家には性が溢れている
7月11日(木)
親に隠れてオナニーをすることについては、これまでたくさん考えてきた。
けれど、親になったら今度は、どうやって子から隠れてセックスするのかを考えることになる、ということに気づいた。
子の性欲と親の性欲。家には性が溢れている。
どんなに無関心を装っても、隠しきることはできない。
* * *
2024年7月の日記です。
写真はその日とあんまり関係ありません。
7月1日(月)
毎晩自転車で通る道にあるアパートの1階のベランダに、いつもしゃがんで煙草を吸ってる女性がいる。誰もいないと思った夜道で急に視界に現れるので、毎回通る度に驚いてしまう。
今日も「木綿のハンカチーフ」を気持ちよく熱唱しながら走っているところを、ベランダ煙草女性にしっかり見られた。恥ずかしい。
7月2日(火)
家に消しゴムがないことに気づく。
7月3日(水)
仕事終わりに、このあいだ婚約して新居に引っ越した友だちの家に遊びに行く。築5年で2LDKできれいな家だった。
最近同級生たちの家がだんだん広くなっていく。大学生の頃や社会人になりたてだった頃は、みんな1ルームの狭いアパートに住んでいたのに。
気づかないうちに、ちゃんと大人になっているのだと実感する。
7月4日(木)
部長から「◯◯さんが金本くんのこと褒めてたよ」と言われてうれしかった。第三者を通して褒められるとうれしさが倍増するとはまさに。そんなことで喜ぶなんて単純かよと思う。だけどうれしいことはうれしいのだ。
褒められて、ちゃんとうれしいと思えるのは良い傾向だ。それに値する姿勢でいれたという自覚がないと、褒められを受け入れられないからだ。
頑張ってないのに褒められると、逆にきつい。自分はこの人を裏切ってしまっていると思ったり、自分は気を遣われてるんだなと情けなくなったりする。
これからも褒め言葉を素直に喜べるように、良い姿勢の自分でいたい。
7月5日(金)
昨日の退勤直前に他部署の上司から、仕事が増えるような提案をされて苛ついていた。確かにやったほうがいいことではあるけれど、大きな成果にはつながる類のものではないので、忙しい今はやりたくない。普通に面倒臭い。どういう理由をつけて断ろうか、あるいは気づかなかったことにしてしまおうか一晩中考えていた。
だけど一夜明けて頭がフレッシュになると、やらない言い訳をうじうじ考えるのではなくて、さっさとやってしまった方が早いということに気づいた。そっちの方が数倍楽だ。周囲からの評価も得られるし。今後もそういうメンタルで生き延びていきたい。
18時半くらいに退勤して、グランドシネマサンシャイン池袋で『もののけ姫』を観る。実は観るの初めてだったのだが、めちゃくちゃ良い作品だった。もっと早く観ておけばよかった。そう思いながら、この作品が1997年に作られたという事実、そしてこの作品が2024年の今までずっと観られ続けているという事実に驚く。
多くの人がこの作品を観ている。心を動かされている。なのに、何も変わらない。わたしたちの生活を変えられていない。
わたしたちは、感動しながら諦めているのだろうか。
自然と人間の共生。この作品のテーマは頭の片隅にはありつつも、世界はきっとこのまま悪い方向へ向かうのだろうと諦めている。
というか、もう既に取り返しのつかないところまで来てしまっているという感じがある。例えば、最近の夏はエアコンを付けなければ、命の危険があるくらいになってしまった。環境に配慮して扇風機だけで凌ぐ、なんてもはや無理だ。第一に自分の命を守らないといけないのだから。
もう今の地球には、映画の中のような再生力がないのかもしれない。
それに、自分が生きてる間はなんとかなるだろうという自己中心的な考え方もある。
何かを変えること、変わることには痛みが伴う。この世代で終止符を打つという覚悟を持つ。そんなことは可能なのだろうか。
7月6日(土)
どうでもいいような細かいところで、どうしようもなくイライラしてしまう。よくないと自覚してるのに、瞬間瞬間で感情のコントロールができなくなる。何度もこの日記に書いているくらいには治したいと思っているが、治せない。
千葉県立現代産業科学館に行く。家族連れで賑わっている。約100万ボルトの雷を再現する放電実験の時間になったので、実験室に入る。係の人が実験の説明をして、いざ放電というタイミングで部屋が暗くなると、子どもたちが「うわーーー」と歓声を上げた。
懐かしい。小学生の頃は、教室や体育館の電気が消えたとき、みんな興奮して「おおぉぉぉーーー」という声を出していたのを思い出す。
22時頃、駅のバス乗り場に並んでいたら、前の女性がコンビニで買ったポップコーンの袋の下の方を開け、上下逆さに持ってバリバリと口に運んでいた。なんだか痺れる光景だった。
7月7日(日)
深夜にサッカーを観て、昼前に起きて読書して、野球を観ながら洗濯して、14時からはABCお笑いグランプリを観て大笑いした。
夕方は新宿のあづまでビフテキを食べて、夜はK’sシネマで『スミコ22』を観る。
22歳のスミコの日記形式の作品。
柔軟剤って柔軟剤って感じがしない。この世にはもっと柔軟剤という単語に適したものがある気がする。例えば、体を柔らかくする薬とか?
みたいな会話があっておもしろかった。単語の本来の居場所というか、その単語がもっとポテンシャルを発揮できる対象があるのではないかという疑いを持つことの豊かさがある。
上映後のトークショーで主演の堀春菜さんは、「撮影していると、それぞれのシーンのスミコが、一人の人間として繋がっているのかな? と思うこともあった。けれど、完成した作品を観てみると、ちゃんとスミコという一人の人間だった」というようなことを話していた。
誰と一緒にいるのか、誰かに見られているのかいないのか、忙しいのか暇なのか、どのくらいお金があるのか、晴れてるのか曇っているのか、空腹なのか満腹なのか・・・・・・。いろいろな状況によって、自分の人間性も変わる。けれど、変わらない部分もある。そういう非連続性と連続性が、非常に日記的だった。
今日は趣味を全て詰め込んだ素晴らしい一日だった。と満足しながら就寝。
7月8日(月)
最近中途入社した年上の人に、社内のことをいろいろ教えている。なんだか、まるで自分が仕事できる人になった気分になる。
受け身な人が嫌いで、自分を持ってる人が好きだと言うけれど、それはあくまで「わたしにとって都合の良い自分」を持ってる人を求めてるだけなのかもしれない。だとしたらわたしはクズだ。
7月9日(火)
電子レンジを開けたら、昨日の昼に温めたまま存在を忘れていたスープがあった。
INAの『つつがない生活』を読む。#8 卒業式での1シーンが心にズシリとのしかかった。
7月10日(水)
執行役員との1on1で、担当業務での成果をアピールしまくる。そういうのはあまり得意ではないが、すべては昇給のためだと言い聞かせ、改善した数字を並べまくった。
仕事終わりに、池袋で再上映中の『TENET』を観に行く。
『TENET』も『インセプション』も『インターステラー』も、こんなに難しくしなくてもと思う。もう少しわかりやすくした方が、最終的なテーマにしている愛や友情を味わいやすいよなあと。
けれど、わたしたちが生きている現実のわからなさを映画の中で再現するには、このくらいわかりにくくする必要があるのかもしれない。
最近エバース町田の虜です。
7月12日(金)
今日は雨で涼しかった。
7月13日(土)
手と足の爪を切った。その後外出して爪を見たら、左手の爪だけ切り忘れていたのに気づく。
グランドシネマサンシャイン池袋で上映中の『千と千尋の神隠し』を観に行く。幼稚園生の頃に映画館で観て以来初めて観る。記憶していた展開とかなり違って笑ってしまった。カオナシがラスボスの超悪役だという認識だったのに。あんなに可愛かったなんて・・・・・・。
夏用に新しく軽いトートバッグを買った。バッグ自体が防水じゃないので、ゲリラ豪雨に備えて防水のタブレットスリーブやポーチを揃えようと思い、ネットでいろいろ調べる。これが結構沼だった。
完全防水でデザインもかっこいいポーチを見つけたのだが、値段を見ると5,000円以上する。ポーチにこの値段は・・・・・・。でもかっこいいなあ。
7月14日(日)
レンタカー屋の前で溜まっている大学生グループを見て、懐かしい気持ちになった。みんなでドライブで遠出する前の高揚感。羨ましい。
家に帰って、映画『二十四の瞳』を観る。
向こうの都合で我慢を強いられているのだから、それぐらいはいいじゃないか。と、だんだん意地悪な考え方になっていくのが自分でもわかる。
今ここでは欲を見せたほうがいいのか、隠したほうがいいのか。その判断が上手い人間ほど、人生を楽しく生きられるよなあと思う。
あとはその判断に対する思い切りの良さと、主観性の強さ。
7月15日(月)
昼頃、近所のうどん屋へ行く。満席なので名前を書いて外でしばらく待つ。後から来た小さい子連れの4人家族は、その辺に転がってる石を集めて、誰が一番高く積めるか競争していた。
うどんを食べてから近所の図書館へ行く。本棚に隠れて指ピストルを撃ってくる子どもに3発くらい撃たれた。
今日は最高気温が27度くらいで涼しい。ずっとこの気温が続けばいいのに。
夜はnoteでスイスイさんのエッセイを読んだ。どのエッセイも面白くて惹き込まれる。テーマも、構成も、情景描写も、何よりエピソード自体が、圧倒的に力強い。
自分が今書いている文章とまるでレベルが違う。実は最近、ここに書いている日記といくつかエッセイをまとめて本にしたいと思い、毎日仕事終わりにPCに向かっている。我ながら結構良い感じの文章書けてるかも! とか思っていたけれど、少し、というかかなり自信を失ってしまった。
もちろん文章力や表現力にも差を感じるけれど、絶対に敵わないんじゃないかと思うのは、そこに書く経験の鮮烈さ、そして記憶の鮮明さだ。
まず、これを書きたい書くべきだという経験自体が、わたしには圧倒的に不足している。川沿いで下半身を露出していたサラリーマンと仲良くなって家に行ったり、部室で性行為を目撃されたり、ネットの掲示板で出会ったギタリストと淡い時間を過ごしたり・・・・・・、そういうユニークで面白い経験をしてきてない。
かといって、誰しもに共通するような経験に、新たな視点を提供できるような観察眼もない。
それに、そもそも学生時代のことはほとんど覚えていない。あの頃クラスでどんなことがあったのか、そのときは晴れていたのか寒かったのか、周りはどんな空気だったのか、わたしは何を感じて何を感じなかったのか。学校の外では? 通学路では? 家ではどんなことがあった? 通ってた塾では? ほとんど何も浮かんでこない。ぼーっと生きてきたんだなあと気づく。意識的に生きてこなかったが悔やまれる。
経験が不足していることと、覚えていないことでは、どちらが重症なのだろうか。どちらでもいいが、これまでわたしの意識の端を流れ過ぎていった光景は取り戻すことはできない。
別に誰に求められてるわけでもない自己完結した行為なので、本を作るのをやめたっていい。やめるまでいかなくても、もっと上手にエッセイを書けるようになってから本を作り始めればいい。そう思う。
だけど、そうやって先延ばしにするのが絶対に駄目ということだけは、ぼーっと生きてきた中でも学んでいる。ずっと自分の手元でこね回していても全く無意味なのだ。不完全でも外に出して、他者に見てもらわないと、何も起こらない。
だから、一旦本という形にして外に出す。自信は失っているけれど。
7月16日(火)
涼しいからエアコンは消したけど、湿気がすごい。じめじめの中でシャキっとすることはできない。つまりダラダラと仕事をした。仕事に関しては、今日は自分の日ではなかった。
7月17日(水)
仕事終わりに散髪に行く。
いつも通ってる理容室では、毎回「前と同じ感じでお願いします」と頼んでいる。見事にサイドの刈り上げのミリ数まで全く同じで、2か月前の長さを再現してくれる。
カット中の会話では、わたしの仕事のことや住んでる場所のことなどを踏まえた話を振ってくれる。前来たときに話した内容も頭に入っているようだ。
わたしに関するさまざまな情報がカルテで引き継がれているようだ。
1000円カットとかでない美容室理容室において、カルテ作成は基本なのだろう。
いつも思う。カルテがあるなら、わたしのカルテをわたしにも見せてくれればいいのに。
毎回オーダーのとき「前と同じ感じでお願いします」に続けて「つむじのところを軽くしすぎるとハネるので、あまり切りすぎないでお願いします」と付け加えている。
実際のび太くんみたいにハネてしまうから、それだけは絶対に伝えるようにしている。
そのこともカルテにちゃんとカルテに書いてくれてるのだろうか。もしも書かれてなかったら、書かれていても小さな字で読み飛ばされていたら。
そう考えると不安だから、オーダー時に漏れなく伝えるようにしている。けれど、カルテに「つむじ ハネる 注意!」と太字で強調されているのであれば、オーダー時にも改めて伝えたら「出た! つむじ切らないでのお願い!」「よっほどコンプレックスなんだな・・・・・・」とか思われてしまいそうで恥ずかしい。
途中で、小学校高学年(もしかしたら中学生?)くらいの男の子が、母親に連れられてやって来た。少し待って席に通されると、母親が鏡の前まで付いて、担当の理容師に「前髪は眉毛くらいで、横は耳にかからない感じでサッパリしてください」とオーダーしていた。
そういえばわたしはいつまで親と散髪に行ってたのだろう。いつから一人で散髪に行くようになったのだろう。きっかけは何だっただろう。何も思い出せない。
7月18日(木)
新しく入ってきて間もない人からの、客観的な視点による何気ない意見やふとしたつぶやき。そういうものから、自分がすっかり慣れてしまった環境について、改めて気付かされる場面がたまにある。意外と結構なダメージを負ってしまうことが多い。
7月19日(金)
嘘をつき続けなければいけないという苦しさ。
いつバレるだろう、もしかして相手にはとっくにバレているのではないか。
嘘をつきたくてついてるわけではないのに、それしか方法はない。嘘に嘘を重ねて自分が自分でなくなる。
そういうものだと思ってたけど、あなたはまるで違ったようだ。清々しくて、もはや全部が喜劇のように思える。
帰りは同僚と二人で飲みに行った。読後感の悪い飲み会だった。早く帰ってYouTube観た方が楽しい。
7月20日(土)
昼過ぎに銀座へ。外は命の危険を感じるほど暑かった。
シネスイッチ銀座で『墓泥棒と失われた女神』を観る。ラストの赤い糸が素敵だった。
夜は先輩と飲みに行った。
話し合いでどうとでもなる些細なことばかり気にして、何にも代えがたいものの価値を忘れかけていたことに気づく。そして30代以降は、否が応でも台風のような日常に巻き込まれるのだから、自分のことで思い悩む余裕もないそうだ。気持ちがだいぶ楽になった。
もともとの目的からは逸れたけれど、かえってとても有意義な時間になった。そういうことってたまにあって、人間らしいなと思う。
7月22日(月)
この世の終わりかというくらい雷が鳴り続けた。
泣いて笑える、笑って泣ける、そういう作品は意外と多くあるけれど、泣いて笑えて泣ける、笑って泣けて笑える、そういう作品は稀有だ。
わたしの感情を振り回してぐちゃぐちゃにしてくれる。わたしたちは方向感覚を失い、ただ生きていることを肯定できるようになる。
7月23日(火)
あのとき選ばなかった道に後悔はある。
けれど、たとえその道を選んでいたとしても、当時の自分ではその環境でうまくやっていけなかっただろうと思うようになった。望んでいた環境に値しない人間だった。
単純にわたしは嫌な奴だった。もしも他の誰かに生まれ変わって、学生時代の自分と友だちになりたいかと聞かれたら、迷わずNOと答える。
7月26日(金)
出社日。仕事帰りに新宿西口のブックファーストへ。モード学園のタワーの秘密基地みたいな雰囲気のなか、ちゃんと本が主役の店でかなり好きな本屋。広いし、22時半まで開いてるのもうれしい。『大辻清司実験室』の本を買って帰る。
寝る前に大学時代の日記を読み返した。
福岡から上京して、友だちも知り合いもほとんどいない状態からスタートした大学生活。当時のわたしは、自分の居場所を求めて彷徨っていた。いろいろな場所にいつも一人で飛び込んで、その日その日の出来事に、ピュアに喜んだり傷ついたりしている。
思い出したくないような失敗もたくさんしている。自分自身が今よりもずっと嫌な人間だったから、そんな失敗をして当然だ。
それに考えてみれば、大学時代はほとんど全てのことが初めてだった。育ってきた環境が全く違う人と関わったり、何にも縛られずに人と付き合えたり、誰かと一緒に研究したり、教師以外の大人と関わったり。初めての経験だったならば、失敗して当然とも思える。あの時期は大人になるために必要な過程だった。
しかしこうして振り返ってみると、この時の自分は意外と行動的というか、人と関わろうと頑張っている。手に入らなかったものばかり気にして、もしかしたら自分の過去を過小評価していたのかもしれない。そう思えた。
7月28日(日)
昼過ぎに渋谷へ。ユーロスペースでギヨーム・ブラック監督の『みんなのヴァカンス』と『やさしい人』を観る。
『みんなのヴァカンス』は2回目の鑑賞。登場人物がみんなかわいくて、大好きな作品。
登場人物たちがヴァカンスのうちに成長したとか、そういう時間ではない。
だけどあの3人組と、他の登場人物たちにとって、数年後数十年後に思い出したら身悶えてしまうような記憶として、頭の溝にこびりつくような時間になるのかもしれない。
わたしたちは無数に流れる時間のから一瞬を切り取って、記憶という結晶を作る。結晶には甘いものも苦いものもある。
美しい記憶の結晶のなかで、その人が死ぬまで純粋に美しいままであり続けられるものはどのくらいあるのだろうか。
そんなもの、ほんの一握りかもしれない。
どんなに楽しい時間を過ごしても、その人との関係が現在まできちんとした形で続いていなければ、記憶が美しいままであることはない。関係が途切れたり、疎遠になったりしたならば、美しい記憶に不純物が混ざる。思い出すのも嫌になってしまう。
美しいままであり続けられる記憶なんて1%くらいで、残りの99%は生きていれば苦さや恥ずかしさを伴って濁った結晶となって、頭の溝にこびりつく。
その99%の濁った結晶をいかに味わえるか。それが人生を豊かにするコツなのかもしれないと思った。
夜はサクラステージに新しくできた本屋へ行った。きれいだった。
7月30日(火)
上司の小学2年生の息子が、初めてバスケの試合に出てゴールを決めたらしい。上司がうれしそうに見せてきた得点シーンの動画を見ると、完全にダブルドリブルだった。
上司は気づいてないのだろうか、それとも気づいていながら息子を褒めまくっているのだろうか。
どちらにしても愛だ。
7月31日(水)
あんなに頑張っているのだから報われてほしい。何かしてあげたい。
だけど、何もしないでいるのが、一番相手のためになる。
今はそういう状況。