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クロワッサンを温めるほどの気力はない

11月17日(日)

起きて歯を磨く。新しく買った歯磨き粉が不味い。

昨日池袋で買ったチョコクロワッサンを朝ご飯に。レンジで温めるほどの気力はない。温めたほうが絶対に美味しいけれど。クロワッサンのポテンシャルのうち60%くらいの美味しさで食べた。

「推しの素晴らしさ」の変換ミスで「推しのサバらしさ」というフレーズが誕生した。
サバらしい推しとは。

* * *

2024年11月の日記です。
写真はその日とあんまり関係ありません。

11月1日(金)

池袋の東武で手土産を選ぶ。それぞれが自身に最も合った箱に入れられて、自身に最も合ったディスプレイをされたお菓子たちは、どれも輝いている。それを人のために選ぶ。自分の贅沢ではなくて、人に気持ちを見せるために買うのであって決して無駄遣いではないという言い訳ができるから予算も、まあこれくらいなら・・・となる。そういう状態で一つを選ぶのはとても楽しい。

最後まで優しさを貫けない自分の器の小ささ。
余裕のある時になんとなく優しくしたのに、段々と自分が譲歩している部分が大きいじゃないかと不機嫌になる。そんなんだったら最初から優しさを出すなよ。優しくありたいならば最後まで優しくある覚悟をしろよ。
自分には優しくある資格すらないなあ、なんてことを考えながら夜道を歩いた。

11月2日(土)

1日中大雨でずっと家にいた。

夕方に『ショーイング・アップ』を観る。
ある晩、主人公リジーの愛猫が窓の隙間から入り込んだ鳩を襲う。「どこか他の場所で死んで」と、リジーは箒とちりとりで鳩を窓の外に捨てる。
翌日、隣人のジョーがその鳩を救出していた。居合わせたリジーも巻き込まれて、ふたりは鳩の骨折の手当てをする。そして鳩は自分が面倒を見る。けれど留守の間は預かってほしいと、ジョーはリジーに鳩を押し付ける。
仕方なく鳩を預かったリジー。だがどうやら鳩の様子がおかしい。急いでジョーに電話するも、”注目のアーティスト”の忙しいジョーは、その電話を無視する。
そんななら、最初から助けるなよとムカついた。中途半端な覚悟で優しくするのは、ただの自分で気持ち良くなってるだけだ。
でもいるわ、こういう奴。そして自分もその節がある。昨日ちょうど書いたところだ。

肩が凝る。頭が重い。頭がもっと軽かったら楽なのに。

11月3日(日)

彼女の実家に行って、両親に同棲の挨拶をした。お昼ごはんの寿司とお菓子とコーヒーと温かいお茶と冷たいお茶をご馳走になった。膀胱をパンパンにしながら、3時間半にわたるご挨拶は和やかな雰囲気の中終了した。

玄関を出てスマホを見ると、(わたしの)母から「夜電話ください」とLINEが入っていた。なんだろうかと心配になりながら帰宅して、すぐに電話をかける。
用件はもう使っていない銀行口座の解約手続きのことだった。心配して損したと思いながら、ついでにと今日の出来事を話した。
親には彼女がいるということしか伝えていなかったので、突然の展開に少し驚いていたが、
「結婚するの!?」「そりゃ緊張したろー」
とうれしそうだ。もう28歳だし、そんなに驚くことでもないだろうと思ったが、電話越しでも親が喜んでるのが伝わってきて、わたしも幸せな気分になった。

祖父母の田舎から米を送ってくれるということなのでお願いして、電話を切った。
長い一日だった。だけど、人生を大きく前進させた良い一日だったなとしみじみ思う。

そういえば、と思い出して「貸した本も米と一緒に入れて送って」と母にLINEをする。
去年の年末に帰省したとき、母からオードリー若林の『ナナメの夕暮れ』を貸してくれとお願いされたので、『ナナメの夕暮れ』以外にもゆうぱっくに入るだけの文庫本も一緒に、合計6冊くらいの本を貸していたのだ。

それからシャワーを浴びて、浴室から出てスマホを見たら、衝撃的な返信が残っていた。
「ごめん。本はブックオフに売ってしまった」

わたしの頭は一瞬真っ白になった。

まず人のものを勝手に売るな。そもそも文庫本をブックオフで売っても100円にもならないだろう。たった数十円のために本を売る。その行動が理解できない。
同じ本を書い直すには6000円くらいかかるのに。一度買った本をまた買うなんて悔しい。そのお金があったら、読みたかった別の本が買えるのに。

しばらく頭を掻きむしっている。その手が止まらない。
怒りがなかなか鎮まらない。自分でもどうかと思うほど、怒りに頭が支配される。
いや、これは怒りではない。悲しみ、落胆。そっちのほうが近い。

そうだ。本棚から母に送る本を選んだあのとき、わたしはまさに精一杯に心を込めたのだった。
川上未映子の『きみは赤ちゃん』は読んだら姉やわたしが赤ちゃんだった頃のことを思い出すかな。もしそうだったらうれしいな。いつか感想を聞きたいな。朝井リョウの『時をかけるゆとり』は爆笑するだろうな。病院の待ち時間に読んだり恥ずかしいだろうな。旅行系のエッセイが好きって言ってたから角田光代の『いつも旅のなか』はマストだな。あと穂村弘という人を知ってほしいから『本当はちがうんだ日記』も送ろう。

あのときは、そういう想像をしながら選んだのだった。大事な誰かに本を選ぶのは幸せなことなんだなとも思った。
それらの本を売られてしまったのだ。わたしの気持ちまで、ずたずたに踏みにじられた気分だ。

わたしと母とでは、読書という行為に対して、本という物体に対しての価値観の違いがあるのだろう。
わたしは気に入った本は何度も読み返す。1回目でどんなに感動しても時間が経てば内容を忘れてしまうのは当たり前だと受け入れて、2、3回目を読む。そのときに気づく自分自身の変化、前読んだときは素通りしていた一文に心を打たれたり、その逆だったりを楽しみにしている。それに物体としての本も好きだから、気に入ったものはできるだけ手元に残しておきたい。
対して、母はきっと本を消費するものとしか考えていないのだろう。一度読んだらそれで終わり。だからわたしが心を込めて本を選んだことすら想像できていないはずだ。

強い言葉にしてしまえば、文化的素養のなさと言ってしまえるだろうか。そういう部分で親に違和感というか物足りなさを感じていたことを思い出した。
センスの良い同級生のエピソードに出てくる親は、大体センスが良さそうに聞こえて、実際そういう面はあるだろう。もっと文化的素養がある(=センスの良い)親のもとに生まれたら、人生変わっていたのではと微かに思っていた。

マンガ『違国日記』を読んでいて、強く共感した場面がある。
イギリスのロックバンド・コールドプレイに夢中になっている中学生の朝と母親が会話する場面だ。

「へー・・・コールドプレイ・・・そういうの好きなの?」
「うん」
「へぇー 朝はこういう男の人が好みなんだあ」
「え 何それ?」
「だって「かっこいーーー♡」なんて」
「曲が好きなの」
「えー?」

朝の好きに関して、母親はこんなにも浅はかで低次元な捉え方をして、ニヤニヤとした顔を見せつけてくる。

去年の夏に帰省したとき、わたしも母から「今はどんな音楽が好きなの?」と聞かれて、カネコアヤノが好きだと答えたら、「やっぱ弾き語り系の人が好きなんやね」と言われた。
中学生の頃はYUI、高校生の頃はmiwaにハマっていた。母はその二人とカネコアヤノを同じ括りにしてそう言っているのだろう。
カネコアヤノの歌詞の余白にある豊かさも、彼女がどれだけロックであるかも、何も知らないのに、ギターを持った女性のソロアーティストというだけで、そういうふうにカテゴライズしている。物事を深く観察したり味わう習慣がないこと。そして異性の好みのような短絡的な方向に話題を寄せてしまう感じにがっかりして、それ以上わたしの好きを伝える気にはならなかった。

母にどう返信しようか。厭味ったらしく「え?」「信じられない」「全部?」「どうしてそんなことをするんですか」とか入力したけれど、ぎりぎり送信ボタンは押さずに踏みとどまった。

とりあえず映画を観て心を落ち着かせることにした。
が、映画観ていても苛立ちが収まらない。負の感情が湧いてくる。
どう返信しようか。しばらく考えたけれど、どうやっても良い言葉は思いつかなそうなので、もう何も送らない(=無視してこの話題は終わらせる)ことにした。

客観的に考えれば、これまで親がわたしに投資してきた金額と比べたら、たかだか本数冊で文句は言えないし。
あとは、たかが本(と言ってしまいたくはないが)のことで、母を傷つけたくもない。悪気があったわけではなくて、ただ本に関する価値観が違っただけだ。そして60歳を目前にして、変化はもう期待すべきではない。わたしの価値観を理解してもらうのも、もうめんどくさい。だったら潔く諦めて、たまに連絡を取るときくらいは楽しいところだけ見せておくべきだ。
親がわたしに愛情を注いでくれたこと、今も変わらず注いでくれていること。その事実を大切にしたい。

優しくできなかったら、いつか絶対に後悔するだろうから。
そう言い聞かせる。油断したら腹が立ってくるから、その日はもう終わりにしたくて。だから早めに布団に潜り込んだ。

11月4日(月)

わたしの誕生日のお祝いということで、個室の高級すき焼き屋のランチに連れて行ってもらった。

個室だから人目を気にせず会話できるかと思っていたが、さすがは高級店。お店の方が目の前でお肉を一枚ずつ取って、すき焼きを作ってくれるシステムだった。つまりはずっと部屋にいて、我々の会話も全て聞かれるのである。

無言でいるにはあまりにも長い時間いらっしゃるわけだし、我々が沈黙するのは店員さんにもどこか申し訳ない気もしたので、平然を装って二人で会話をする。でもどうしたって当たり障りのない会話しかできない。甥っ子の誕生日プレゼント何がいいだろうとか。
そしていざ「お召し上がりください」と出来上がった肉を出されると、自意識がリアクションを邪魔する。「ん〜」と彼女と目を合わせて、それから何を言おう。「おいしい」とか、そういうほぼ何も言っていないような言葉を放つわけにはいけない。必死にそれっぽい感想を探す。だが何も出てこない。これが庶民の舌か。

ここの店員さんも大変ではなかろうか。1日に何組もの個室のお客さんを接客する。それを毎日繰り返す。わたしたちのように、店員さんがいたら会話がぎこちなくなる客も少なくはないだろう。
自分の存在が理由でそういう空気になっていることを感じながらすき焼きを作らないといけないというのは、ちょっと辛い。できるだけ自分の存在を消しながら働くことになるだろう。

いろいろ書いたが、とても贅沢な空間でおいしいお肉を食べられて幸せでした。

11月5日(火)

わたしはよく言えば決断力がある、悪く言えば人生の割と大事なこともしっかり考えずに決めがち。考えるのがめんどくさくなって、今やりたいことを優先してしまう。(でも仕事では逆で、石橋を叩いて渡るタイプ)
彼女は逆のタイプで慎重派だから、今後は二人で補い合っていければ良いと思っている。

しかし、勢いで押し通してしまう性質上、ともすればわたしの声の方が大きくなってしまうかもしれない。それが不安だ。
大事なのは、日頃から彼女が発言しやすい関係性を築いていくことだろう。彼女がわたしと反対の意見を言った時に、いつも不機嫌になったりしていたら、彼女は自身の望みを言いにくくなるはずだ。

彼女と彼女の両親にわたしが迷惑をかけないかどうかを、わたしの両親が心配するのが煩わしいと思っていた。けれど、同棲を始めるならば、それは当然のことだとここ数週間でわかった。同棲とはそれほどのことなのである。
もう一人ではなくなるのだから、あらゆる面で責任が生じる。

11月7日(木)

昨日近所のドラッグストアで、買い物カゴに冷凍チャーハンを2袋入れたつもりが、パッケージ表面の氷のせいで引っ付いていたらしく、3袋買ってしまったことにレジを通した後に気づいた。賞味期限も長いし、どうせすぐ食べるからまあいいかと思って帰った。

しかし、今朝、パスタを1袋買うつもりがなぜか5袋買ってしまい、持って帰るバッグの中で袋が破けて麺が散らばってしまう夢を見た。意外と昨日のチャーハンの失敗を気にしてたんだなとおかしくなった。

寒い。冬になってきた。

イオンモールのユニクロで、4人家族ぶんのペットボトルをパーカーのフードに入れている女の子を目撃した。

11月9日(土)

できるだけ不機嫌にならないよう、お互いが理性的だった。

11月10日(日)

福岡からやって来た親を羽田空港に迎えに行って、五反田のホテルにチェックインする。昼は富士そばを食べてみたいと言うので連れて行く。(福岡にはない)実に安上がりな家族である。母が前日から風邪気味らしいので、昼食後は部屋でゆっくりする。わたしは部屋の風呂に入らせてもらった。

17時頃に彼女と合流して、4人で焼き鳥屋の個室で顔合わせ。
家族とは普段あまり喋らないので変な感じ。なんとか彼女を助けないと・・・・・・と焦るが、適切な話題が見つからない。それでもなんだかんだ楽しく食事ができた。帰って姉と叔母に見せる用に、われわれのツーショット写真を撮られた。2時間ほどで店を出て、それからホテルの近くのスーパーの前で両親と別れた。

帰宅中に父から「今日はありがとう」とLINEが来た。
そして姉と叔母もいるグループトークにさっき撮った写真が投下され、彼女がかわいいかわいい、可愛らしいカップルだと大盛り上がり。、家族が喜んでいるのを見るのは、想像してたよりもうれしかった。少しは親孝行になっているのだろうか。
母は「カネモトは やるときはやるよね」とコメントしていてなんか笑ってしまった。

11月12日(火)

ZINEを作りたいなあと思って、数ヶ月前に書き溜めていた文章を読み返すと、とても幼稚な文章に感じてしまった。まるでごみのよう。完全にボツだ。
最近は仕事が結構順調でほとんどストレスがないから、数ヶ月前に書いていた文章に気持ちが乗らない。

『10代からの文章レッスン』を読み終えた。
「やあ! 初めまして。本当の芸能人、大スター。ランジャタイの、国崎和也でござんす」から始まる、国崎の文章が素晴らしかった。
文章レッスンのはずが、最後にはなぜか自転車で坂道を降っていたけれど。顔に当たる風の冷たさと国崎の繊細さが伝わってくる、良い文章だった。

11月13日(水)

有給。9時半に起きて、親が泊まっている五反田のホテルへ。友だちと遊んだこの2日間がハードだったようで、もともと風邪気味だった母は調子が良くないそう。

昼はハヤシライスを食べる。こだわり強めの黒黒としたやつで美味しかった。
それから駅から歩かずに行けるし、ベンチが多くて休み休み回れるからということで、恵比寿ガーデンプレイスへ行く。
長い動く歩道に乗って、ガーデンプレイスに着いたら思いのほか両親が興奮してて笑ってしまった。特設のバカラのクリスマスシャンデリアとか、エビスビールの博物館とかで喜んでくれるなら良かった。楽しそうで何より。
展望スペースから景色を眺めてから、牛乳のカフェでパフェを食べる。家族っぽい時間だった。
17時の電車で空港に向かわなければいけない。このあたりから急激に名残惜しくなってきて、これまでの時間を取り返すように笑顔で喋る。

それから目黒に移動してパン屋と雅叙園に行った。(父は雅叙園の豪華なトイレではしゃいでいた)坂が多くて心配だったけどなんとかなった。
17時になったので電車に乗って羽田空港に向かう。品川から乗った京急の車内は混んでいたが、母は座れたのでよかった。

空港で職場へのお土産を買う父。悩んでいる姿がなぜかおもしろい。帰ってほしくないなと思った。 お土産も買い終わって、保安検査場の前のソファで何を喋るわけでもないけどしばらく粘る。
そろそろ行くかと父が言うので、保安検査場の前であっさりとお別れをした。

一人で羽田空港からの帰り道はとてもに疲れていた。頭がズキズキして、電車で座ってるのもしんどかった。気温が高かったのと、母をあまり歩かせないように一日中気を遣いながら行動してたからだろうか。

だけど、今回の両親の旅行は成功だったのではないか。来る前は、またいろいろ言われるのかなと、気が重かったけれど、ずっと楽しかった。それもこれも彼女のおかげでもある。彼女に感謝。これからはもう少し気軽にラインとかしやすくなるかもなあ。

11月15日(金)

朝イチからとてもうれしいお知らせが入ってきて、通勤電車の中、眠気で霞んでいた視界が一気にクリアになった。他の人の努力が実を結んで、わたしまで今日1日のエネルギーが漲ってきた。

1年以上連絡を返せてなかった人から、また連絡をもらった。こんな不義理をしたのに、まだわたしを気にかけてくれるのはとてもありがたい。

11月16日(土)

昨日連絡をくれた人とラインをする。こういう人たちを大事にしないといけないんだよなと強く思う。
そして、こんなに心配してもらえるくらいの関係性を築けていた、過去の自分のことも少し褒めてあげたい。

わけあって葛飾区を巡ることに。新小岩の商店街からバスで青砥に行って、さらに電車を乗り継いで柴又へ行った。曇りだったからか、葛飾区は全体的にどんよりとして活気がなかった。灰色の雰囲気にエネルギーを吸い取られてしまい、なぜかめちゃくちゃ体が重い。

11月18日(月)

仕事に疲れたので、昼過ぎに本棚の整理をした。すっきりした。

三重に行って、ナガシマスパーランドじゃなくて鳥羽水族館に行く。そういうことばかり。

11月19日(火)

昨日整理した本棚を眺めてニヤニヤする。

まだ先だが、母の60歳のお祝いには旅行に連れていきたいなあ。お金貯めないとなあ。

いまボローニャにカストロとミランダがいることを知る。懐かしのマスターリーグ。

11月21日(木)

仕事終わってシネリーブルで『動物界』を観る。
フィクス(=鳥の青年)と会話するシーン。「魚のことは礼を言う」そういう感じなんだ。コミュニケーションは取れるんだ。人間の言葉喋れるんだ。感謝の気持ちとかあるんだ。人間としての理性は残っているんだ。そうわかると、映画中盤まで得体の知れない存在だった新生物を見る目が一気に変わる。少なくとも我々観客は。
常に緊張の糸が張っていて、観に来てしまったことを後悔したが、良い作品だった。

2ヶ月後に埼玉から千葉に引っ越す予定。仕事終わりに池袋に映画を観に行くのが気軽にできなくなるんだな・・・・・・。シネリーブルとシネマ・ロサと新文芸があって、グランドシネマサンシャインもある池袋よ。

自分が相手に合わせるばかりで、相手は自分を尊重してくれない。そしてそのことに無自覚である。わたしの優しさを何かに例えてくれ。
不満が蓄積したときの自分が怖い。

11月23日(土)

読書して洗濯して、15時過ぎになんとなく原宿へ向かう。
原宿駅を出て右の横断歩道と、それを渡って続く真っすぐの道。人混みで全く前に進めない。日本で一番嫌いな場所かもしれない。

ワタリウム美術館で開催中の『SIDE CORE 展|コンクリート・プラネット』を観る。一通り観て回って、正直よくわからなかったなーと思って下りのエレベーターを待っていたら、後ろの二人組の男性も「よくわかんなかった」と言っていた。

それから映画でも観ようかと渋谷に向かう途中にぶらっと立ち寄った青山ブックセンターで、ちょうど30分後に佐内正史と保坂和志のトークショーが始まるということなので、当日券を買って参加する。1時間半くらいのトーク。
原因不明の失踪をした知人がいるという保坂さんの話に対して、佐内さんが「良い話ですね。曖昧な話って明るいじゃないですか。曖昧じゃない話って暗くて。今の話は明るい」と言っていたのが印象的だった。

夕飯を食べようと渋谷PARCOの方へ歩く道の途中、歩道を相当なスピードで走るスケボーがわたしの脇を通った。ミスしたときに自分が傷つく勇気もなくて、歩行者を傷つけるか方を選ぶダセえ奴。

さらにタワーレコードの交差点の先の坂道を、自転車に座ったまま漕いでスイスイ登っていく母と娘にも追い抜かされた。小学生から電動自転車乗んなよ。

11月24日(日)

新宿のアウトドアショップで靴を試し履きしようと声をかけた女性店員に、めちゃくちゃ面倒くさそうに接客された。その態度に内心イラッしながら靴を履いてみる。結局、欲しい色でサイズの在庫がなかったから買えなかったので、靴を片付けてもらった。
その後、適当に服とかを見ながら店内をぶらついていると、先ほどの女性店員が、同僚たちと楽しそうに喋っている。店員同士ではそんな笑顔になるのか。さっきその笑顔を見せろよと思うが仕方がない。

夜は高校からの友だちH本くんと焼き肉。新卒で入社した会社でずっと頑張っているH本くんは、われわれが通ってた高校の東京研修という行事で、OBとして講演をしたらしい。自分には考えられない。どこで差がついたのだろう。すごいなあ。
他にも、同級生たちの私生活についても情報交換をした。みんな幸せそうでもあるし、大変そうでもあるし、頑張っている。

11月26日(火)

18時頃に退勤して、グランドシネマサンシャイン池袋のIMAXで『インターステラー』を観る。あの大画面で観るとほぼプラネタリウムで、映画体験として抜群に楽しかった。
インターステラー自体は、大学生の時に近所のTSUTAYAでDVDを借りて観たのだが、家の小さなテレビではあまり楽しめなかった。いまいち気持ちが乗り切らないまま話が難しくなって、中盤以降は適当に観て、「いろいろ難しいこと言ってるけど結局家族愛の映画じゃん」と雑な感想を抱いた。
そのときの記憶がほぼないのが今日の鑑賞に幸いした。

決して一方向に流れてしまうのではない、時間のうねり。
時間を失う人、時間に取り残される人、時間に耐えられない人、時間に救われる人、時間に抗えない人、時間に操られていた人。時間の方向がさまざまあって、果てしない。

YouTubeにあがっている解説動画で、インターステラーは人類の進化の話であり、「映画の本当の主人公は、クーパーではなく進化した(重力の謎を解明した)人類である」と言っている人がいて納得した。
マンガの『チ。―地球の運動について―』も似ているが、主人公が作中に登場する特定の人物ではなく、概念的なものになっている作品に惹かれる。

11月28日(木)

『百年の孤独』がNetflixでドラマ化されるらしい。友田とんの『百年の孤独を代わりに読む』を2か月前くらいに読んだばかりなので、ドラマも楽しく観れそうだ。
でも、実写化されたならば、百年の孤独を代わりに読む必要はもうなくなってしまったのではないか。実写化は「代わりに読む」という行為にかなり近い。『ハリー・ポッター』シリーズなんてまさにその代表で、映画ファンの大半が原作を読んでいないはずだ。なのに、物語の筋はみんな知っていて、USJもとしまえん跡地の体験型施設も大盛況なのである。

いや、でもやはり「代わりに読む」ことには意味があるはずだ。そうでなければ『百年の孤独を代わりに読む』を読むことがあんなに楽しいはずがない。
小説の物語の間に挿入される、筆者の個人的な記憶。たとえば、どうしてもクリアできなかったドラゴンクエストⅢの表面をフジモトくんにクリアしてもらった話とか、お葬式で会った遠い親戚たちが誰がだれなのか全然わからなかったし、その人たちが語るエピソードに登場する人物も誰がだれなのか全然わからなかったって話とか、昔観たドラマの話とか。そうした脱線の軌跡を追うことの豊かさが、あの本にはあった。

『北海道犬旅サバイバル』を読み始める。ページを捲るたびわくわくする。それこそハリー・ポッターみたいなファンタジー小説を読むみたいな感覚。(読んだことないけど)

11月29日(金)

明日ようやく彼女に会える。でも会う日が待ち遠しいなんて思うのも、あと2ヶ月弱なのだなあ。

というか、10年近く続けてきた一人暮らしもあと2ヶ月弱で終わるなんて。この自由を本当に手放せるのだろうか。不安だ。

11月30日(土)

彼女と洋食屋でランチ。二人とも嫌いなトマトを残せるようになった。
無理して食べてた付き合いたての頃が懐かしい。


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