思考でチャプチャプ楽しんでいるみたいな感覚、この感じはあんまり良くないなと思う。こうやって大人になっていくんだろうかと少し焦る。感受性が低くなり、ゲームが面白くなくなり、明日生きることを無意識に考え、無意味なことを避けるようになってしまうんだろうか。
気がつけば満月、というのは、あまり空を見上げていないことを指すので、余裕がないなあと感じる。それでも今日の夜の帰り道、私の眼は、CDジャケットのような散り方をする花びらを見つけた。地面で、雨に濡れ、泥にまみれていた。おかしな感想だけど、現実でもこんなに綺麗に散るんだ、と思った。その花びらが生きていたときにあったであろう場所に自然と目をあげると、それはそれは美しい椿だった。写真を撮っておけば良かった、と家に帰ってから思い出す。現実の方が汚くて、フィクションは美しい、という考え方が私の中で定石になっていると感じた。
恋人が恋人になって1年経ったらしい。こんなメチャクチャな時期に、長いこと一緒に居る、居てもらえるというのはそれなりに凄いことだろう。正直自分が抱いている感情がなんなのかずっと分からずにいるけど、これからもこの行末を見守っていきたいという気持ちはある。それに、私はかなり許されて好き勝手やらせてもらっているのだと思う。
その例の一つかもわからないけど、最近タトゥーを入れた。私が行ったところはかなり風通しの良いタトゥースタジオだったけど、やっぱり行ってみるまではアングラのイメージがあって、それなりにビビっていた。映画『渇き。』を見て途中で辞めたときや、ヴィジュアル系バンドにハマり始めのとき、ピアスの初めて開ける前と同じ種類の浅い呼吸、心臓を始めとした体内機関が狭く捩れながら持ち上がる感覚。慣れちゃいけないのだと思う。怖いところにえいっと踏み込む勇気って、安全に生きるためには必要無さそう。自分のことを好奇心旺盛だと思ったことはあまり無いけど、大事な決断ほど勢いでしてしまう人間だとは思う。
何一つ取り零すことなく、受け取って、抱えて歩けたらどんなに良かっただろうかと思う。意外と簡単にやってくる次の日の朝。睡眠は次の日を迎える儀式だと思っていた頃が懐かしい。外の光で付けっぱなしの電気が要らなくなる部屋。逆に、夕方の薄暗く、電気をつけないと生活に支障がで始める部屋。