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【学芸ノート】えらいもんになりやがった―― 新美南吉の墓

 新年おめでとうございます。
 新美南吉記念館館長の遠山光嗣です。
 これからこのnoteに新美南吉や記念館のことを時折書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 新美南吉の墓は、半田市柊町の市営北谷墓地にあります。新美南吉記念館では命日、誕生日、春秋の彼岸、盆、正月前などにはお参りして綺麗にするようにしています。その際、供花を持参しても二対ある花筒がいっぱいのことがよくあり、この年末もそうでした。
 花を供えてくださるのは、実家の渡辺家以外にも南吉ファン、それに墓地近くの花屋「花のすずき」さんもいつも気にかけてくださっています。

 このお墓は昭和35年に遺族によって建てられました。高さ55㎝の基壇の上に高さ145㎝の平たい石を置き、正面に「新美南吉之墓」と刻んだ立派なものです。
 お参りする際は、ぜひ裏側もご覧になってください。北原白秋門下の兄弟子である巽聖歌(明治38~昭和48)が寄せた墓碑銘が刻まれています。

法名釈文成 俗名 正八
昭和十八年三月二十二日歿行年三十一才
童話、詩、小説の作家歿後声明高まる
          親子渡辺多蔵
昭和三十五年十二月     隆二


 南吉は浄土真宗の門徒の子なので戒名ではなく法名で、頭に「釈」がつきます。「文成」の意味は「文が成る」、つまり文学への志望が成就したということでしょう。親交のあった光蓮寺の本多忠孝ただなり師が考えたといわれています。

 亡くなった年齢は31歳。「29歳じゃなかったの?」と思われるかもしれませんが、それは満年齢の話。生まれた時点で1歳、その後正月を迎えるたびに1歳ずつ増える数え年では31歳となります。

 建立者は「親子渡辺多蔵 隆二」の連名になっています。多蔵は南吉の実父ですが、隆二たかじはご存じでない方がほとんどでしょう。隆二は戦死した南吉の異母弟渡辺益吉の妻芳子の再婚相手です。多蔵は益吉の忘れ形見である孫の矩夫のりおを渡辺家に引き留めるため、まだ若かった芳子に婿をとらせたのです。

 二人の名前で建てられた墓ですが、父の多蔵は昭和34年5月に亡くなっているので、実際には墓を見ていません。費用は、多蔵から南吉作品の著作権管理を委任されていた巽聖歌が送ってくる印税収入で賄われました。

 南吉が第一童話集『おぢいさんのランプ』の印税を手にした際、多蔵は「『正八はえらいもんになりやがった、年に千三百円も儲けやがった』としみじみ云った」(昭和16年12月3日 新美南吉日記)といいます。戦後は聖歌の働きもあって「ますます声明高まる」ことになった南吉。作家志望の息子の行く末を案じ続けた父は、亡子の夢の成就を喜び、その努力を労うつもりで家族墓とは別に立派な墓を建てようと思ったのでしょう。そしてもし墓の完成を目にすることができていたら、きっとこう言ったことでしょう。 ――正八はえらいもんになりやがった。

 新美南吉の墓は昭和35年の建立以来、60余年に亘って渡辺家の手で守られてきましたが、昨年(令和6)7月に、今後の管理は市に託したい、という遺族の申し出により、半田市が寄贈を受けました。いまは新美南吉記念館が管理をしています。全国の南吉ファンの皆様、半田市へお越しの際はぜひ北谷墓地で南吉の墓前に手を合わせ、父子の思いを感じてみてください。

 (遠山光嗣)


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