号泣した日 『夢幻鉄道』
お疲れ様です。ナニモノです。週末海岸清掃をしたり、サラリーマン大家をしたり、 #note にアウトプットしたり、父親として家事に育児に頑張ったりしています。
思い出せるのは
みなさんは号泣した日を思い出せますか。
私は3つ思い出せます。
小学3年生で筋肉注射(麻酔)を打たれ、痛みが不安を爆発させたときに大泣き。号泣とは違うか?
では、2つにしましょう。そうしましょう。
40歳もすこーしづつ近づいていますが、さかのぼること、、、
前にも書いたけど、父親を突然失った時です。
大学卒業目前に突然父親が病死。
その日はわけがわからなくて記憶がない。
次の日からだ。不思議なもので、頭の中で整理できてからの方が涙は溢れる。それこそ励ましの言葉などかけられようものなら
正直あまり記憶がない。なにがきっかけで号泣したのか。
ただ自分がこんなにもなくのかと泣きながら驚くけど、それでも止めれないくらい。。。泣いた。
1時間近かったのか。あてもなく、なぜか吸い寄せられるように。そこに行くべきかのように。。。泣きながら歩いた。
周りの景色は記憶にない。それでもその場所に向かってた。
人前で泣くことをさけるように。
おもくそ泣きながら。
2つ目の号泣した日だ。
この時は人前で泣いた。自分の結婚式。
全くそんな気配はなかった。
その瞬間まではわちゃわちゃしていた。
最後の最後、お礼のあいさつをする時、親父の遺影を持つ母を見て号泣してしまった。
人前で泣くことが大嫌いだった私が人前で号泣。
その後退場だったからすぐ立ち直ろうと決めて、この時はすぐ立ち直れた。
一瞬の号泣。
部活の引退で泣いたりとかもあった。
はじめて子供が産まれて、自宅に帰るときに新幹線で泣いて、、、
それはまぁ号泣というほどではない
涙もろい?いや!!ほんと人前で泣くなんて絶対嫌だったから
思い返せる涙ってそんなもん。
号泣といえるのは父親の死につながること。
いまでも「あ、孫の様子を父親に見せれないんだ」
と思うことはよくある。
父は肉体的にはいない。ただ、いまでも家族の記憶にいて、そこで生きている。
変な記憶や嫌な記憶恥ずかしい記憶は残りやすいw
なんかこう、、、まともな記憶残って行けよって思うw
でも、少しずつ記憶は消えて行って、少しずつ色がついていたり脚色されてしまうのかもしれない。
自分が子供といる時間。
これが父といた時間とリンクする。
そうやって、これから記憶で存在し続けるのだろう。
子育てのことで、当時どうだったか。自分がどんな子だったか聞くことはできない。
お金の相談(投資)とか、仕事の相談もできない。
時代も違う。
ただ、父親がしていたことはいまでも不変で通用する。
そういう記憶が生きていた証だし、記憶であり、存在証明になる。
『突然渡されたこの時間は』
『キミとの時間が幸せだったと、今頃になって教えてくれた』
『わかってる。わかってるよ』
『時計を忘れた君は この先ずっとこのままで』
『ぼくだけ変わっていくなんて ほんと悪い冗談だ』
私には相方はいない。こうやって思う存在はいない。
と思っていたけど、
あぁ死んだ父やこの先、いつかは死で別れる妻や母とも。
『家族』ってそういう存在だな。
と気づくのに時間がかかりませんでした。
西野さん天才かよ
名曲かよw
キミとの時間が幸せだったと思える家族を作りたい。
幸せな家族をつくりたいと願っているが
そのゴールは、
『幸せだった』
『今頃になって教えてくれた』
といえる未来。そう言ってもらえる未来かもしれない。
そういう意味では、うちの父親はいい父親だった。
感謝してます。
ありがとう
こっちは、号泣したのはあんた(父)きっかけですよ!
ほとんどがw
わかってる。わかってるよ。
この名曲が日本中に響きますように
with Thanks to Jun
それでは、よい週末のために頑張りましょう
Look Up
素敵な一日をお過ごしください