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「異常なし」

その肉塊は、一畳ほどの白い部屋に置かれた、小さなガラスケースに入れられていました。
それは痙攣するように常にもぞもぞと微動していましたが、まるで呼吸をするように、というよりも心臓そのものが動くように、無数のチューブから液体が送られるごとに、一定のペースで脈を打っていました。
私はそれを初めて見たときの、言いようのない不快感を鮮明に覚えています。まず初めに想像したのは、小学校の時に理科の資料集で見た、脳みそや心臓などの、私たちの体の部位でした。それが照明に当たり、光沢の感じからぬめぬめとした手触りを想像させ、薄ピンク色であることから女性の乳房のような柔らかさを想像させ、そして、一番の不快の原因であると思われるのは、痙攣するようにもぞもぞと微かに動いていることから生命を感じさせられたことです。
私はとある都内の研究所のどこにでもいるような大学院生でした。大学三年で現在の研究室に入り、無事院試と卒論をパスし、現在この研究所で医学系の研究をしています。好きな教授の下で好きな研究をし、忙しいながらも充実した日々を送っていたと思います。
「今暇かい。頼みごとがあるんだが。」
ある日、徹夜明けでパソコンに向かっていた私に向かって、教授はそう言いました。当時の私は、修士論文の完成に向かって、最終段階に取り掛かっていたので、研究室で徹夜をすることが多々ありました。こんな時に私を呼び出すのはどこの鬼だと、心底恨めしかったのを覚えています。今回もどうせいつもの雑用だろうと思い、前回のごみ山の中から学会の資料を探すという骨の折れる作業を思い出し、憂鬱な気持ちになりながら、渋々教授の後をついていきました。
そして、私は例の一室を目の当たりにするのです。
「この管理を君に任せたい。簡単なことだから、心配する必要はない。」
固まっている私に、教授はそう言いました。眠気は吹っ飛びましたが、理解が追いつきません。そんな私を気にする様子もなく、教授は淡々と私がやるべき業務の説明を始めました。
その日から、私はこの肉塊の世話ともいえるのかわからないですが、言われた通りの業務をやり始めました。
朝8時半に研究室にきて、荷物を置いてから、例の一室へ向かいます。変わった様子がないことを確認して、いつも通りの自分の作業へ移ります。その後、昼食をとる前に、チューブで栄養を流しにいきます。この装置は点滴と似たような仕組みになっており、空になりそうな袋を取り換えればよいだけなので、何ら難しいことはなく、ペットに餌をあげるような感覚でした。そして最後に、壁にかけてあるポッポ時計の(教授の趣味です。)鳩が夜中の0時を知らせたところで、帰宅前の確認に行き、入り口付近の壁に貼ってある紙に、その日の日付と時間、それから「異常なし」と記入します。
はじめのうちは教授にあれはなんだ、やら、何の目的か、など色々な疑問をぶつけていましたが、教授は一つも答えてくれることはありませんでした。しかし、私の生活に何も支障をきたすことはないし、業務自体も簡単でしたので、一週間ちょっともすれば慣れてきて、疑問を感じることもなくなっていきました。
修論の提出の二週間ほど前のことです。私はブラックの缶コーヒーとエナジードリンクとともに、パソコンの画面に向き合っていました。落ちてくる瞼を必死でこじ開けて、今にも思考停止しそうになる頭をフル回転させながら、キーボードを叩いていました。その時、「ポッポー」という聞きなれた鳩の無機質な鳴き声が四つ、遠くなっていた私の耳に届きました。一つ伸びをし、休憩がてら、例の肉塊の様子を見に行こうと思いました。その日はもう泊まるつもりでしたので、報告もしてしまおうと思い、いつも通りの「異常なし」の文字を書きに行こうと席を立ちました。そして、ドアに手をかけたその時、急に眩暈がして、視界がぐらついたので、咄嗟に近くにあった棚に手をつきました。その反動で、棚の上にあった、紙やらなんやらが床に散らばってしまいました。それと同時に、カシャンという、なにかガラスのようなものが落ちる音も聞きました。それを見たとき、私の中の悪魔が目を覚ましたように、恐ろしい考えが浮かび上がりました。その考えはみるみる頭の中を支配していき、私は気づくとそのビンを拾い、散在している紙を踏みつけながら、乱暴にその部屋を出ました。そして、体までもが悪魔に憑りつかれた様に、誰もいない廊下を無我夢中で走っていました。部屋の前まで走り、ドアを乱暴に開けると、そこには、窓からの月明かりで青白く照らされた、閑散とした一室がありました。いつも見ている光景のはずなのですが、その日の私には、その美しい部屋の中でガラスケースに入った肉塊が、ぴくぴくと動いているのが、なんだかとても神秘的に思えたのです。私は、ゆっくりと、中へ歩いていきました。そして、いつも昼にやるように、袋に手をかけました。まだ半分ほど残っている液体の中に、私は自分が握りしめているビンの中のものを少しだけ、混ぜました。そして、袋を戻し、チューブが肉塊へ流れていくと、肉塊は細かく、そして大きく痙攣し始めました。それはまるで人がもがき苦しむようで、今にも悲痛な叫びが聞こえてきそうなほどでした。私はそれを見たとき、とてつもない高揚感を味わいました。肉塊から、生命の輝きを感じました。眠かった頭もすっきりして、重かった体も軽くなっていました。そして、いつも通り「異常なし」と書き込み、その場を後にしたのです。
その日以来、わたしはその行為を繰り返すようになるどころか、どんどんエスカレートしていきました。場所や物に不足もなければ、私は生命科学科に所属していたので、その辺の知識もあります。動かなくなったらどうしよう、ばれたらどうしよう、という不安はありましたが、それよりも、またあの高揚感を味わいたいという気持ちが私を支配していました。幸い、動かなくなることはなかったし、異物を混ぜた何時間か後の朝見に行くと、多少痙攣の数が多いものの、それほど大きな変化はなく、小さくぴくぴくしているだけでした。毒性を強めれば強めるほど、それに対し大きくもがくように痙攣する肉塊を見て、背筋に電流が走ったような衝撃を受けると同時に、頭の中にドーパミンが分泌されて、その生命の美しさから目が離せなくなるのです。専攻分野的にはこのようなものは見てこなかったわけでもないのですが、今までこのような気持ちになったことはありませんでした。この神秘的なものを、この気持ちの高ぶりを、皆さんにどう伝えたらよいのか、私の拙い文章力では到底表現することはできません。
いよいよ卒論も佳境を迎えていました。2日前からほぼ徹夜というような状態で、エナジードリンクとコーヒーの缶が机の上に散乱していました。私はどうにか薄目を開きながら、パソコンの画面と向き合っていました。
「ポッポー、ポッポー、ポッポー、ポッポー」
私はスッと立ち上がり、予め用意しておいた鍵をポケットから取り出し、鍵のかかった棚を開けました。そして一番奥に隠してあったものを手に取りました。いつかの後輩の研究の手伝いをしたときに盗んできたものです。その時は何に使おうとしていたのか今は覚えていないのですが、かなり強いものであったことを昨日思い出したので、今日はこれを試してみようと思っていました。手袋をはめ、実験ゴーグルをします。初日は気持ちが昂っていてなんの防御もしていませんでしたが、2日目からはその点にも留意していました。
いつもの部屋へ向かいます。期待から、胸がどきどきしていました。そのため、私の研究室からはそれほど遠くないはずなのに、ついた時には息切れしていました。ドアを開け、部屋に入ると、そこにはいつも通り、複数のチューブに繋がれた、小さく痙攣する生命体が、そこにありました。私は、少し屈む体制をとり、肉塊に正面から向き合いました。この無力な生命が、今から私がたった少し間接的に手を加えるだけで、死ぬほど苦しみ、生きたいと喉をからして叫ぶように、大きく痙攣するのです。生命とは、なんて脆く美しいのでしょうか。皆さんに、この素晴らしさが分かりますか。

そのあとのページは全て真っ白だったことを確認し、私はそのノートを、いらないプリントで埋まった机の上へ置いた。
「死ぬ前日、見回りをしていた警備員の懐中電灯が、中庭に佇んでぶつぶつと何かをつぶやく彼女を照らした瞬間、倒れたのです。そのときにはもうとても脆弱しており、虫の呼吸でした。彼女はその優秀さ故、研究に殺されたのです。残念ですが、失敗です。」
なるほど、やはり、薬の相性があるというわけである。彼女のような優秀な人材には飲ませたらこのような結果になってしまうのだ。今回はそれが分かった貴重な実験だった。
共産主義が台頭するこの2100年代に、文化レベルにおいてもまた全員を同じくらい優秀にしようという思想が強まっていた。つまり、薬を使って、劣等生を無理やり優秀生へ仲間入りをさせるわけである。彼女はその研究に携わりたいと、私の懇願してきた。私はもちろん否定した。劣等生ではない、むしろ優秀な彼女を、そんな未完成の薬の実験に、しかも被検体として参加させるわけにはいかなかった。しかし、彼女は聞かなかった。それは、彼女の飽くことのない好奇心からだった。その結果の、精神的衰弱死。
つまり、この研究で彼女が死んでまで証明したことは、彼女は十分優秀な人間であったということだ。
これは、彼女自身が綴ったものである。相変わらずの美しい文字と力強い文章は、彼女そのものを表しているようだ。それにしても、この日記の違和感はなんだろうか。そう思いながら、窓に目を向け、中庭を眺める。
そういえば、巷でひそかに話題だった“野良猫殺し”は、この数日間、起きていなかった。

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