散り塵
なにか自分の裁量が大きく働く仕事をするのは実に心がスッキリする。
責任は自分にあるわけだし、自分の考えることが形になっていく過程が楽しいから。
この時間だけ自分は世間の中の人間ではなく、かけがえのない人間でいられる、そんな脆い高揚感の唯中にいる。
しかしその時間はひと時。
仕事が終われば税金や噂話や知らない人のニヒルに覆われてしまう。
だが仕方ない。
自分が生きていられるのは、自分の仕事をしていられるのはそういうものに覆われているからだ。
人の悩みなどは常に逆説的なものだ。仕方ないのだ。
今はまだ持っていない”なにか”に頼りながら生きている気がする。
もうすでに持っているものが”なにか”を忘れて生きている気がする。
こんな当たり前の事にすらつまづいてしまうほど弱っている。
「弱くてはだめだ。涙なんか流してたってなにも変わらない。」
こうやって幼少期から世間をSurviveしてきたツケがこれか。
”オトナ”に媚びるのも毒だな。
良い文章に浸かっているといい気分になる。
「良い文章を自分が書かなくてもいいんだ」って気持ちになれるから。
目の前の文士に身を預けることができるから。
”やらなきゃいけないこと”はいつも”やらなくてもいいこと”に先を越される。
このことに気づく22時頃。これから何ができるというのだ。安眠することすらできないじゃないか。
2年前に鑑賞した『Call Me by Your Name』をふと思い出す夕方が増えた。
「なんでもかんでも名前なんかつけようとするなよ」という思いが増えてきたからだろうか。
名前なんかよりそいつを知ってくれよ。
抽象的なところで繋がった感動というのはそう多いものではない。
だからこそこのクスリは中毒になる。
しかしこの繋がりは具体的な関係を築く事と比べて簡単であるからこそ、恐ろしくか細い。
このクスリを手にするときはいつもあばら骨が剝き出しである。
運命とか偶然とか、そうとしか言いようのない経験というのはあとからゆっくり染みてくる。と信じている。
そうしないと大事なものを見逃してしまいそうだから。
信じるというのはさみしくて痛いものである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?