【#シロクマ文芸部:走らない】走らなくても
「走らない馬には興味ないわ。」と言いながら、彼女は僕の手を握った。
***
僕が生まれて初めて一目惚れした相手、それが彼女だった。
彼女は誰が見ても美人で、垢抜けている。
カツカツと彼女が鳴らすハイヒールは、高嶺の花の象徴。
強いて言うなら性格が少々きついのだけど、そこが僕には何だか心地よかった。
毎日を悶々と過ごしていた僕は、ある日、思い切って彼女に声をかけた。
彼女は、空気を見るかのようにさっと僕をかすめると、一言こう言った。
「とりあえず、その服どうにかしたら?」
次の日、僕は、いつも行っている1000円カットのお店ではなく、電車に乗って街の美容院まで行き、おまかせで髪をカットしてもらった。
そして、予め調べておいた雑誌に載っていたお店に入ると、マネキン3人分の服を全部買った。
新しい服を着て、彼女にまた声をかけた。
彼女は、今度はちらっと僕を見るとこう言った。
「何か用?」
改めて聞かれると、用事は特に思いつかなかった。
結局、「ううん何でもない」と言って、その場を立ち去った。
僕は翌日、映画のチケットを買って、また彼女に話しかけた。
「良かったら今日、この後映画に行かない?」
彼女の好みの映画なんて知らなかったけど、彼女はこう言った。
「暇だからいいよ。」
僕は生まれて初めて、デートに出かけることになった。
映画を見た後、彼女が食べたいと言うので初めてイタリアンレストランにも入った。
よく分からないメニューを端から端まで読んでいる僕をよそに、彼女は慣れたように色んな物を頼んだ。
味なんてよく分からなかったし、彼女も別に笑ったりしていなかった。
帰り道、僕は調子に乗って週末のデートに誘った。
「土曜日、どこか出かけない?」
「どこ?」
「ど、動物園…」
何でこんな美人に動物園なんて言うんだと一瞬で後悔する僕に、彼女は「いいよ、暇だから。」と答えた。
***
動物園の入り口に立っている彼女は、一人だけ浮いて見えた。
まるで作り物の人形のように、周りの雑踏のスピードから取り残されている。
何だかいつもより背も低い。
彼女がハイヒールじゃない靴を履いていたのは、その日が初めてだった。
動物園に誘ったものの、僕は何をすればいいのか全く分からなかった。
ゾウを見て、キリンを見て、僕たちはただひたすら歩いていた。
彼女はふと、シマウマの前で立ち止まった。
しばらくそのまま眺めていた彼女は、すっと僕の隣に立った。
そして、「走らない馬には興味ないわ。」と言いながら、彼女は僕の手を握った。
その手は僕が想像していたよりも、小さくて儚かった。
僕はぎゅっと、その手を握り返した。