モンティパイソンのスマパロット
念願かなってモンティパイソンのスパマロットを観劇してきた。
予想を遥かに上回る盛況ぶりと熱狂に度胆を抜かれた思いだ。
思えば、(当時)東京12チャンネルで放映されていた「チャンネル泥棒!快感ギャグ番組!空飛ぶモンティパイソン」を見て以来、日本にけるパイソン現象をつぶさに見てきた私としては本当に感無量の思いだった。
思えば、私がモンティパイソンに初めて出会ったのが中学校2年の時だった。
中学時代って、今思い返して人生というか人格のコアを形成する最も大切な時期だった思う。
そんな多感な時期に出会ったモンティパイソンは私の心の奥深くに強烈に刷り込まれてしまった。
思えば人生を棒に振るきっかけはこんなところにあったのか・・・と。
これが第一次モンティパイソンブームといえるだろう。それから映画「モンティパイソン・アンド・ホーリーグレイル」が制作されたのが第二次モンティパイソンブームだったと思う。この「ホーリーグレイル」こそが「スパマロット」の原型なのだ。
「ホーリーグレイル」も全国の映画館にかけられることはなく、渋谷のパルコ劇場だけで上映されており、そこに「密航」したのもよい思い出だ。
赤坂ACT劇場に観劇に訪れた観客層を見て驚いたのが圧倒的に若い女性が多いこと。
それも20代とか10代とかに見える客層が大多数なのだ。
当然、彼女ら彼らが12チャンネルのモンティパイソンはおろかホーリーグレイルさえ見たことないのではないか?
聞けば連日ほぼフルハウスだという。しかもネット予約を見ると売り切れの席もけっこう多かった。
一体、何がこれだけの集客の原動力になっているのかが気になった。
私は残念ながら芸能関係のことは疎いので出演している役者さんのファンなのかなとも想像してみた。
とすると、この人たちにモンティパイソン独特の、あのシュールでブラックな笑いが届くのか?
・・・と、ミスタービーンの時も秩父ミカドの時とも全く同じ心配をしている自分がいて笑ってしまう。
最も「毒」が弱いとされるミスター・ビーンでさえNHKで放映された時はカットされまくりだったし・・・。
当然のことながら私の心配はムダであることは証明された。
実に見事なアレンジだ。
英国独特というかモンティパイソン流のブラックなスケッチや表現をどうするか?
いつも課題はこれである。
ギルバート・アンド・サリヴァンの時に書いたように、日本でいう「笑い」の概念と英国の「笑い」の概念には大きく隔たりがある。
日本の笑いは、ほのぼのとした温かみと優しさがあるが、英国の笑いにはそういったものがない。
モンティパイソンの中にもところどころにそういった要素があるが、それらを如何に毒を中和しながらも、オリジナルを損ねることなく、かつ日本のお客さんを笑わせるか?
これが演出家の腕の見せ所でもある。
若い女性を中心とした客層からあれだけの笑いと歓声を引き出してみせたのは実に見事としか言いようがなく、この試みも十分に成功していることを物語っている。
毒の中和しつつもパイソンらしさも失っていない。
パイソンのお約束の一つにパンチラインの廃止がある。
原作「ホーリーグレイル」では、西暦932年のイングランドが舞台のはずなのに、最後にはなぜか1970年代の現代になってしまいアーサー王は、スコットランドヤードに歴史家(今回だったらムロツヨシが演じた役)殺害の容疑者として逮捕されるところで終わるw。
スパマロットでは、原作には登場しない「湖の貴婦人」とアーサー王が結ばれるというハッピーエンド。でも、時代設定が西暦932年のイングランドから2015年のジパング(ミカドの国!)にある赤坂ACT劇場のステージの上へと舞台が移ってしまう。
このやり方は十分「アリ」だと思う。面白ければそれでよいのだ!
毒が中和された部分として、まずハッピーエンドへの変更があげられる。
これはホーリーグレイルからスパマロットにトランスされた時点での変更点ではあるが、毒を中和するにはほどよい効果を上げている。
ホーリーグレイルでは、アーサー王は最後スコットランドヤードに逮捕されてしまい結局聖なる杯は手に入らない。
スパマロットでは、アーサー王と湖の貴婦人が結婚するというハッピーエンドで聖なる杯も目出度く見つかる。
次に、ローカルネタの挿入である。
スパマロットは、構成的におそらくオペレッタのように途中に自由にガラパフォーマンスを挟めるようになっている。
ガラパフォーマンスを挿入することによって、より自由で個性的な演出が可能である。
その一環としてロカールネタは欠かせないであろう。
秩父でのミカドでも実に巧みにローカルネタを挿入することによって、より観客に親しみを持たせることに成功していた。
冒頭に書いた「見事なアレンジ」とはこの辺のことを指している。
逆に、オリジナルを損ねないようにブラックネタの処理について。
パイソン得意の残虐描写である。
ブラックナイトの手足が取れてしまう、死体集め人、ランスロットの大虐殺、人間の首を食いちぎるキラーラビットなど。
これらの残虐描写は、極端な表現をすることによってギャグに変換できるという手法を駆使している。
血が流れるにしても、「いくらなんでも現実にありえるわけないだろう!」というくらいに大げさに大量に血を流すことによって、
なぜか残酷な場面は笑の場面となってしまう。
パイソン得意の手法である。TV版モンティパイソンでの「サラダの日々」、
さらには映画「ミーニングライフ」での内臓売買スケッチなどが有名だ。
メル・ブルックスなども得意にしている手法である。
これは舞台で行うことによって、よりおかしさが強調されている結果となっているのだ。
日本での何度かのブームを迎えて、その度話題になり、またすぐに下火になる・・・の繰り返しだったモンティパイソン・ブーム。
最近ではすっかり話題になることも少なくなっており、日本でのモンティパイソンの灯も消えてしまうのか・・と寂しく思っていたが、そんなことはない!日本でのモンティパイソンの灯はまだまだ消えない!ということを強く実感した。
さて、以前から私の課題でもある英国文化の精神的背景に流れるユーモアの精神の系統を追うという研究の面からも、今回のスパマロットは興味深いものがある。
英国独特のユーモア精神は、他国ではあまり見られない独特な存在である。
源流はどうもマザーグースあたりにありそうで、それがルイス・キャロル、シェークスピアなどにも受け継がれ、それがギルバート・アンド・サリヴァンのオペレッタを生み出し、ホフナング音楽祭があり、その流れの直下にあるのがモンティアパイソンやミスタービーンであると説いた。
特に、モンティパイソンのメンバーを生み出したケンブリッジフットライツの創世記においてウイリアム・ギルバートが関与しているというところまでは突き止めた。
モンティパイソンの音楽面担当のエリック・アイドルやパイソン関係の演出を多く手掛け、オペラなどの演出家として有名なジョナサン・ミラー(ケンブリッツフットライツ出身)らはギルバート・アンド・サリヴァンのオペレッタを相当意識しているフシも見られる。
特にミラー演出の「ミカド」では、エリックがココ役を演じているという事実。しかもダブルキャストでミラー自身もココを歌ったこともあるという。2人は嬉々として処刑リストのアリアを歌ったという。私が演出家なら「ミカド」の中で絶対エリックに「Always looking brightside of life」を歌わせるのだが・・・・。
これぞギルバート・アンド・サリヴァンとモンティパイソンがクロスオーバーした歴史的瞬間であった。
そして今回のスパマロットである。モンティパイソンに、より音楽的テイストを加味した場合、予想通りモンティパイソンはギルバート・アンド・サリヴァンの方向に歩み寄りを見せた。
スパマロットをギルバート・アンド・サリヴァンのオペレッタとして、仮に19世紀のサヴォイ劇場でかけた場合、聴衆は間違いなくサヴォイ劇団のオペレッタとして認識するであろう。
ギルバート・アンド・サリヴァンの定番として、パッターソングとペパーポット、さらに伝統的マドリガルがある。
スパマロットで歌われるキャメロットの歌は正にパッターソングに当てはめることができよう。
ではペパーポットは?
もちろんスパマロットに出てきている。ガラハット卿の母親役とかww。
さらにサー・ロビンのトロヴァドゥール風の歌は16世紀風のマドリガルに相当するものとなっている。
このようにスパマロットはちゃんとギルバート・アンド・サリヴァンしているのだ。
ある意味、ここはモンティパイソンが目指した一つの到達点だったのではあるまいか?
このスパマロットの完成度の高さを見てそう思わずにいられない。
一番ニヤリとしているのはウィリアム・シェヴェンク・ギルバートその人に違いない。
スパマロットではアーサー王は湖の貴婦人と結婚し、ランスロットはハーバート(カマ姫)と結婚することに・・・。
私にはこれが「ミカド」でのナンキプーとヤムヤムの結婚とココとカティシャの結婚とダブって見えてしまうのである。
同時にG&SとMPの結婚でもあるのだ。
スパマロットの冒頭、歴史家がイングランドを紹介しようとすると、一曲丸々あの名曲「フィンランド」が歌われる。曲中にもフィッシュスラップダンスが登場するのに気が付いている人がどれだけいるだろうか?
そこで歴史家が言う。
「フィンランドじゃなくてイングランド!長えよ!ボケで丸々一曲は長えよ!」
そう、ブリティッシュジョークを舐めてはいけない。
「長すぎる」か「短かすぎる」のどっちか。とにかく極端なのだ。
このフィンランドボケを見て思い出してしまったのが「ホフナング音楽祭」で上演された「ベルシャザールの饗宴ハイライト」だ。
1961年のホフナング音楽祭での出来事である。
英国の大作曲家であるサー・ウィリアム・ウォルトンは作曲活動を完全に引退しイスキア島に隠居していた。
しかしホヌナング音楽祭は彼を強引に音楽祭に引っ張り出し、彼の最高傑作のひとつである大曲「ベルシャザールの饗宴」のハイライトの指揮をさせようというのだ。
大オーケストラにソリストに合唱団をフルに備え、いざ本番。
ところが、ハイライト版の演奏とは、わずか一音符。セリフも「Slain!」の一言だけ。
「ベルシャザールの饗宴」のラストでベルシャザール王が殺される場面のたった一音だけなのだ。
たった一音だけ、時間にして1秒くらいのためだけに、これだけの手間と準備をかけてしまう・・・。
それらを全て受け入れる聴衆の度量。
ブリティッシュジョークの恐ろしさ。というか神髄である。
「ベルシャザールの饗宴」 抜粋(1961年 ホフナング音楽祭)
https://www.youtube.com/watch?v=oR7u6s_QKjk
ブリティッシュコメディの特徴として、登場人物にだれ一人まともな人間がいないのもお約束だ。
全員がミスタービーンみたいなキャラなのだ。
そして、最初から世界観自体がアホだというところも。
ヤシの実を叩いて馬の足音を立てているだけなのに馬だ!と言い張るバカな王はいるわ。
手足を切り取られてもピンピンしている騎士とかwww。
「なぜ?」と疑問を持ってはいけない。
「ニシンで木を切り倒すってどういう意味だ?」とか「ブラックナイトはなぜ手足を切り取られても平気なのか?」とか。
疑問を持った時点で、その人にはブリティッシュジョークを享受する素養がないと判定されてしまうのだw。
スパマロットもご他聞にもれていない。
その意味からもスパマロットは、まぎれもなくブリティッシュジョークの正統的な継承者なのは間違いないのである。
あと、「ホーリーグレイル」から「スパマロット」にトランスされる間にカットされてしまったシーンがあるのだが、私の一番大好きなシーンである。これをスパマロットの舞台でぜひ見たかった。
1つめはランスロットがハーバート(カマ姫)を救いに現れるシーン。
この動画でいうと2分あたりから。
ランスロットがさっそうと城に向かって走ってくる。それを見ている衛兵。そして再びランスロットの走る姿。またそれを見る衛兵の不思議そうな表情。その2つのシーンが何度も繰り返される。つまり、ランスロットがいくら走ろうとも全く前に進んでいない。BGMはドラムの音。次の瞬間にはランスロットは衛兵の目の前に切り捨てる。文字で説明しても全く面白くない。ぜひ動画で確認して欲しい。何ともバカでマヌケである。これがパイソンの笑いなのである。
パイソンたちの一つのやり方が、自分たちの載っているメディアを徹底的におちょくることである。つまり、ここでは映画そのものをオチョクッているのである。
そう、その手法を舞台に置き換えたらどう表現されるのかが見たかった。
2つめは「死の橋」の場面。ホーリーグレイル最大の見せ所である。
聖なる杯の探求を目前にしてアーサー王が最後に迎える試練が死の橋だ。
そこにいる死の橋の番人の3つの質問に答えられなければその者は永久に死の世界に彷徨うことになる。
ここで、冒頭に出てきたツバメが出てくるのだ。
パイソンのギャグの一つの特徴がしこつさだ。
誰も完全に忘れているであろうツバメの話題をここで出してくる。最高のフィニッシュホールドだ。
死の橋の番人がアーサーに投げかけた3つ目の質問がこうだ。
「成長したメスにツバメの飛行速度は?」
それに対しアーサーは
「そのツバメはアフリカとヨーロッパどっちだ?」
と逆に死の橋の番人に質問する。
すると番人は
「いや、そこまでは知らない・・・」
と、死の世界へと飛ばされてしまう。
これもスパマロットで見てみたかった。w
死の橋での問答
参考:合わせてお読みいただければより理解が深まります。サー・アーサー・サリヴァン「ミカド」をめぐる考察と 秩父における公演の歴史的意義