”テレサ・テン”戦略
どうしても、今目の前にある”それ”を”それ”とみることが難しい。
”それ”には何を入れてもいい。
散歩中に見つけた梅の花でもいい。隣にいる人でもいい。通り過ぎるサラリーマンでもいい。
それらを見たときに色んな言葉が頭に浮かんでくる。でもその言葉が”それ”を忠実に表現できているかというとかなり微妙だ。
例えば、金曜日の夜21時に駅ちかくですれちがうサラリーマン。彼を見た時僕は「ヘロヘロしているな。お仕事お疲れ様です。」という言葉を想起する。でもその方は今から自宅で仕事をするかもしれないし、家族とのコミュニケーションに飽き飽きしているだけかもしれない。
僕が数少ない情報で彼の状態を推論したとて、実際とどのくらい解離しているのかというのを知る術はない。まぁインタビューするっていうのもアリかもだけど。
目の前の「存在」の実体がどうなっているのかを掴むことは限りなく難しくて、だから僕は数少ない情報を切り取ってその「存在」を自分の中で定義しておく。仮止めみたいに。
それが一旦は僕の中での”それ”になる。
counterfactualのような形で僕たちは論理を形成して、仮止めをしていく。
でもそれが仮止めでしかないということにちゃんと振り返れている人はどのくらいいるだろうか。
目の前の”それ”がどれだけ複雑性に富んでいるのかを踏まえて、接している人はどのくらいいるのだろう。
もちろんどこまで突き詰めても、仮止めをしなくては考えは進まない。考えることよりも目の前の”それ”に介入しまくって、実体を掴みにいくというのも大事だと思う。
加えて僕が大事だと思うのが、タイトルでもある通り、「テレサ・テン戦略」だ。
大変失礼なのは重々承知。
「時の流れに身をまかせ 戦略」と命名するべきだったと反省している。でも個人的には、「テレサ・テン戦略」の方が語感が良かったのだ。
どういうものかというと、まんま過ぎて引くレベルだが、
自分の中で推論をするのをやめて”それ”に身をゆだねるという気合い。
もちろん言語からはどうしても離れることは出来ないから、あくまで気合い。そういう心持ちに努めるという意味合い。
なんでもかんでも自分たちの都合の良い空間を作れるなんていう思想ではなく、
目の前にある木々や生物たちにもっと目を向けてみる。
都内のある公園の木々を切り倒すのではなく、都庁を切り倒すとかあったら不謹慎だけど笑ってしまうと思う。最高。
僕の尊敬する人があるお酒の席で言ってた、「頭で考えすぎだと思わない?」
今でも心に残っている。(その人の研究テーマとか、この言葉以上に深い文脈があるというのを忘れないでほしい)
加えて現在僕は国家試験の勉強をしているのだけれど、かなり空虚だなと感じている。
頭で考えすぎとはまさにこのことだなと。
実際に触れたり観察しないとわからないであろう概念や発見をあたかも知り尽くしたかのように振舞わなければならないからだ。
DNAの塩基配列を答える問題の配点が1点だぞ?なめすぎだろ。どれほどの尽力があったかを学校では教えない。
これがある種”それ”を”それ”と受け取っているとでも言うのだろうか。ふざけるな。
言語ゲームで僕らは思考しているのか?
言語ゲームで僕とあなたは繋がっているのか?
言語ゲームによる謎の点数配分で、”上下”が決まるのか?
ふざけるな。