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おいしいポン酢ができたなら。


日曜日に八百屋さんで柚子を見かけた。
3月のあたたかなお昼すぎ。
連れていた3歳の娘が
「みあ(か)ーん!」
と手に取った。

「みかんちゃうで、スッバーイよ、スッパーイ」

とか言いながら、
このシーズン最後の柚子かもなと思い、
買うことにした。

「こえ(れ)とこえ(れ)も!」
娘がもう2個足してくる。

3個買って満足して、
八百屋のおかみさんに

「あーとーー」
と、喜びを伝える娘に、

「かわいいねぇ」
と笑いかけてくれる。

気をよくしてニヤニヤクネクネする娘がかわいい。
自分はかわいいの第一人者で、
かわいいものはすべて自分のもの。
そんな世界の住人。

いつの間にかそんな子になっていた。

ちょっと前まではふにゃふにゃの小さい赤ちゃんだったのに。

今いる商店街は我が家から、
大人の足だと10分もかからない
なだらかな大きな坂を降ったところにある。

いつの間にかここへも歩いて
来れるようになっている。

抱っこされていた小さなあの子と
同じ生き物に思えなくて、
別の個体なんだろうと思えてくる。

あの時の、あの子はもういない。

いなくなるということは意外と日常茶飯事に起きている。
だからお葬式や卒業式で泣けなかったりする人は案外そういうことをちゃんと感じている人だったりするんじゃあないのかな。

ひとつ の単位を細かく切り取る感覚を持つ人は、いなくなる 経験はたくさんする。

誕生日を1年単位で感じれば、
尊い1日となるバースデーは、
誕生日を1日単位で感じる人には
多くの尊さのひとつにすぎない。

だからといって、お誕生日をお祝いしない理由にはならないのだけれど。

そして、今わたしのさげている藍染の袋のなかの3つの柚子。
これもまた、もうすぐいなくなってしまう。


「さぁ、今日は何をつくろっかー」

一体1日に何回呟くんだろうこのセリフ。

そして、娘に意味がわかっていよーがいまいが、
割と大きな声で考えたことを口にする癖はいつからついたんだろう。
この癖は娘が手から離れていったらなくなるのだろうか?
それともすごく大きい独り言を言う人に私は変わってしまうのだろうか。

こうして
のらりくらりと考えたり
ブツブツ言ったりしている脳内を
裏側だとすると、
その表側では
足でちゃんと坂を登り
手はちゃんと娘と繋がり

そして裏でも表でもないところから、
ヒュッとでてきたのは
今日の晩御飯の献立だった。

柚子の実はナンチャッテポン酢に
皮はナンチャッテ柚子胡椒に。

晩御飯はそのポン酢でチキン南蛮。

そうしたら、さっぱりワカメスープかな。
もう菜の花が出ていたから、人参をあえてサラダにしよう。
少し柚子のピールを効かせたドレッシングをたっぷりかけよう。

こうしてメニューは膨らんでゆく。

そして柚子はポン酢に変わり、
ポン酢はチキン南蛮に取り込まれてゆく。

決まってしまえばなんてことのない。
ありきたりなメニュー。

ただそこに、作りたいという気持ちが乗るというのはすごいことだ。

やっていることと、考えていることが
ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。
これは何かのエネルギーでも生み出しているのかな?
このぐるぐるの底から、急にポンっと飛び出してくるんだから、びっくりして愛おしい。

愛おしさと同時に、わたしは
「今日は何つくろー」と呟く人から
晩御飯を作る気まんまんの人に変わる。

変わった側から、帰って作るであろうポン酢の美味しさを想像して、
ポン酢に使う料理たちに想いを馳せる。

ポン酢煮、和物、酢豚、和風パスタ、もずく、和風ゼリー寄せ、しゃぶしゃぶ…

こうしてポン酢はいつも、すぐになくなってしまい、継ぎ足し継ぎ足しされてゆく。

私たちが緩やかに毎日変わってゆくように、
ポン酢も変わってゆく。

最初にあったものから、全く違う味になっていたとしても、それは紛れもなく今日作ったポン酢。

わたしがどんなにこの先変わって別物になろうとも、わたしはわたし。

続いていくことと、終わっていくこと。

料理をつくるとで
そのふたつがぐるぐるまわりだす。

営みってこういうことをいうんだろうな。

だからわたしは日常がARTだと思っている。
生きることが、
日常こそが、
結局はどこもかしこも創造で、
そこを見出したそのときからARTは始まるんだと、感じている。

あたたかな日差しの中で。


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