「天気の子」のここが好きだなぁ
ハロー全人類。天気の子は観ましたか?
まだ観てない愚かな人類はさっさと観てほしいんですけど、インターネットを見てると賛否両論悲喜こもごも、2つに別れて戦争でも始めるんじゃない?ってくらい意見が別れてますね。
まぁ、別にいいんですけど、ボクは賛で喜なのに、インターネットでは否で悲が多い?みたいな?単にボクが目についてるだけかな?って感じなので、備忘録というか、自分がこう感じたなぁみたいなものを書いておこうかな、って。 Twitterは割と定期的に消しちゃうからね。
当然ですが、ハチャメチャにネタバレだし、初回はネタバレ無しで見て欲しい派閥筆頭なので、映画はもちろん、小説、パンフ等を見てから下記を読んでほしいです。あと、メチャクチャ長いんで、いい感じに斜め読みすると時間の無駄が少なくていいかもしれません。
・あらすじ
島から東京に家出してきた16歳の少年「森嶋帆高」。東京に身寄りもなく、職も金もない彼は東京で路頭に迷いますが、なんだかんだでいい人「須賀圭佑」と「夏美」に拾われ、住み込みの編集バイトを始めます。
バイトで充実した日々を過ごしていたある日、東京で初めて優しくしてくれた女の子「天野陽菜」が、あからさまに胡散臭くえっちなスカウトマンに連れられていた様子を見た帆高は、スカウトマンから陽菜を強奪、拾った拳銃で発砲かまして逃げ切りに成功します。
話の流れで陽菜がネットで噂の「100%の晴れ女」と知った帆高は、親がおらず生活費が欲しい陽菜の為、陽菜の弟「天野凪」を含めた三人でインターネットビジネス「お天気届けます」を開始、順調に収益をあげる事に成功します。
しかし、ビジネスを続けるうちに陽菜の体が透けている事が判明。実は、陽菜の晴れ女体質はある神社に「明日晴れますように」と祈った事で陽菜と空が繋がった結果であり、その力を使いすぎた為に天気が狂い、最終的には陽菜が人柱にならないと鎮まらない程の異常気象が劇中の東京を襲います。
折悪しく発砲事件の容疑者として帆高は警察に捜索され、須賀圭佑は未成年誘拐の疑惑をかけられ、天野姉弟は児童相談所に引き渡されそうに。怒涛のように襲い来る現実の様々な問題から帆高と天野姉弟は逃避行を決意、最終的に帆高は警察に確保され、陽菜は消え、凪は児相に送られ、天気は回復します。
その解決を納得できない帆高は警察署から脱走、様々な障害を乗り越え踏み越え陽菜がかつて祈った神社に到達し、自身は「もう一度陽菜に会うこと」を願い、人柱となった陽菜に会いに行きます。
狂った天気の代償として消えた陽菜を地上に取り戻した事で、天候は再び大混乱。東京を集中豪雨が襲い、作中時間で3年間降り続けたままに。
3年後、島に送還された帆高は高校卒業と共に再び上京、陽菜と再会し「大丈夫だ」と伝えてエンディングになります。
今一つわかったことは、自分にあらすじを簡潔にまとめる能力が欠如しているという確かな事実です。
・ストーリーについて
天気の子のストーリーについて、よく指摘される(と自分が感じている)点が2つあります。1つが所謂「セカイ系」という指摘。もう1つが「物語があまりにも行き当たりばったりだ」という指摘です。
前者に関しては正直語るほどの知識がなく、その旨の指摘は世に氾濫していますのでそちらで補完していただくとして、後者の指摘に関して見ていくと、正直、その誹りを免れる事は難しいな、というのが本音です。
例えば、悪質なスカウトから陽菜を救い出す際、大人の暴力に対して「たまたま拾った拳銃」による反撃により窮地を脱します。直前に不正な拳銃が検挙された旨を伝えるニュースが背景として挿入されますが、肝心の捨てた本人とされる「柴田」に関しては徹頭徹尾触れられる事がありません。彼は帆高が「圧倒的な暴力に対抗する分かりやすい記号」としての拳銃を与える以外のあらゆる役目を劇中で与えられる事はありませんでした。
また、立花冨美は、唐突に「お彼岸」「雲の上の世界」「煙に乗って帰ってくる」という概念を帆高や陽菜(を通じて私達観客に)説明し、また、3年後の世界では「(狂っていた世界が)元に戻っただけかもしれない」と帆高に言うために再び現れます。そもそも、「お彼岸」「雲の上の世界」「煙に乗って帰ってくる」という概念が本筋に全く絡んでこない。「死んだ人間が雲の上の世界に行き、お彼岸には迎え火の煙に乗って帰ってくる」という話を天気の子に当てはめると、積乱雲の上の世界の生き物が実は死んだ人たちみたいな話になる。そういう設定なのか?分からない。
前作(前作?)の主人公である立花瀧と宮水三葉に関して言えば、もうスターシステム使いたいだけだろと、形だけのファンサは止めてくれと言いたい程にぽっと出て来て消えていきます。「これを言う(する)人間は必要だけど、別に誰だって良い」に押し込んだ形ですね。いる?本当に??
全然関係ないんですけど、今作の作中時間が2021年。君の名は。が2016年(瀧くん視点)だった事を考えると5年後の世界なんですが、2013年には彗星から剥がれた欠片が墜落するし、8年後には東京が水没するしで、この世界線の日本踏んだり蹴ったりですね。瀧くんは就活してる頃だから、いい顔で「ばあちゃんの友達になってくれてありがとう」とかいいながら、自分は就活でボコボコにコケてる訳で、ふふってなりますね。ていうか、夏美と瀧くん同い年かよ。
閑話休題、天気の子に関してはそうしたストーリー上、演出上与えられた役割を演じるだけに終始し、その前後があまりにも薄っぺらなキャラクターが多い事は、残念ながら狂信者たる私自身も感じる所です。そういう点で言えば、前半から中盤にかけてばら撒かれた伏線を終盤に次々と回収していき、カタルシスを得るタイプの映画でないことは確かでしょう。
この点に関して、それを(悪い意味で)助長しているのが新海監督の「書かなくていい事は書かない」旨のスタンスです。
例えば、映画冒頭のフェリーに乗った帆高が「これから雨が降るからデッキに出てくるな」(要約)と言われたにも関わらず、デッキに飛び出し雨に打たれ大喜びするシーンは、初めて見た時はあまりにも意味が理解出来ませんでした。その辺りは一応、本人の心理描写がある小説では船底に二等級船室に缶詰になっていてノイローゼになっていたこと、雨で人が人が居ないデッキで存分にはしゃぎたい旨=自身を拘束していた島や親からの解放の喜びを噛みしめる意があったと述べられています(映画だけを見て伝わるかどうか、疑問ですが)
他にも幾つか、映画だけでは分からない(読解力が足りないレベルから、他の媒体の情報がなければエスパーでないと理解出来ないレベルまで)が散見されるのは、映画を映画として売るにあたって不親切かな、と感じる点でした。
・キャラクターについて
今キャラクターについてって項目を書いた瞬間に気付いたんですけど、さっきのストーリーについての欄でキャラクターについても話しちゃってましたね。まぁ、いっか。
天気の子には様々なキャラクターが登場します。そのどれもが魅力的で、いきいきと描かれていればよかったのですが、実際はどうでしょうか。一人ずつ見ていきましょう。
まず、主人公の森嶋帆高くん(16)ですが、公式HPによると…まで書いて公式HP見に行ったら人物紹介なくなくない?マジ?
気を取り直して、島から家出して来た森嶋帆高くんですが、雨に降られ宿もなく、それでも猫に「帰りたくないんだ。絶対に」と告げるシリアスな顔。初対面の女子大生の胸を覗き込むドスケベ顔。年下の凪に恋愛を教わり「凪先輩と呼んでもいいっすか」と告げる顔。追い詰められ、警察に拳銃を向けて浅い呼吸を繰り返す興奮した顔など、劇中では様々な顔を見せてくれます。
恐らく、ここで書かれる森嶋帆高は身分証無しの16歳で働ける場所がないかヤフー知恵袋に投稿する程度に社会に慣れておらず、前かがみになった夏美の胸元に見惚れてしまう程度に性に関心があり、いかがわしい店に連れられた陽菜を無視出来ない程度に善良な、つまりは所謂「普通」の男子高校生として描かれています。多面的に切り取る事で、その「普通」性をより強調する狙いがあったのではないでしょうか。
対照的にヒロインである天野陽菜は、あまり一般的とは呼べないかもしれません。15歳にして両親はおらず、年齢を18と偽ってバイトをし、小学生の弟、凪と二人きりで生活しています。また、先述した通り、彼女には「祈るだけで雨空を局地的、短時間ではあるが晴れに出来る」能力が後天的に備わっており、劇中では「100%の晴れ女」「天気の巫女」などと呼ばれ、それ故に悲劇的な最期を予言される存在です。
普通の「ボク」と特別な「キミ」が出会う、なんてことないボーイミーツガールですが、如何せん、先に指摘した新海監督の意向によって両者のバックボーンは非常に希薄です。
主人公である森嶋帆高は「なんだか息苦しくって」と自身の家出の理由について話しますが、理由らしき物を述べるのはそれだけで、あとは数回「島に居た頃に光を追いかけて追いかけて、追いついたと思ったら島の先に行っちゃったから東京に来た」程度の動機が語られるのみです。あまりにも薄っぺらい。一応、3年後の彼は「島に帰ったら学校も親も驚くほど普通で」と供述しており、また小説において「父に殴られた傷」との記述がある事から、家庭(恐らくは父)との確執が原因ではないかと推察されますが、決定的な描写は(見逃していない事を前提とすれば)されていないのが現状です。これに対し、新海監督は「トラウマで駆動するキャラクターを創りたくなかった」旨の発言をしており、また「特定の原因を森嶋帆高に落とし込まない事により、普遍的な動機づけを狙ったもの」か、あるいは「あまりにも当然の親子の確執という日常が物語のきっかけである」というメッセージを込めたものである可能性があります。しかしながら、それ以上に背景が希薄に感じられ、、キャラクターへの感情移入を困難にしているという弊害が強いように感じられます。
また、ヒロインである天野陽菜に関しても、両親が居ない事ははっきりしていますが、母親に関しては「1年前に(恐らくは深刻な)入院をしていること」「その後間もなく死んでいる事」が示唆されるのみで父親に関してはノータッチ、恐らくは共に住んでいたであろう部屋にもなんら痕跡が存在しない現状となっています。(それ自体が父親に関する情報と言えなくもないですが)
何故、姉弟二人きりで暮らしているのか(どうして他の親族や父親と暮らさないのか)について一切の描写がないため、物語中の天野陽菜による「どうしよう、凪と離れ離れにされちゃう」という痛切な叫びに、視聴者は深い共感を示す事が難しくなってしまっています。例えば、親族があまりにもクズであったり、姉と弟の結びつきを示すエピソードの一つでもあれば視聴者は「あぁ、それは離れたくないし、二人で暮らしたいだろうな」と納得も出来ますが、それがないままに物語が進むので「一般論として姉弟は離れたくないだろうな」程度の共感にしかなりません。
このように、主人公及びヒロインは、恐らく意図的なものとして、両親由来の問題を抱えているにも関わらず、徹底して両親は物語から排除されています。そうした物語において、両親世代の役割を一手に担っているのが路頭に迷っていた森嶋帆高を拾った須賀圭佑と夏美の両人だと言えます。
須賀圭佑は東京行きのフェリーで帆高を助け、身寄りのない東京で途方に暮れていた帆高に仕事と職と宿を提供する男性です。年の頃は30~40といったところでしょうか。小説によれば、彼の生家は代々政治的な役割に人材を輩出してきた家系で、彼の兄もまた、その道を歩んでいる事が示されています。ところが、そうした道に反発した彼は10代で単身東京に出てきて、後の妻である間宮明日香と出会い、両家と確執を生みながらも結婚して一人娘・萌花を授かりますが、若くして妻に先立たれ、生来のズボラさから義母に娘の親権を奪われ、取り戻すべく目下奔走しつつ、先述した兄の娘・夏美と共にしがないライターの仕事をしている様が描かれています。
姪の夏美は大学4年生で周りの友人は就活を終えているのに、自身は一切就活をせず、逃げるように叔父のライターの仕事のアシスタントの真似事で日々を浪費しています。そうした負の一面を周りには見せず、初めて会った人にも「テレビに出ている人ですか?」と思われるほどにキラキラと輝き、どんなに荒唐無稽な話でも相槌を打ち興味深そうに聴いてくれる彼女の存在は、東京で見知らぬおっさんと暮らす帆高の何よりの慰めとなっています。
両者が本編で果たす役割に関しては2点挙げられるでしょう。1つは「東京に出てきた帆高の擬似的な家族」としての役割、もう1つが「問題解決の為の装置」としての役割です。
1つめですが、劇中で帆高は「東京に来て初めての他人との食事」としてこの二人との食事を振り返っており、また、時に褒められ、時に叱られながらも二人に頼られ必要とされる事を心地よく感じている事が端々に伺えます。また、象徴的な家族シーンとして、傘を差す二人に帆高が挟まれながら、三人で肩を並べて買い出しから戻る背中のワンカットは明らかに「家族」を意識したものだと言えるでしょう。島(家族)から逃げ出した帆高には東京で受け皿となってくれる新しい家族が必要で、その役割を二人が果たしていると考えられます。もっとも、この役割に関しては帆高が陽菜と関係を深めていくにつれ、希薄になる印象を受けます(須賀自身も「最近サボり気味だよな、アイツ」と自身から離れていく事をぼやいています)
もう1つの役割についてですが、それについて語る前に、特に劇中の須賀圭佑の立ち位置についてもう少し明瞭にしておくべきでしょう。
彼はフェリーで帆高を見た際に過去の自分とダブって見えた事から何かと世話を焼くようになった事を夏美に指摘されており、恐らくはその指摘は正しいものでしょう。ある種の情で見知らぬ少年に手を差し伸べる一方で、物語が進むにつれ、帆高と自身の幸せを天秤にかけ、自身の幸せを選ぶ打算的な(当人曰く「当然の」)選択をする姿も見せます。そうした選択をする姿は、切り捨てられた帆高にとって明確な「大人からの裏切り」を意味するものでした。
そういった彼の立ち位置を踏まえた上で、パンフレットに記載された新海監督のインタビューに目を通すと、当初は「最後に帆高の前に立ちはだかる壁で、所謂父親殺しの役割を果たすはずだった」という記載があります。「父親殺し」に関しては各々手元のスマホで検索していただくとして、つまり、陽菜が消えた世界を良しとする須賀を打倒し、そのトロフィーとして陽菜を手に入れる構図があった訳ですが、諸々の都合によりこの構図はなくなったとされます。
上記の「本来予定されていた構図」を元に、終盤の廃ビルの構図を見ると、当初は帆高の言い分を聞かず、「一緒に謝ってやるから」と無理矢理に警察に連れて行こうとしていた須賀が「帆高に触るんじゃねぇ」と激昂したシーンについても幾らか考えられるのではないでしょうか。本来、父親殺しによって行われるはずだった終盤の解決シーンはそれが行われなくなります。そうした時に必要となるのが、「空の上の世界を信じる主人公」と融和すべき相反する存在、「空の上の世界を信じない人間」です。両者が一つになって問題の解決に動く事によって、作中世界の一致団結が認められ、視聴者には物語の問題を打破するに足るエネルギーが充足されたと感ぜられ、カタルシスを得る事に成功します。
では一方で、融和すべき相反する存在ではなく、打ち倒すべき敵として描かれるのはなにか、それは安井と高井(名前適当すぎるな)両名及び付随する警察という組織だと言えるでしょう。
この作品において警察は帆高及び陽菜を追い詰めるタイムリミットとして描かれます。帆高と夏美と須賀、あるいは帆高と陽菜と凪という3者による擬似的な家族は警察というタイムリミットの存在がなければ、極論、永遠に存在し得てしまうからです。物語を先に進めるための、いわば「巻き」としての彼らは、同じく空の世界を信じていない大人である須賀とは対照に、徹底的に露悪気味に描かれ、観客は彼らにとっていい印象を抱かないように設定されています。幸せを壊し、こちらの懸命の叫びを黙殺し、挙句の果てには邪魔をする彼らはそのままもっと大きく、機械的で無関心な存在、例えば「社会」や「世間」という曖昧模糊として、しかし絶対的に感じられる存在として設定することが出来るでしょうし、そうした存在を作中の登場人物が力づくで乗り越えていく姿こそ、この作品の肝要な部分だと言えます。
あと疑問なんですけど、なんで高井はリーゼント(ポンパドール)なんでしょうね。どう考えても違和感がありますし、あまりにも悪役すぎる彼を中和する為の要素なんでしょうか。あまりにも雑すぎる。
・映像・音楽について
目と耳と脳があればわかるでしょ。いずれかがない場合はご愁傷様です。それで終わらせるのも何なんですけど、この辺は教養が不足しているので、綺麗だなぁ、耳障りいいなぁ。くらいです。
・感想
上段3つ、いや4つか?と分ける意味があるかどうか分からなかったんですけど、ここからは自分が好きな所についてつらつらと書いていこうかなと思います。目指せ中学3年生レベルの文章。
まず総括として「天気の子」はどういう話かな、と考えた時に、思春期の男女が衝動に任せて走り切る話だと考えられます。そもそもの出だしとして、主人公の帆高は何か嫌なことがあって、財布に5万円(当人は「使い切れない程の大金だ」と感じていたようですが、余りにも心もとない)だけを握りしめ、寄る辺もない東京に飛び込みます。当然、東京(主に新宿をメインにしていたようですが)は冷たく無関心で、勢いに任せて東京での生活をスタートした彼は早速躓いてしまいます。陽菜を悪質なスカウトから助けるシーンでも、彼は早とちりから実際に走り出しますし、ラストのシーンでは、衆人から馬鹿にされながらも山手線線路内をひたむきに走ります。
ヒロインである陽菜ちゃんもそうです。どだい、中3と小4だけの生活なんて、現代日本において成立しっこないのです。それでも彼女はその道を選んで走り出します。少しでもお金を得る為に16歳ではなく18歳と嘘を付き夜勤のアルバイトを選び、児相の訪問を突っぱね、にっちもさっちも行かなくなったら鞄に詰められるだけの荷物を詰めて弟と二人で行く宛のない逃避行を選びます。
こうした二人の姿は、現代社会で生きる私達(それも所謂「大人」の私達)から見れば、ただのワガママ、挑戦と呼ぶのも無謀な行為に映り、例えば新宿の人々のように「馬鹿な事をやってるやつがいるな」と冷笑したり「大丈夫だから」と口では言いながら無理矢理に従わせようとする須賀や婦警のような行動になりがちでしょう。
しかしながら、一方で私には、そうした彼らの行為が直視出来ないほどに眩しく、触れられない程に愛おしく感じられます。島で追いかけた光の先で陽菜に会えたと語る帆高くんに、私の理性は「そんなものは思い込みだろう」と判じますが、感情は「当然、そうであるべきだ」と叫びます。「そうであって欲しい」という願いかもしれません。本来、私達が所謂「大人」になる上で切り捨てた部分を、彼らがまだ後生大事に持っていて、それを奪われまいと抵抗している様に私は感動します。
その究極の形として、終盤、陽菜を迎えに行った空の上で帆高が叫びます。
「青空よりも、俺は陽菜が欲しい」
これほど感動する告白があるでしょうか。ラブホテルで行われた「俺が稼ぐから。三人でこのまま暮らそう」という告白よりも全然地に足がついてなくて(空を落ちているからではありません)、そもそも青空は別にお前のものではなくないか?とか、言いたいことが大人は色々あるんですけど、でも、良いんですよ。やっぱり究極的には「この世の何よりも、世界そのものなんかよりお前が欲しい」と言いたいし、言われたいんですよね。観客が望むものを望むタイミングで出す映画が素晴らしくないわけがない。
ちょっと天気の子が全く関係ない別の作品の話になるんですけど、個人的に凄く好きな告白が2つあって1つがFate/stay nightのセイバー√で士郎を殺して聖杯を狙おうと誑かすキャスターに対して「判らぬか、下郎。そのような物より、私はシロウが欲しいと言ったのだ」というシーンなんですよね。セイバーがそれまで絶対に求めてた聖杯という謂わばサーヴァントとしての存在意義を捨ててでも、士郎が欲しいっていう所にグッと来ます。
もう1つが交響詩篇エウレカセブンの最終回でレントンが「俺はキミと出会えたこの星が大事だし、この星に生きる皆が大切だ。でも、俺はその為にキミを失いたくない」って言うシーンで、これがもうとんでもなく性癖ど真ん中なんですよね。多分帆高も同じなんですけど、世界の人々が嫌いな訳じゃない。大切じゃない訳がない。
でもそれら全部をまるっと天秤に置いて、反対に好きな女の子を置いた時に女の子の方が大事なんですよ。だから、彼らは彼女たちを選び取るんですよ。 てか、新海監督エウレカセブン見た?みたいな、いや、ありきたりな展開ではあるんだけど、モーニング・グローリー見た?みたいな、陽菜ちゃんをさん付けじゃなくて呼び捨てにしてる辺りはバレエ・メカニックを感じるっていうか、本当は良くないんだけどね、○○に似てる!みたいなのでもここはそれを彷彿とさせて、綺麗だったな。地味に落ちる二人の足から白い煙みたいな雲がたなびいてる様子が超幻想的なワンシーンで、自分のお気に入りです。
閑話休題、この映画の素晴らしい点は他にもあって、これも色んな人が指摘してるんですけど、多分、今中高生の子たちはこの映画を見て帆高や陽菜に感情移入するんですけど、それが難しくなった大人には須賀っていう別の視点が用意されているんですよね。胡散臭いインターネットの噂を文章にして糊口をしのぐ彼は、恐らく作中の所謂「大人」の中で最も帆高たちの目線に近くて、でも彼は絶対にそっちには行かないギリギリのラインを保つ人間なんですよね。
近いキャラに夏美がいるんですけど、彼女は自由だから、その辺りを軽々飛び越えて反復横跳びをする。基本的には「大人」なんだけど、人柱の話を半ば信じて陽菜に警告したり、警察から逃げる帆高の手助けをしたりする。
こういうと「いや、須賀も最後に手助けしてたじゃんエアプか?回線で首吊ってタヒね」みたいな事を言われそうなんですけど、あれは別に帆高の言うことを信じた結果動いてる訳じゃないんですよね。夏美さんは「代々木の廃ビルの神社に行けば陽菜さんに会える」っていう帆高の意見を信じて警察相手に無茶な走りをするんですけど、須賀は「俺はただ、もう一度あの人に会いたいだけなんだ」っていう帆高の叫びに共感して最後動くんですよね。映画では言われてないってか、気付けるヤツおる?みたいなレベルなんですけど、小説では事務所に来た安井刑事の前で無意識に泣いた際、妻の明日香さんの事を想ってるんですよね。いやまぁ、明日香さんの話をする時は大体左手の薬指の指輪を触ってるし、それを見てれば何を考えてるかもしかしたら映画だけでもわかったかもしれないんですけど、まぁ、そういう事があったんですよね。そして、廃ビルで帆高の叫びを聞いて「もし、自分なら」と考えた結果、警察に馬乗りになって殴るに至る訳ですよ。そうした彼の姿は、メインターゲット外の大人たちには帆高よりもずっと感情移入がしやすく、最後の最後でちょっと主人公たちの背中を押す、カッコイイ所を味わう恰好の対象ではないでしょうか。
全然関係ないけど、今作はなんかみんなやたらと相手に馬乗りになりたがりますよね。何かの暗示なのかな。
あと廃ビルの繋がりで言えばね、凪くんのね「ふざけんなよ、全部お前のせいじゃんか。姉ちゃんを返せよ!」って叫びがね、心を打つよね。多分、全編を通して凪くんの感情の振れが最高潮に達したシーンだと思うんだけど(あと叫んでたのは、てるてる坊主の格好をさせられた時の「ふざけんなよ帆高!」くらいかな?)あんなに普段は我慢して、爽やかな彼があの時は泣きながらおっさんの毛根を毟る訳ですよ。この「全部お前のせいじゃんか」は一考の余地がありますよね。凪くんは晴れ女の事も人柱の事も知ってて、また信じてる訳で、じゃあここでいうお前のせいっていうのは「お前(が晴れ女ビジネスをさせた)せい」っていうのが正解だと思うんですけど、ここに多分帆高が来たせいで警察が天野姉弟を見つけて、児相に連れ去られそうになる(バラバラにされてしまう)事に対して怒ってる気持ちもあると思うんですよね。
この姉弟、本当に仲が良くてそういう所も幻想なのかもしれないんだけれど、中3の姉に向かって(恐らく)小4の弟が「一緒に風呂入ろうぜ」って言えたり、「俺、姉ちゃんと一緒なら平気だよ」みたいなそういう信頼を見せる所に深い姉弟愛を感じるんですね。双方が互いに互いを大切に想ってる関係なら大体好きみたいな所がある。
あとやっぱり外せないのは、陸橋下でフットサルしてる凪くんに帆高が陽菜の誕生日プレゼントを相談しに来る所で凪くんが吐露した自分の心中ですよね。小学生にして「姉を心配していること」「姉が自分の為に頑張ってくれていること」「自分のことをガキだと自認出来ていること」「自分には何も出来ないから、せめて帆高に姉を楽しませてあげてほしいこと」をあれだけ的確に語って伝えられるの、末は博士か大臣かみたいな所がある。全然関係ないけど、ここの笑いながら髪をかきあげる凪くんがめちゃくちゃ美しい。別に自分にそういう癖はないんだけど、ここだけは印象的。その後の「俺はガキだからさ」の時の遠い目とのギャップで1時間のたうち回れる。
のたうち回ると言えばやっぱり、帆高と陽菜のやり取りで、先に話した通り真っ直ぐで走り出したら止まらない二人だから、やり取りの一つ一つが全力で胸を打つんですよね。
先に挙げた「青空よりも、俺は陽菜が欲しい」は勿論そうなんですけど、ラブホテルで陽菜が自分が消える事を告げた後の「俺が稼ぐから、3人で暮らそう」って告白も帆高の、高校生の精一杯の、等身大の告白だと思うんですよ。僕たち大人は大人なので、そんな事は無理だよって直ぐに打ち消してしまいがちなんですけど、多分彼は真剣で、そんな彼の真剣さだから陽菜ちゃんの心を掴んで離さないんだろうとは思います。ただ、このシーンずっとCLANNADの岡崎みたいだな、って思って見てたのは見てました。
この後の誕生日を迎えた陽菜に指輪を渡すシーン、普段は焦ったり照れたり、踏ん切りがつかなくてカッコつかない帆高が照れもなく、かといって慣れもなく、喜ぶ陽菜を満面の笑みで見返す帆高が、この1ヶ月ちょっとの成長を感じさせて嬉しくなります。
ただ、やっぱり二人のやり取りで一番効くのは祈りを続けて半身が透けてしまった自分の体を見せる陽菜の「何処見てんのよ」に対する「何処も見てッ…陽菜さんを、見てるッ」「なんでキミが泣くのかな」です。陽菜は自分自身の選択の結果として、自分が消えてしまう事を悟っているので「なんでキミが泣くのかな」と言いますし、帆高は自分が陽菜さんに晴れ女をやらせた結果を見せつけられ、目を背けながらも「陽菜さんを見てる」と答える事で、自分が行ってきたこと、見て見ぬふりをしてきたと対面する訳です。あと、このやり取り自体が後述するように、映画の前半部分、それも所謂ギャグパートで出てきており、そのやり取りを下地に置いて見るとまた、感じ方が変わってくる名シーンとなっていると思います。
こういう一世一代のセリフ以外でも二人のやり取りは見てて微笑ましくて、例えば初めて陽菜の家を訪れた帆高が「もしかして、女子の部屋初訪問!?」と慌てながら「つまらないものですが!」と間の抜けた挨拶をするのに対して「狭い所ですが」となんにも感じてないような言い方で迎え入れる陽菜ちゃんでほっこりするし、帆高の家出の理由を聞いても「そっか」だけで終わらせる所も好きだし(勘違いのないように言っておくと、ここの「そっか」は全く冷たい印象を与えず、逆に包み込むような印象を与えるものでした)、「陽菜さんに水商売は…」と薄く細い陽菜の体に視線をやる帆高に「何処見てんのよ!」「何処も見てねぇよ!」と叫び合う二人が好きだし、初めての依頼に戸惑う二人の「明日雨じゃない!」「そうじゃないと意味ないでしょ。大丈夫俺も手伝うからさ」「どうやってよ~」のくだりは(そうだよな、どうやってだよ)と思わず頬が緩むものでした。
やり取りだけじゃなくて、もしかしたらこの映画の言葉の選び方が自分にハマってるだけかもしれないのですが、モノローグがすっと心に入って殺しに来るんです。街が晴れていく映像と共に「それは街がまるで華やかな衣装に着替えていくようで」のモノローグはその洗練された輝きのある映像を引き立てますし「こんなにも、陽菜さんに心を動かされる」では若者の恋の始まりを自覚させ、この先の物語への期待をいやが上にも高めます。恐らく、感じ入らなかった人が一人もいないであろう「神様、僕たちは大丈夫です。なんとかやっていけます。だから、これ以上、僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」という帆高の祈りは明るく楽しげな画面とは裏腹に、切実で、泣き出しそうで、思わず私も祈らざるを得ませんでしたラスト、代々木の廃ビルに向かうために山手線を走る帆高の「全部背負わせてごめん」という台詞も非常に印象的です。「お天気届けます」は立上げや交渉こそ帆高が手伝いますが、本業の「晴れにする」という天候への干渉は陽菜しか行いません。それ故に代償としての人柱も陽菜一人が背負い込む事になるのですが、ここで帆高は自分が全てを陽菜さんに背負わせていたことを自覚し、次は自分も背負う決意をすることによって、この後の「世界を決定的に変えてしまった」代償を陽菜と二人で背負い、それ故に3年後はうじうじじめじめと思い悩み続ける、ある意味の罰を受けたと言えるでしょう。
もう一つ、物語として重要に感じられる台詞として怪しげな雑誌のライターをしている事を責めた帆高に対して須賀が返した「こっちはそんなの全部分かっててエンタメを提供してんの」を挙げましょう。実は、こういった「作中キャラクターに作者の主張をどストレートにさせる」のはあまり好みではなかったりするんですが、でもこの台詞には重大な示唆が含まれているように感じられてなりません。
昨今、創作物を見て「リアリティがない」だの「ご都合主義かよ」といった批判が湧き上がりがちですが、そんなにリアリティが欲しけりゃ創作物に触れてないで街に飛び出せば良くないですか?多分、作ってる人たちもそんな事は当然分かってて、こんな事が現実にはないだろうって分かっていながら、それでも、こうあればいいな、こうあって欲しいな、というかすかな祈りのような物が創作物だと自分は信じているので、そういう視点で叩くのはあんまり良くないかな、って。もしかしたら、「童貞臭い」って言われる新海監督の自己弁護というか、事前防御としてこの台詞があるのかもしれません。
でも、パンフレットに書かれてた「ずぶ濡れの同級生の女の子と雨宿りするような胸がドキドキする体験」って話は童貞ぽかったです。
長くなってきたので、最後に挿入歌の話をして終わりたいんですけれど、流石に全部描き下ろしというだけあって、場面場面にぴったりハマった印象でしたね。なんか?歌が??多すぎてカスみたいな話も見ましたけど、個人的には多くもなく、少なくもなく、効果的な使い方がされていたように感じられます。
特に印象的なものを2つ。空の上の世界に陽菜を迎えにいった帆高が、風に揉まれながら陽菜に手を差し伸べるシーンから流れる「グランドエスケープ」はその出だしの「空飛ぶ羽根と引き換えに繋ぎ合うてを選んだ僕ら」はそのまま現状の二人を見事に書き表していますし、「重力が眠りにつく1000年に一度の今日」では、雲間を突き抜けて落ちていく二人が互いに手を伸ばすシーンとマッチし、このまま二人で手を繋いでここじゃないどこかへ旅立つ姿を思わせます。
もう一つ、本当の本当にラストのシーン。数年ぶりに会う、世界を決定的に変えた共犯者である陽菜との再会で、何を伝えるべきか、どう声をかけるべきか悩みながら陽菜の家に向かう帆高のシーンです。考え事をしてうつむきながら歩く帆高。突然、左手の川で水鳥が飛び立ちます。その羽音に驚いて目を上げた帆高の視界に、沈んだ東京に何かを祈る陽菜の姿が飛び込んできます。そこで流れる「大丈夫」の「世界がキミの小さな肩に乗ってるのがボクにだけは見えて泣き出しそうでいると」という歌詞と、坂道で一人、静かに祈る陽菜の姿、そして帆高の「あの時俺は確かに陽菜さんを選んだんだ」というモノローグ。それら全てが合わさり観客の心が破壊されること間違いないシーンです。
そもそも、他のシーンとは別で、このラストシーンは悩みに悩んだ新海監督が最初に提出されていた「大丈夫」を聴いて「全ての答えがここにある」と気付いて書いたシーンで、いわば歌に合わせて書いたシーンなので歌が合うのは当たり前と言えばそれまでなんですが、帆高が陽菜を見て、彼女が何に祈ってると感じたのか、(小説にも明言されていません)直前まで変わってしまった東京への罪悪感が大きかったにも関わらず、陽菜さんを選んだ事を肯定していることなど、様々な示唆に富むといえるでしょう。
個人的にこのシーンの好きなところはまず、それまで変わった東京で出会った大人(立花冨美と須賀)はどちらも言葉は違えど「世界が変わったのはお前たちのせいじゃない」と言っているにも関わらず、ここで帆高が「自分たちこそがあの日世界を変えたのだ」と再認識する所です。大人から見れば、ともすれば自意識過剰の思い上がりにも思えるこの考えは、しかし、先程述べた通り自分が陽菜と世界を変える責任を負う事を決意していた帆高にはそこは決して逃げ出してはいけない最終絶対防衛ラインで、そこから逃げ出してしまう事は、そのまま、あの日陽菜さんを一人で空に帰した時点から、何も変わっていない事を意味します。二人で背負うと決めた現実から、逃げ出さなかった帆高の姿がとても好きです。
次に帆高が陽菜の名を呼んだ後の陽菜の反応も良いですね。名前を呼ばれ目を上げた彼女は吹き付ける風で、それまで被っていたパーカーのフードが外れ、あの頃と変わらぬままの姿を見せ、全力で駆け出し、勢いのまま帆高に抱きつき帆高が回転で勢いを殺さなければ転んでしまうほどでした。そして、そのまま帆高が涙を流している事に気付くと「帆高、大丈夫?泣いてる」と気遣います。信じられますか?数年全く連絡を寄越さなかった男が目の前に現れても、最初にするのが泣いてる事への気遣いて。天使か?あ、こういう所が「童貞くさい」「現実的ではない」と言われる所なのかな?でも、凄く好き。「大丈夫」の歌詞でいうところの「なんでそんなことを言うんだよ、崩れそうなのはキミなのに」が恐らくは観客全ての心に沸き起こります。だからでしょう、帆高は陽菜の手をとって「陽菜さん、きっと僕たちは大丈夫だ」の一言を告げ、映画は終わります。
この台詞も良いんですよね。「帆高、大丈夫?」に対して「僕"たち"は大丈夫だ」つまり、陽菜も大丈夫だと帆高は思ってる訳です。何が大丈夫なのか。東京は自分たちのせいで沈み、今も雨は止まず、なんなら、彼らがこの後どういう生活を送っていくのか全く描かれていません。世界はもっと狂っていくかもしれないし、今は一緒にいる二人もいずれ離れ離れになるかもしれない。そんな漠然としたこれからへの不安というものは、大なり小なり全ての人々に付きまとうものです。それでも、今この瞬間、帆高と陽菜がいるこの瞬間は、二人が世界で一番で、無敵で、絶対的に大丈夫だという確信が、恐らくは帆高の胸に灯ったのでしょう。そうした私達から見るとむず痒いような、あるいはバカバカしいような思春期特有の全能感こそが、この映画で描かれる主軸の一つなのかな、と感じました。
まとめ
2019年にこれを見ることが出来て凄く良かったです。ぜひとも皆に劇場でみてほしいなぁと思いました。