居酒屋無法者現る
お酒がほとんど飲めない。
味が嫌いなわけでは無いのだが、アルコールを摂取すると、すぐに酔いが回ってしまうのだ。
吐いてしまうこともしょっちゅうある。
そんな僕でも居酒屋に行くことは大好きなのだ。
色んな料理や飲み物が置いてあって、あの楽しい雰囲気が好きだ。
ここでお酒が強かったらもっと楽しめるのだろうなと考えることもある。
居酒屋といえば、ワイワイガヤガヤと騒がしいイメージがある。
色んな人たちがそれぞれ、仕事の愚痴を吐いたり趣味の話で盛り上がったりと楽しんでいる。
静寂とは程遠い空間である。
だが僕は過去に一度、居酒屋が一瞬にして静まり返る光景に出会ってしまったことがある。
話は3年ほど前に遡る。
当時僕は京都で社会人として働いていた。
某ホテルレストランの社員として3年間勤めていたのだ。
その職場の中でできた市川という1人の友達がいる。
彼はそのレストランでアルバイトとして働いていて、僕よりも一年ほど前から在籍していた奴だった。
この市川という男はすごくいいやつなのだが、急に予想のつかない行動を起こすなかなかの曲者であった。
以前も「イルカショーの主役は誰?」というタイトルで彼のことをお話しさせてもらったので、よかったらそちらも参照していただきたい。
彼は顔面に爆弾を抱えている。
その容姿と標準語で話す純粋なやつという面から、職場でもいじられキャラとして常に誰かから雑ないじりを受けているような奴であった。
僕はアルバイトの人達の中でも市川とは断然仲が良かった。
プライベートでは2人で飲みに行くことも多かった。
ある日の仕事終わり、その日も勤務先から近くの居酒屋で市川と、同期の女の子の中村というやつと3人で飲んでいた。
どのような飲みの席にでも市川がいたら、必ず市川いじりに発展してしまうのだ。
その飲みの席でも職場と同様、僕は市川をいじり続けた。
どんな雑なフリをしても必ず彼は行動に移してくれる。それが我々を飽きさせず、ずっと楽しい雰囲気を作ってくれるのだ。
そんないじりがしばらく続く。
その中で適当に僕が「市川、しばらく"いちこ"っていうオカマキャラで飲んでや。」などと振ってみると
「はああ〜い!いちこよおお〜ん!」
「なんちゃ〜ん!いっぱい飲まなきゃダメよおお〜ん!」
このように何でも乗っかってくれた。
時間にすると30分ほどの間、彼はいちこという謎のキャラをずっと全うしてくれた。
我々が、もうそろそろええよっていうタイミングは何回もあったのだが、何故か彼は辞めようとせず完全に"いちこ"というキャラに憑依し続けた。
おそらく彼には、しっかりとその世界に入っていってしまう癖がある。
その間はほとんど周りが見えなくなるのだ。
だから仕事でもしょっちゅうミスをするのだ。
…まあそれは置いといて
こういった市川の人間性を僕はひどく気に入っていたのだろう。
市川のいじりをつまみに酒は進む。
次第に市川へのフリが雑になり始めていた頃だった。
僕は市川に「ジェットコースター乗ってると思ってリアクションしてや」という無茶振りをしてみた。
別に面白いとかそんなものではなくなっている。
単に暇つぶしみたいなものである。
そして市川も市川だ、「分かった」と拒む様子もなく二つ返事で応じる。
「じゃあ俺ジェットコースターの音やったるから、ガーって落ちた瞬間リアクションしてな。」
「オッケー」
何の時間やねんこれ。
酒が入っていなかったら絶対にやらない遊び。
でも飲みの席では意外とこういったくだらないノリが楽しかったりする。
そして、市川の妄想ジェットコースターが始まった。
僕「ほんじゃ行くで?
タタタタタタタ(コースターが上がる音)」
市「うわー怖いなー!乗らなきゃ良かったよおー!下見れないーーー!」
無論、ジェットコースターの登り中は下見えへんわバカ。
僕「そろそろ落ちるでーー?タ、タ、タ…ブワァーーーーーー!(落ちる音)」
僕の発した落下音と共に市川が、最大のリアクションを取った。
さて、落下中の市川はどんな反応を見せてくれるんだろうな。
ワクワクが募るばかりである。
しかし、その期待とは裏腹に、彼の取ったリアクションは我々が想像していたものとは遥かに違ったものだった。
「ゔわあああああああああああああーーーー‼︎」
店中に一斉に響き渡らせる爆音奇声。
その声が轟いた瞬間、あんなに賑やかだった店内が一瞬にして凍りついたような静寂に包まれた。
そこでやっと、市川も我にかえる。
周りを見渡すと、何事かと心配したような表情で他の客が我々に注目していた。
そして数秒後、我々の席に向かって1人の店員が歩いてきてこう言い放った。
「すみません、もう少しお静かに楽しんでもらえると助かります。」
…しっかりと怒られた。
ジェットコースターのリアクションをやってみようと言っても、こういった飲みの席で出していいデジベルには限度がある。
その限界を市川は平気で超えてしまったのだ。
おそらく周りの人達も、人が倒れたのか?それくらいの騒ぎだと思ったことだろう。
だって、あんなにごちゃごちゃした空間の居酒屋が、ほんの一瞬だけ静まり返ったのだから。
市川の暴徒に呆れた様子を見せる僕と中村。
叫び声をあげたのは市川だとしても、周りから見たら僕たちも同罪なのだ。
冷ややかな視線を受け始める。
それに反し僕は市川に怒りの矛先を向けた。
何故あんなにも大きな奇声をあげたのか?
常識の範囲内ってあるやん?
「マジでお前なんであんなでかい声出したん?」
そう追い詰めていくと、顔を真っ赤にした市川が浮かない表情で口を開いた。
「ごめんなんちゃん、俺、声のボリュームの調整できないんだ…」
んんんんんんんアホなのおおおぉぉぉぉぉぉ⁈
声のボリュームの調整できないって何?
じゃあ普段どう生活してんのそれ?
生きづらいやろそんな奴。
お前就職面接とかそれで失敗してきてない?
てかそもそもその顔やと書類審査で落とされてるか。
その答えを聞いた僕は全身の力が吸われたように呆れ果てた。
もう何なんコイツ?…その一言に尽きる。
どこにも向けようが無い怒りが軽く込み上げてくる。
ジェットコースターに乗ってることを想像しすぎてその世界に入り込んでしまっていたのだろう。
だから実際落ちたぐらいの声を荒げてしまったのだ。
もうどうしようも無い馬鹿なのである。
当然、我々はその後も長居しづらい空気が漂った。
店員からしても、こんな奴ら絶対にいてほしく無い。
今厨房は僕たちの悪口で溢れかえっているだろう。
その場の空気を察知さした僕たちは、さっさとその場の会計を済ませ店を変える他なかった。
飲み会の帰りに僕は思った。
「はあーあ、いちこで終わらせておくんだった。」
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