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足元を大事にしようと決めた日

わたしはいま地方で働いているけれど、高校生の時までは、そんなこと1ミリも想像していなかったし、「こんな田舎早く出たい」とすら思っていました。そこからなぜ『地方』で働くに至ったのか、まとめてみたいと思います。

(読む方にとっては「ちょっと重い」「そんな大げさな」と感じさせちゃうこともあるかもしれません...苦しくなったらそっと閉じてください)

幼い頃の『家族』の記憶

わたしが生まれる前、家族は『転勤族』で名古屋に住んでいたけど、父が実家の会社を継ぐことを見据えて、故郷の富山に戻ってきた。そして、わたしが生まれた年に、父方の祖父が倒れて、父は予定よりも早く社長になった。
きっと仕事が大変だったんだろう、小さい頃の父との記憶はほとんどない。

専業主婦だった母は、よく「富山に戻る前は楽しかった」と言っていたのを覚えている。そんな閉塞感から解放されたかったのか、わたしが幼稚園に入る頃に、母は書道の仕事をはじめた。
でも母方の祖父は、富山ではそこそこ名の知れた書道家で、それにも閉塞感を感じていたのか、母の「富山を出たい」という言葉が、いまでも耳に残っている。

4つ上の兄は、あまり多くを語らないけど、比較的何をやっても "デキる子" だった。特にピアノや日本舞踊で注目を浴びていて、母はよく『自慢の息子』として、人に話していた。

3つ上の姉は、家族の中ではとにかくよく喋る子だった。食卓ではいつも姉を中心に会話がまわっていて、両親を笑わせていた。

『家族』という身近なコミュニティでの存在価値

忙しい両親。みんなから面白がられる兄姉。
自分だけ中に入れていない気がしていて、でも自分のことも見てほしくて、必死だった。それが度を過ぎて、母に迷惑をかけて、「あんたなんか生まなきゃよかった」と泣かせてしまったこともある。

それからは少し親と距離を置いて、わかりやすい『評価』や『レール』に乗って認めてもらうことで、自分の存在価値を出すことに努めてきた。家族に自分のことを認めてもらうツールとして、学校の『通知表』には、とても助けられたと思う。(クラスの友達や部活、運動会の応援団など、家族以外のコミュニティにもとても支えられた)

こうして高校卒業まで順調にレールに乗って、指定校推薦で無難に大学受験を終え、予定通り東京の大学に進学が決まった。
このときは「こんな田舎早く出たい」「東京に出れば、きっと自分の居場所が見つかるはず」と思っていた。

コミュニティの変容と自分探し

わたしが東京に出て間もなく、両親は離婚した。
わたしが高校生のときから着々と離婚の準備は進んでいたので、驚くことはなかったけど、それでも自分が『居場所』を求めて関わっていた『家族』のかたちが変わることは、やっぱり寂しかった。

その寂しさを埋めるように、居場所を探すように、授業・バイト・サークル・インターン・ボランティアなどで予定を埋める日々。
でも、これまで『評価』にすがって生きてきた自分にとって、『やりたいこと』を見つけることは難くて、いつも『正解』を探してしまう。それはゴールのない暗闇の中で長距離走をしているみたいで、しんどくて、虚無感を感じるようになっていた。

目の前にあるものへの気付き

そんな虚無感を抱えながら、大学3年生のときインドへ一人旅に出た。
マザー・テレサの家でボランティアをさせてもらったり、出会ったインド少年と話したり、まちの子どもたちと触れ合ったりする中で、たびたび「この人たちのほうが幸せそう」と思った。

インド少年たちはやたら家族を紹介して自慢してくるし、まちを見渡すと家族で行動している人が多くて、みんなが「目の前の人を大事にしている」ことに気付いて、なんだか自分が恥ずかしくなる。

そんなとき携帯の電源を入れると、普段ほとんど話をしない父からメールが届いていて、
「奈津子の無事を祈っています。」
というその一言だけで、涙が止まらなかった。

ただそれだけでいいのに、ただそれを感じ取る力がなかったのだ。

足元に帰る

日本に帰国して、もう一度「足元を大事にしよう」と決めた。
家族や友人に連絡を取って、コミュニケーションを取っているうちに「こんなに目の前に幸せがあって、ただそれを大事にしてこなかったんだな」と痛感したし、「自分は認められることに必死で、どれくらい相手のことを考えてこれたのだろう」と反省した。

そして、「こんな田舎!」と思っていた『地方』にもう一度目を向けたい。
もしそこで、自分の『居場所』や『誇り』を見失っている人がいるなら、その人の支えになりたい。
という想いが芽生えて、大学生活の最後に石川県で住み込みインターンシップをすることにした。
(諸事情により富山には帰らなかったけど)

インターンでは飲食店の定休日を活用して、コミュニティカフェを運営。
「一緒にカフェをつくりましょう!」とよびかけたら、転勤族や子育て中、大学生などの女性が集まってくれて、毎週ワークショップやイベントなどを実施した。
それぞれの居場所やつながりができたり、土地の良さを再認識したりして、『場』や『コミュニティ』が持つ可能性を実感しつつ、
お金が循環しないと継続できないこともわかって、これから自分が新卒で『働く意味』も見えた気がした。

【このあと東京の会社で3年2カ月務めてから、長野に移住することになるのですが、その内容は改めて...】

この原体験から、いまにつながる想い

自分自身が、ないものばかり追い求めて『承認欲求』で生きるのは辛かったし、それによってぶつかることも、失うものも多かった。

だから、あるものに光を当てて、"誇り"を持つ。
「●●だからできない」から「●●だからこそできる」に変える。
その上で、前向きに可能性を広げていくサポートがしたいと思った。

それが今の自分のMISSIONとVISIONにつながっている。

【MISSION】
Empower people to lead confident life.

【VISION】
Create platform to unleash the power of their potential.

いま子育て中の女性たちと事業をしているのは、
自分が子どものときに支えてあげられなかった母親への償いと、
子育て中の女性たちが誇りを持つことで、その子どもにも伝わってくれたらいいなという『エゴ』もあるかな...と思うときもあるけど。

まとめてながら考えていたこと

自分がここに至るまでの道のりをどこまで書いていいのか、正直悩んだ。「重い」という人がいるかもしれないし、「そんなこと大したことない」と思われるかもしれない。
家族を否定したいわけでは全くなくて、むしろ学生のときまで資金面でも支えてくれて、原動力をくれたことに、とても感謝している。

「これまで、誰にこの話してきたかな?」と考えたときに、代表の井上さん(ビジネスパートナー)が浮かんで、仕事でもオープンに関わらせてもらっていることが、すごくありがたいなと思った。

そして後日談で、去年父が家の片付けをしているときに中学の頃の通知表を見つけたらしく、
「奈津子、オール5だったんだね!知らなかったよ!」と言われ、
「あ、そういうもんだよね」とも思った。
(無事に生きてさえいてくれたらよかったんだ、ということにしておこう)

▼ Special Thanks !
・いまの自分に原動力をくれた家族
・いろんな場面で一緒にいてくれた友人たち
・いつも原体験を聞いてくれる井上さん
・インターンでチャレンジさせてくれた森山家・七尾のみなさん
・とりとめもない文章を最後まで読んでくれたあなた

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