人生経験の深さについて
人生経験の深さについて むずかしいが、たとえば育児経験などが身近にあったかどうかで、人の経験値は上がってゆくという面はあると思う そしてそれを自分が直接体験しなくても、間接的にせよきちんと感じ取れるならば、それなりの経験値になる 関係ないこととしてスルーしてしまうと、あとでツブシが効かなくなるのではないか
自分が二十歳くらいのころ、初めて接客業をやって、「カウンターの向こう(客)とこちら(スタッフ)の世界はこんなに違うのか」と思ったことがある しかし片方しか知らないでずっと生きてゆく可能性もあって、そうなるとものの見方が全く変わってしまうだろう
たぶんそういった柔軟性がおよそ三十代に入ると徐々に失われてしまう 社会的に良くも悪くも安定してゆく時期でもあるし、知らないまま固まってしまうとつらい
たとえばフェリーニ「道」、あれはザンパノの物語なのだが、「分からなかった」人間がさいごに「分かる」というその一点に収束してゆく話である ああいうことが人生に起こることはあるが 逆にそれが起こらないということもありうる
もし、そういうことが起こればそれは一つの啓示 英語でいえば revelation 啓かれ=曝露され(reveal)、びっくり驚くということになる
それがおそらく起こらない場合は見逃しているのかもしれない 感じ取ることができないから見過ごしてしまう 感じてしまうと面倒臭いのだが、見過ごしているとずっと負債としてたまってゆき ツブシが効かなくなる
その面からみて 若さの価値というのは、惰性にまかせて見過ごしてしまうよりも感じてしまうというナイーブさにあるのかもしれない あるいは、そのナイーブさをどのように位置づけてつないでゆくのかということか