映画「ワンダーウーマン1984」レビュー
注意!映画「ワンダーウーマン1984」の重大なネタバレを含みます。映画をご覧になっていない方はご注意ください。
コロナ以外にも様々な事情で約1年の延期の後やっと公開された「ワンダーウーマン1984」。
全米公開が12月25日にHBOでの配信と同時に劇場公開。そのHBOが視聴できない日本では一週間早く公開となったという事情がある。
DC映画では現在DCEUという共通の世界観に沿った形で映画が作成されている。
「スーパーマン マンオブスティール」から始まり「バットマンvsスーパーマン」、「スーサイドスクワット」「ワンダーウーマン」「ジャスティスリーグ」「アクアマン」「シャザム」「バーズオププレイ」に続く作品がWW84である。
しかし、「JL」があまりヒットしなかったことから、現在ではユニバースに拘らず単独作品としても独立させているような作りになっている。
そのユニバースの時間軸としては前作「ワンダーウーマン」の舞台が1918年で、今作はそれに続く1984年という設定になる。
やはり前作との対比が多く、前作を知ってこそ最大限に楽しむことができる内容となっている。
まず、当初、前作で死亡したスティーブ・トレバーを再登場させるという設定に必然性があるのか?という疑問があった。
しかし、その疑問は映画全体のテーマと連動して説得力をもって提示されるのだ。
今回の映画にはスティーブ・トレバーという存在は必要なアイテムであった。
タイムストーンという、人の願望をかなえる石。マーベル世界でのインフィニティストーンのようなものだ。
半信半疑ながらもダイアナが願った、たった一つの願い。愛するスティーブにもう一度会いたい。
その願いの通りスティーブが復活する。
前作でダイアナはスティーブに「愛している」と告げることができなかった。なので、ダイアナは「愛している」を何度も何度もスティーブに告げる。
これも対比である。
前作では涙を見せなかったダイアナ。今作では何度も何度も涙を見せているのも対比の一つだろう。
前作でのスティーブとの悲しい別れ。今作でも繰り返される。
しかし、前作でも今作でも皮肉で悲しいことにスティーブの「死」と「消滅」がダイアナのスーパーパワーの覚醒と復活をもたらす。
本当に悲しく皮肉な描写である。
ドリームストーンにより願いが叶えられると、その人の大事なものが失われるという設定。
ダイアナはスティーブを得た代わりにパワーを著しく失ってしまう。
このままでは世界を救うことができない。
それを悟ったスティーブがダイアナを説得する。
前作ではこうダイアナを諭したスティーブ。「僕は今日を救う。君は世界を救うんだ」。
そして今回はこうだ。
「世界を救うには僕が消滅するしかないんだ。願いを取り消すんだ、ダイアナ」
しかし、なかなか踏み切れないダイアナ。
ここで思い出してしまうのがベートーヴェンの交響曲第9番の最終楽章冒頭だ。
第1から3楽章までの主題が出てくるとべートーヴェンは「友よ、このような音ではない」とそれまでの主題を否定してしまう。
しかし、甘く切ない第3楽章だけはなかなか否定できずに躊躇する。しかし彼は最後には決然と3楽章に別れを告げて真の歓喜へと向かう。
正にこの映画のダイアナの姿そのものである。
真のヒーローはスティーヴ・トレバーなのかもしれない。
細かい対比はほかにもある。
1918年の世界で、初めて見る回転ドアに戸惑うダイアナ。今作では、初めて見るエスカレーターに戸惑うスティーヴ。
前作でスティーヴは飛行機を操縦しながら積まれた爆弾に銃弾を撃ち込み自爆して一人で最期を迎える。悲しくも寂しい飛行である。
今回も彼は飛行機を操縦している。今回は一人ではなく横に愛するダイアナがいる。そして、2人の乗った飛行機は花火の中を通過する。そう、これも対比である。
爆弾に銃弾を撃ち込んだ時もすごい火花だった。悲しくも不幸な火花だ。今回は楽しく何と幸福な火花なのだろうか。スティーブが最後にダイアナに告白を告げた時に時間がないことを悔いていた。時間さえあればダイアナともっと幸福な時を過ごせた。
2人のつかの間の幸福な時間を実現させることができたのである。
こういった対比は両作品を見ることによって楽しむことができる。対比というよりは前作に対するセルフオマージュともいえるだろう。
対比はまだある。
今回のヴィランであるマックス・ロード。その彼のドリームストーンへの願いは「ドリームストーンそのモノになること」。
つまり彼自身がドリームストーンになること。
これは前作のヴィランであるアレスがダイアナに言った言葉「ゴッドキラーとは剣ではなくお前自身なのだ」を思い起こさせる。
つまり、神をも滅ぼすことができるとされるゴッドキラー。それはダイアナ自身であったこと。
これも対比である。
さらに、今回のダイアナの武器は剣ではなくヘスティアの縄である。
なぜなら剣は前作でアレスによって折られてしまっている。
このヘスティアの縄でなければ、あのラストでの解決は実現できなかったのだ。
ヘスティアの縄で縛られた者は真実を吐露するしかない。
さらに、前作でのダイアナはルーデンドルファーとアレスという少なくとも2人のヴィランの命を奪っている。
もしかしたらダイアナとの戦闘で命を落とした兵士がいたかもしれないが少なくとも描写されていない。
今作ではダイアナは一人として命を奪っていないことに気が付く。誰一人の命を奪わずに世界を救った。
これはヒーローとしてのダイアナの成長でもあり、ヘスティアの縄を武器にしたからこその成果であろう。
ただ一つの例外。失われた命があるとしたら復活したスティーヴの消滅。いや、スティーヴの命は失われていない。それはダイアナが単独で飛行能力を手に入れたことによってスティーヴの命と同化したことを意味している。なぜなら彼女は飛行機を操縦して自由に空を駆ける彼にこう言っていた。
「私にはできないことだわ」
それに対してスティーヴは「風が教えてくれる。風になるんだよ」。
ダイアナはスティーヴの言葉通り風に教えてもらって風になって空を飛翔していた。スティーブの命と同化したからこそ手に出来た飛行能力なのだ。
そして、お約束のポストクレジットというかミドルクレジット。
これこそパティ・ジェンキンス監督からの最高のプレゼントだ。
劇中ダイアナによって語られる伝説の戦士アステリア。
そのアステリアが最後に登場する。
そのアステリアを演じるのが、何とTVシリーズ「ワンダーウーマン」で主役を演じたリンダ・カーター。
要するに「ウルトラマン」でいえばハヤタ、「仮面ライダー」でいえば本郷猛みたいな存在である。
もう涙せずにはいられないほどの感動である。