儚いあたしとあした。

去年の春先から初夏のあたりだろうか。
高校時代のサッカー部の2個下の後輩とご飯に行った。

後輩が高校を卒業し大学生になったみたいで、元々交流があったので久しぶりに会った。
その子はいわゆる”大学デビュー”というものに成功したみたいで、授業終わりに飲み会にいったり色々忙しいみたいだった。

そんな後輩にこんな質問をしてみた。
「おぉ、なるほどね。俺はそういうのあまりしないんだけど、それって楽しいの?」
すると、後輩が、
「いやぁ、ぶっちゃけ大学生の”今しか遊べない”じゃないですか。大学卒業したら就職して、遊ぶ量が減っていって、家庭なんかできたら出来ないので。」

僕は驚いた。
この子にとって、”今”ってなんなんだろうか。
想定できる将来が前提の”今”なのだろうか。
だとしたら、この子は”遊べない将来”をこんなにはやく想定しているのか。
この子の中のモデルはだれなんだろうか。

この事例を一般化することはしないが、
僕の同世代は、このような意見が多いように個人的には思う。
その背景に何があるのかなんていう憶測は言わないが、ちょっと驚いた。
でも同時になんかちょっぴり共感する気持ちもあった。

僕はいつ死ぬかわからない。
もしかしたら、明日かもしれない。(おぉ、「アンビリバボー」のエンディングみたい。㎰ 懐かしい。。。)
”いつ死ぬかわからない将来”という想定をして僕は生きている。こんなにはやく。
だから、僕なりに”今”を生きようとしてるんだろう。
だから、ちょっぴりと後輩に共感した。
だけど、後輩のその考えにはどうしても同意できない。だって、将来なんて分かりっこないし、”遊び”なんてものは認識の違いでしかないから。
そんなもん年取ってみないとわからないだろ。


このエピソードと同時に最近考えているんだけど、
よく「自分の個性」という謳い文句が巷では流れてくる。渋谷とか行けばその衣を羽織っている人たちとたくさん出くわす。
もちろん、個性はある。
容姿や考え方、趣味など多岐にわたってまるっきり同じ人なんていないんだから。似ている人はいるけど。

そうなると、「私」っていうのはなんなのか。物質として違うのはそりゃわかる。
概念としてはかなり難しい。
昨日はハンバーグ食べたかったけど、今日はカツ丼を食べたい私。昨日と今日の「私」は別人か?
初めてnoteに記事を書いた私と、今こうしてダラダラと文字を慣れた手つきで打ち込んでいる私。果たして一緒だろうか。

さっぱりわからない。
「私」という概念って面白いなって漠然に思ってたけど、ふとこの動画をみてより面白くなった。(時間ある方はちょこっと聞いてみてほしい。https://youtu.be/IZLVyB79ONU
もっといろんな学問のフィルターをかければ、そもそも生死の境目はなんなのかとか色んな考えを知ることが出来るけれども、どれ一つ明確な解を導きだせていないとも思う。
それは、概念同士がぶつかり合っているだけに思えるからだろうか。知らんけど。

僕らは言葉というツールを使ってコミュニケーションしてきた。だからこその成果がたくさんある。このnoteというプラットフォームも然りだ。
概念が切り離されて、ふらふらしどこかに行きついたと思ったら喧嘩になる。
そのような拡張は基本的にはwelcomeな意見ではあるが、最近は「拡張されたモノっていうのはなんなのか」という問いに立ち返るようにしている。
色んなAIサービスがものすごいスピードで一般化されていくだろう。
だから単純な逆張りで、立ち返る。
そうすると、いかに自分の目の前の世界が不思議で謎に満ちているかにちょこっと気づくことが出来る。

僕たちは抽象概念にして世界の複雑性にケリをつけて、ロジックを組み立てていく。
そのスピードは計り知れない。人間よりものすごいスピードを叩き出すやつをつくってしまうくらいだ。
でも少しペースを落として。
世界の概念データベース(aka 巨人の肩)のおかげで遠くの景色を見れているが、ふと個人という単位で見た時、この世界の複雑性に何を感じるだろうか。

少し話が膨らんでしまって申し訳ない。僕は思考が膨らんでしまう傾向にあるみたいなんだ。(指摘を何回もされたし、僕自身その傾向にあるんだなと自覚している。)

このnoteで言いたいのはタイトルの通り。
儚いんだ。「私」とか「明日」とかっていうのは。
いくらでも抽象概念でケリをつけて、拡張できちゃうから。
そして、ケリをつけずにじっくりペースを落として考えてみよう。
謎に満ち溢れているんだ。あたしも、そのまわりのあしたも。

なにも掴めないからこそ、ぼくらは”頼りにならないなにか(=儚さ)”を頼りに生きていくんだろう。

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