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大戸屋のバイトとやよい軒のバイトのカップルが、サイゼリヤでパスタを食べていた

6月10日(月)

夕方クリーニングを取りに行く道で、中学生の男子2人組と女子2人組が微妙な距離を取りながら歩いていた。

前を歩く男子2人が時々後ろを振り向いて、女子2人にちょっかいをかける。女子2人は呆れた感じを出してはいるが、とても楽しそうだ。

青春すぎて眩しかった。よれよれのTシャツにサンダルで外に出た、無防備なアラサー男性には少し刺激が強すぎた。

* * *

2024年6月の日記です。


6月1日(土)

小田急線の向ヶ丘遊園駅で降りて、生田緑地を散歩する。
空気が水分を十分に含んでいて瑞々しい。深く息を吸いたくなる。鳥のさえずりに心が安らぐ。

広場は家族が連れが多い。小さい子どもがちゃんと外遊びしている。
もしも自分が親になったら、子どもに自然に触れる機会を作ってあげられるだろうか。

福岡の都市部に生まれ育ったわたし自身、かなりのインドアで、たくさん自然に触れてきたわけではない。それでも、庭に塊のように茂るローズマリーの匂いをいつも嗅いでいたし、枇杷の木になる淡いオレンジ色の果実を、毎年柄の長いハサミで取って食べていた。他にも、散歩道で摘んだヨモギの葉でヨモギ餅も作ったりもしたし、網戸に張り付いていたクワガタ捕まえて飼ったりもしていた。

そんな少年心はどこへやら、いまではすっかり大の虫嫌いインドア男になってしまった。最後に海や山に行ったのはいつかも思い出せない。
もう8年くらい東京近郊のアパートに住んでいて、おそらく今後も東京近郊に住み続ける。付き合ってる彼女も虫嫌いのインドア派なので、このままいくと、わたしたちが親になっても、子どもに自然と触れ合う経験をさせてあげられない。もしも、子どもが虫を持って迫ってきたりしたら、発狂してしまうだろう。

そんな親に育てられて、果たして健やかな心身は育めるのだろうか。
しかし、同じように虫が嫌い、自然が嫌いなまま親になったという人は多いのではなかろうか。その人たちはどうやって子どもと遊んでいるのだろう。教えてほしい。やはり親は頑張るしかないのだろうか。

6月2日(日)

大戸屋のバイトとやよい軒のバイトのカップルが、サイゼリヤでパスタを食べていた。

6月3日(月)

わたしが学生の頃、父は毎日、会社から帰る時間に母にメールで
🐸
と送っていた。
🐸=帰る、という意味である。

いま思うと、カエルの絵文字一つで毎日やりとりしてた両親は、夫婦としてとてもかわいい。

6月4日(火)

16時すぎに退勤して、カネコアヤノライブへ。
ライブのことは、こちらの記事に書いたので読んでもらえたらうれしいです。

ライブ中に、何も関係ないことを考えてしまうことがよくある。「今日の夜何食べよう」とか「迷ってたけど、あの服やっぱり買おうかな」とか「前行ったあそこにまた行きたいな」とか。
これまでは、目の前の素晴らしい光景に集中できていないのが勿体ないと思っていた。
けれど最近、そういうことを考えてしまうのは、ライブが素晴らしいからこそだと思うようになった。歌われる詞は絶対的に一つなのに、その音は聴く人一人ひとりの身体の中で反射する。触媒となって、一人ひとりの記憶を呼び起こす。わたしたちの内部が曲と共鳴する。

聴いていると、生活のことや、これからのことをつい考えてしまう。そんな曲は、素晴らしいではないか。

6月5日(水)

今日もカネコアヤノのライブ。開場してスタンディングの前のほうに位置取る。右斜め前ではカップルが横並びで楽しそうにお喋りをしている。彼氏が身長170センチ後半くらい。1時間弱立ったまま待って、いよいよ開演5分前になった。すると、右斜め前の彼氏が、後ろに立つ身長の低い女性に向かって、「ステージ見えます?ここいいですよ」と、前を譲った。わたしも一瞬で彼の優しさに惚れてしまった。誰もが少しでも近くでアーティストを見たいと思ってるなかで、こんなことできるんだ。すごすぎる。
(ちなみに彼の外見は、イケメンという感じではないけれど、柔和で包容力がありそうだった)彼氏が後ろに下がったことで、カップルは前後する位置関係になった。

ライブが始まると、1曲目から彼氏は「フォーーー!!!」と叫んで、腕をぶん回し始めた。序盤からエンジン全開でノリノリな人は少ないので結構目立つ。さっきの優しさとギャップがあって、思わず笑ってしまった。でも良い。ライブハウスでは、こういう人がそのライブの雰囲気を作ってくれるのだ。前に立つ彼女は、たまに後ろを振り向いて、彼氏に何かを言っている。その笑顔が素敵だった。何曲かすると、彼女も手を上げて「フォーーー!!!」と叫び始めた。

この二人は、普段どういう会話をするんだろう。照れずに感情をちゃんと表に出せる二人。ベタでしょうもないボケをしたり、コテコテのノリツッコミをしたりするのだろうか。相手の嫌なところは正直に伝えられて、自分が悪いと思ったら目を見て謝るのだろうか。恥ずかしがることなく、真っ直ぐな愛情表現をするんだろうか。自分とは何もかも真逆に思える二人を見て、そういうことを考えた。

6月6日(木)

夕方に窓を開けていると、隣に住む小学5年生のハヤトくんと、そのお母さんの会話がよく聞こえてくる。いつも、1階にいるお母さんが、2階にいるハヤトくんに「宿題やったの?」「ご飯ですよー!」「早く風呂入りなさい」と強めの声で呼びかける。ハヤトくんも結構反抗的で、「今やろうとしてたのに!」「まだ待って!」と言い返すのが、聞いてて面白かった。

今日はハヤトくんがゲホゲホゲホとわざとらしい大きな咳をしている。わざとらしすぎる。そして案の定「今日は塾行けない・・・・・・ゲホゲホゲホ・・・・・・ゲホゲホゲホ」と言った。
嘘の咳って、客観的に聞くとこんなにも分かりやすいんだ! と感動してしまうほど。とにかくわざとらしくて面白かった。

結局、死にそうになりそうな咳の演技も、あのお母さんには通用せず。しばらくして、塾に出かけていったようだった。

6月7日(金)

上司と同僚から苦しめられてもう無理。悲惨です。感情を失いかけている。

唯一信頼している上司に愚痴を言ったら、親身になって聞いてもらえた。だが最後に
「とはいえ、カネモトさん本人がこのベンチャーに入社することを決めたんだから・・・・・・」
と言われた。そうなのだ。100%自分の意志でこの会社に入ったのだ。

そして、自分で決めて入ったこの会社で、給料を上げていくには、いろいろな仕事を拾って、周りにアピールし、上司にへこへこするしかないだ。

人に使われたくない。そもそも、こまめに報連相をしなければならない環境が向いてないと感じる。しんどい。

6月8日(土)

映画『あんのこと』の舞台挨拶に行く。河合優実の存在感たるや、すごい。

池袋でカツ丼を食べてから家に帰った。仕事が休みの日って、なんでこんなに楽しいんだろう。生きてることが全て楽しい。この世界って素晴らしい。そう感じるほど。
人生において仕事が邪魔すぎる。

6月11日(火)

昼間暑すぎて、今年初クーラーをつけた。

夜は映画館へ『違国日記』を観に行く。爽やかで良い作品だった。

わたしが小学校低学年の頃、4歳上の姉が、担当の風呂掃除が面倒くさかったのか「掃除しといてくれん? 100円やるけん」と母に言って、母からブチギレられていた。その金は誰から貰ったものか分かってるのかと。
説教されながら泣く姉の濡れた頬を、かわいいかわいい弟はティッシュで拭いてあげていた。

そんなに純粋で健気な弟を、姉はその後何年にもわたって無視し続けるのであった。鬼か。

6月13日(木)

夜に渋谷へ映画を観に行くつもりだったが、人身事故で電車のダイヤが大きく乱れているようだったので断念する。電車が動いてないと、ここから出ることすらできない。

冷たい素材のシーツを敷いたベッドに、半ズボンの脚を投げ出す。とても気持ち良い。少し前までは「窓から入る夜風が気持ち良い」と言っていたし、その前は「温かい布団の中が幸せだ」と言っていた。

毎年毎年、ああもう夏になるのか嫌だな・・・・・・、もう冬になるのか嫌だな・・・・・・と思うけれど、暑くても寒くても、エアコンを付けて適切な服装をすれば、気持ち良い。もしかしたら、この世界で生きること自体が、思ってるよりもずっと気持ち良いことなのかもしれない。

6月15日(土)

ネットで買ったリュックにもトートにもなる2Wayバッグが届いた。基本はリュック派だけど、夏の日中は背中が蒸れて暑いので、トートとしても使えるカバンが良いなと思って選んだ。これで気温や気分によって持ち方を変えられてハッピーだと思っていたが、いざ実物が届くと、トートとして使うときの持ち手部分が少し短かった。全然使える範囲ではあるが、肩掛けすると若干窮屈な感じになってしまう。もう少し持ち手部分を長くしてくれれば良かったのに、と思ったが、これ以上長くするとリュックにしたときに不格好になってしまうのだろう。

リュック、トート、ショルダー、ボディーバッグ・・・・・・。それぞれのカバンにメリット・デメリットがあるし、欲張って2Wayにしてもどこかでバランスがおかしくなる。

結局どこかは妥協しなければいけないのかもしれないし、使い分けが必須なのかもしれない。理想のカバン探しは難しい。

6月16日(日)

池袋のカツ丼屋へ。最近2週間に1度は来ている気がする。店は狭めで、いつも18時頃になると行列ができる。
今日は17時半くらいに着いて、店内で最も大きい4人席のテーブルに1人で通された。
すぐに注文したカツ丼が届いて、幸せを噛み締めながら味わっていると、やはり店の外には列ができ始めた。店内を覗くお客さんに対して、店員さんが「満席いただいてますので、こちらでお待ちください」と声を掛けている。満席いただく・・・・・・? おもしろい表現だ。

それから、60代くらいのおばあさん2人組が入店した。2人ともカツ丼を注文して、しっかり食べている。見た目や声だけじゃなくて、内臓もすごく元気なのだろう。わたしもその年でもカツ丼を食べられる身体でいたい。

なんてことを思っていたが、ご飯を大盛りにしたのが響き、もう後半になると箸が止まってしまった。はじめは4人席のテーブル広々と使えてラッキーと思っていたのに、店の外にできている列を見ると「なんであいつ一人であんな席座ってんだよ」「早く食って出ろよ」という視線を感じてしまう。違うんです。たまたまタイミング的にこの席に通されただけで、希望したわけじゃないんです。早く食べないと・・・・・・。しかし、お腹いっぱいで箸が進まない。焦る。変な汗が出る。箸が進まない。

6月18日(火)

一昨日カルディで、ちょっと良い生ハムを買った。

まず、めちゃくちゃ美味しい。それに調理不要で、つまみ食いに皿を使わなくて良いから、在宅ワークが中心のわたしの強い味方だ。生ハムは冷蔵庫にあるだけで生活に安心感をもたらす。

しかし、冷蔵庫を開くたびに、つまみぐいの衝動と戦わなければならなくなる。決して安くないのだが、一欠片くらいいいやと思って食べていると、すぐなくなってしまう。生ハムは冷蔵庫にあるだけで生活に緊張感が生む。

6月19日(水)

9月に夏休みを取って、直島・小豆島に行くことにした。ホテルと飛行機の予約を取った。

6月20日(木)

昨日から一歩も外に出てないのでちょっと運動しようと思って、22時頃に目的もなく自転車で外に出た。夜風が気持ち良いので、ずっと真っ直ぐ漕いでいたら、和光市まで来てしまった。このままさらに進めば練馬に着く。当たり前だけど、埼玉と東京ってちゃんと繋がってるんだなと思った。いつも電車で移動していると忘れてしまう感覚だけど、街と街は繋がっている。車を運転してたら、こういうことをきちんと感じるのだろう。いつでも好きなときに、自分の足で東京に行けることを実感した。一つレベルアップした気がする。

幸魂大橋という荒川と彩湖にかかる橋を自転車で走っていると、気持ち良さと怖さが入り混じった。この怖さは、強い風が吹いたら湖に何かを落としてしまいそうだからかもしれないし、側の車道で大型車がたくさん走ってるからかもしれないし、スマホと家の鍵だけ持って意外と遠くまで来てしまったからかもしれない。こんな夜にみんな車でどこに向かっているんだろう。この世にはこんなにたくさんのトラックがあるのかと思った。

夜にほとんど手ぶらで、家から結構離れたから不安になるということは、つまり家がちゃんと家であるということだろうか。

6月21日(金)

インスタの親しい友だちの機能。調べたら2018年に追加されたらしいので、わたしが大学4年生のときだ。この機能が、高校生のときになくて良かった。というか、大学2年生くらいまで、この機能がなくて本当に良かった。

もしあったら、それはもう頭がおかしくなっていたはずだ。「あの子の親しい友だちになりたい」「なんで俺だけあいつの親しい友だちになってないんだ」ということしか考えられなくなって、好きな子やイケてる奴の気を引くために、変な絡みをしていただろう。反対に、自分より格下だと思ってる相手には「え、俺にとってお前は親しい友達じゃないよ??」みたいなことも言っていたかもしれない。

親しい友だちという認定に振り回されて、嫉妬と憎悪に狂っていたにちがいない。

6月22日(土)

相手にしてほしいことを、言葉できちんと伝えること。それが大事だとはわかっている。どんなに二人であっても、あくまで他人同士なのだから。察してほしいなんて傲慢である。

わかってはいる。わかってはいるのだけど、自分の口から言ってしまった時点で、全く意味がなくなる物事も、なかには存在する。相手の方から、進んでしてほしい。そうじゃないと、ただのごっこ遊びの演技大会になってしまう。

この面倒くささ、理性的な自分、それでもあなたにわかってほしいという期待。全てを受け入れて許してほしい。

これからのことを話し合うと、悩みが具体的になった。急に現実味を増して、わずかな緊張感が生まれた。少しだけ、怖くなる。

錦糸町の中華料理屋で食べたエビマヨがとんでもなく美味しかった。

6月23日(日)

押入れにガラクタを詰め込んでいる。飾り場所がなくなった雑貨類、組み立て家具の予備のネジ、電子機器に付属していたケーブル、大学時代の教科書やノートなど。9割方捨てても困らないものなのに、いつか必要になる時が来るかもしれないと思って捨てられない。

『うしろめたさの人類学』を読み終える。

ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。
それで、少なくとも世界の観方を変えることはできる。「わたし」が生きる現実を変える一歩になる。その一歩が、また他の誰かが一歩を踏み出す「うしろめたさ」を呼び寄せるかもしれない。その可能性に賭けて、そろりと境界の外に足を出す。それが「わたし」にできることだ。

夜は『わたしは光をにぎっている』を観る。

「最後までやりきりましょう。どう終わるかって、多分大事だから」「ちゃんとしましょう」

言葉が、わたしたちを支えてくれる。言葉が、わたしたちを”ちゃんと”させてくれる。

一つの時代が終わって、古い建物は取り壊されていく。いま、一日にどれだけの建物が取り壊されているのだろうか。古いものが失われていく。
建物だけではない。わたしたちの生活においても同じだ。

それで、わたしたちはこの生き方を変えることが出来るのだろうか。何を大事にして生きていけばいいのだろうか。まずは言葉から考えていく。

6月25日(火)

優しくしようと思って時間を取ったのに、結局突き放したような言い方しかできない自分に嫌気がさす。事前にシミュレーションもして、どう接するべきかも想定していたのに。

そして、些細なことにも苛立ってしまう自分が怖い。いけないと分かっているのに、自分をコントロールできない感覚。最悪だ。少し時間が経ってから、いつも後悔してしまう。

6月26日(水)

仕事が忙しい。
仕事ができない人、他人に仕事を擦り付けるのをなんとも思わない人、定時で帰らなければいけない正当な事情がある人、被害者のように主張できる人。そういう人たちが得をする。
仕事が忙しい。

6月27日(木)

仕事が忙しい。

近所のドラッグストアでいつも買ってる味の素の冷凍チャーハンが、減塩に変わっていた。ドラッグストアと味の素から「30歳も近いのだから、そろそろ健康にも気をつけろ」と言われている気がした。うるせえ。

6月30日(日)

14時前にJ野くんと池袋で待ち合わせ。タカセでパンを買って、歩きながら食べて、映画館で『ルックバック』を観る。

夜は、高めの焼肉屋に行くか、中くらいの焼肉屋に行くか、安い焼肉屋に行くか、迷った末に安い焼肉屋へ行った。

白のお気に入りのTシャツを着てきてしまったので、紙エプロンを貰おうと思ったが、ないと言われた。さすが安い焼肉屋。もう安い空間で恥ずかしさなんてものもなかったので、Tシャツを脱いでベージュの下着で肉を焼いた。

お腹いっぱい食べて、飲んで、会計は一人5000円くらいだった。J野くんが「ここで安い肉をいっぱい食べて5000円払うなら、7000円払って良い肉を適量食べた方がいい気がするな」と言った。その言葉にハッとした。たしかに安い肉をいっぱい食べても、今日は苦しいだけだった。もう俺たちはそんなに若くない。量より質の年齢なんだと実感した。実感してしまった。


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