童貞はどこに行けるだろう? 2/2
前回は、社会学者マートンの個人的適応様式の類型論を援用して、人々が態度と手段でどのようにセックスしているのか、を類型化しました。そして、童貞は「セックス」を求めているのではなく、「あるがままを受け入れられること」――承認を求めているのではないか、と問題点を挙げました。その問題は近代自体の問題でしょう。
今回は、その問題をエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を用いて考えていきます。
前回
2-1.近代において、魂は孤独?
前回、明治時代で恋愛を希求する者達が、「真友」という「あるがままの自分を理解してくれる存在」を求め始めたことは述べました。しかし、「本当の自分」を実現したいという欲求、心性は、なぜ登場したのでしょうか?
田中亜以子(2019)は、哲学者の宮野真生子の考えについて大枠で同意しつつ、明治20年代に、政治の世界における地位達成という一元的な目標が失われたから、としています。
まず、宮野の考えは次のようなものです。
明治より以前の時代では身分制度が存在し、人々の生き方は身分(士農工商)によって、生まれたときから決定されていた。生まれてから死ぬまで、道筋はほぼ決まっていた。しかし、明治時代になり、四民平等が実現し、明治新政府は人々に職業選択の自由と移動の自由を与えた。人々は以前までの“生き方”を失い、自らの人生を自由に形作ることを強いられるようになった。士族になったものは、武士以外の「何か」にならねばならなかった。こうして生じた「自分は何者なのか」という問いが、「真の自己」への希求に向かう。
田中は、この宮野の考えに大枠で同意しつつ、明治20年以降に「自己」の希求が始まったのか、について説明できていないとしています。単純に四民平等や職業選択、移動の自由だけが理由ならば、明治維新後すぐに始まってもおかしくはないからです。
田中は、思想史家の先崎彰容の「身分制度に基づいた世界観から切り離された『個』が極めて不安定であることを懸念する声が、明治初期から存在した」という指摘を引用しつつ、明治時代当初は、生の方向性を見失った人々は、「日本という国家の独立を保つ」という大きな物語に依拠することで、各々の中に「立身出世」――政治の世界における地位達成という生きる意味を見いだそうとしたとします。しかし、明治20年前後には自由民権運動が退潮していったことで、再び人々は生の方向性を失い、今度は政治や政界の地位なしにも「真の自己」を保障してくれる文学などの領域に向かい、「真友」を夢想することに向かっていった、としています。(*16)
「自殺論」で有名な社会学者エミール・デュルケムは「既存社会の伝統的価値体系の崩壊し、社会が秩序を失って、人々が不安感や無力感を味わい、苦しむ(無規範状態、無規則状態)」を表すものとして「アノミー」という概念を創出しています。先に紹介したマートンの「個人的適応様式の類型論」が書かれている論文も「社会構造とアノミー」であり、文化的目標と制度的手段のバランスが崩れた時にアノミーや逸脱行動が起きるとしていました。おそらく、明治の人達(特に士族)もアノミー状態に陥っていたのでしょう。そのアノミー状態から抜け出すための手段として「真の自己」、「真友」だったと思われます。「個人的適応様式の類型論」ならば、「反抗」にあたるでしょう。
人々は以前までの“生き方”を失い、自らの手で「何か」にならねばならず、その一手段として「真友」を求めた。しかし、これだけでは説明が足りません。なぜ人間に“生き方”が必要なのか、がわからないからです。
近代論自体はたくさんあるのですが、私は「生の方向性を見失う」や「今まで決まっていた人生に自由が生まれた」と聞くと、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を想起せずにはいられません。
2-2.童貞の欲求=近代における人々の欲求?
フロムの「自由からの逃走」は、なぜ第二次大戦前のドイツ人たちが自ら自由を捨てて、全体主義、ファシズムに傾倒し、服従するようになってしまったか、を社会心理学的に分析した論文ですが、もっと簡単に言うならば、近代の人々における自由と孤独――ひいては生き方について論じたものです。(*17)
フロムは、人間の生涯は、周囲の自然や人間たちから分離した存在として自己を自覚していく「個性化」の過程とし、「個性化」の段階は2つあるとします(明確に「2つある」とは言っていないが)。(*18)
1段目である「第一時的絆」は、赤子が母親と分離した一個の生物学的存在でありながらも機能的には母子一体の状態における絆、未開社会の成員をその氏族や自然に結びつけている絆、中世の人間を教会やその社会的階級に結びつけている絆を指します。フロムは、この第一時的な絆は、個人に自由を与えないものの、安定感と方向付けが与えられ、個人に世界に根本的な統一感を与えてくれる、としています。(*19)
子供は時間とともに肉体的、感情的に、精神的に徐々に成長し、強さと積極性が高まり、母親から離れていきます。フロムは第一次的絆から離れるかどうか(個性化と自我の成長がどこまで達するか)は社会的条件に依るとしていますが、個人が第一時的絆から解放されると、個人は新たな課題にぶつかる、とします。これが2段目です。(*20)
ひとたび個性化が完全な段階に達し、個人がこれらの第一次的絆から自由になると、かれは一つの新しい課題に直面する。すなわちかれは、前個人的存在の場合とは別の方法で、みずからに方向性を与え、世界の中に足を下ろし、安定を見つけ出さなければならない。
エーリッヒ・フロム(1951)「自由からの逃走」(日高六郎訳)東京創元社p35より引用
第一次的絆は、個人にとって桎梏でありますが、同時に自分を確固たる世界観につなぎ止め、帰属させ、安定するためのアンカーとしても機能しています。フロムは個性化の過程が進むことで、意思と理性による強さと積極性が高まるとしながらも、同時に、孤独が増大していくとしています。子供が個性化により、第一次的絆から抜け出すにつれて、自分が孤独であること、全ての他人と分離した存在であることを自覚するようになる、と。(*21)
先に「第一次的絆から離れるかどうかは、社会的条件に依る」と述べましたが、フロムは、現代(20世紀初頭)こそ、人々がその第一次的絆から解放された時代、第一次的絆から脱出する過程の頂点としています。宗教改革やルネッサンス、資本主義の高度な発達を通して、欧州の中世的社会は崩壊し、人々は第一次的絆から解放され、人間はよりいっそうに独立的、自律的、批判的になるとともに、よりいっそう孤立した、孤独な、恐怖に満ちた状態になったとするのです。
この第一次的絆の喪失による孤独(もしくは第一時的絆により与えられる安寧)こそ、人々が“生き方”を必要とする理由と言えるでしょう。
また、このフロムの「既存社会(中世社会:封建社会)が崩壊し、人々が自由となるとともに孤独になる」という考えは、宮野真生子の「四民平等が実現し、職業選択、移動の自由により人々は以前までの“生き方”を失った」という考え、田中亜以子が論ずる「真の自己」を確立させようとする人々の心理と一致します。
であるならば、人々が“生き方”が必要な理由、「真の自己」を求める心性の奥底にあったものとは「孤独」と言うことができるのではないでしょうか。そして、童貞個人の欲求の正体は「孤独を埋めること」である、と言えるのではないでしょうか?
であるならば、童貞の抱える問題自体が、現代人の、ひいては近代以降の問題であると言えるでしょう。
2-3.自分の心に従って、“自由”に歩く
童貞個人の欲求を「孤独を埋めること」とするならば、「(シロウト女性=恋人と)セックスすること」という文化的目標とは大きな違いがあるように思えます。別にセックスをしなくても孤独感は埋められるからです。
もちろん、竹田青嗣(2010)が「恋愛論」の中で述べているように「女性の身体は通常禁じられており、それが自分だけに許されることで、恋人である女性からの特権的な承認を得られる」(*22)わけですから、セックスが重要であることも否定はできません。しかし、「セックス」や「恋愛」という手段に拘泥せずに済むということは、行動の種類が大幅に増えることを意味します。
「孤独を埋める」ための行動や手段はどのようなものがあるでしょうか?
フロムは第一次的絆から自由になった個人にとって、耐えがたい孤独から逃れるには2つの手段があると言います。
1つは、愛情や生産的な仕事など、自発的な行動により人間や自然と関係を結ぶこと、だとしています。つまり、今までは生まれたときにすでに存在していた絆によって孤独感を埋めていたが、今度は自分から周囲との絆を構築していくのだ、ということです。(*23)
ちなみにフロムのいう「愛情」は恋愛のことだけを指すわけではなく、「生産的な仕事」は生産能率の良い仕事を指すわけではありません。詳しくは、フロムの「愛するということ」、「生きるということ」を読んで頂きたいですが、簡単には、「愛情」は他者に与えること、「生産的な仕事」はマルクス流に言うなら、『疎外』されない仕事です。
もう1つは、自分の個性を投げ捨て、社会秩序と完全に融合、没入することだとします。これは権威に完全に服従、支配されるよう努力することであり、ひいては全体主義につながる行動です。フロムはこれを「第二次的絆」と呼び、「自由からの自由」という新しい束縛であると言います。(*24)タイトルである「自由からの逃走」はこれを指すものです。具体的には、国家や所属集団に自身の存在意義、意思を“すべて”を放り出すような感じです。
「第二次的絆」を結んでしまった末の行動がどんな結果を招いたか。これをわざわざ言及する必要はありませんが、社会的側面によって要請され、結ばざる得ない側面もあり、自分の意志や感情がどこから来たものなのか、本当に自分の心の底から信念を持って生まれてきたものなのか、外部から植え付けられたものなのか、それは考える必要があります(もっともフロムは、それを知るためには特殊な困難がともなう、と言う)。
では、「自発的な行動により人間や自然と関係を結ぶこと」といいますが、何をすれば良いのでしょうか? これは、各々が考えなければなりません。考えなければ意味がないと言えます。というか、自分が「孤独を埋めること」を求めているのか、本当に自分が欲しているものはなにか、を考えてください。「恋愛をしたい」という欲求も社会から要請され、巻き起こされた欲求に過ぎず、実際にしたいことではないのかもしれません。
フロムが一番重要としているのは、「自発的な行動」です。「○○からの自由」という消極的自由ではなく、「○○への自由」という積極的な自由こそ、大事とするからです。
自発的な行為は、個人が孤独や無力によって駆り立てられるような脅迫的なものではない。またそれは外部から示唆される型を、無批判的に採用する自動人形の行為でもない。自発的な活動は 自我の 自由な 活動であり、心理的にはsponteというラテン語の語源の文字通りの意味、すなわち、みずから自由意志のということを意味する。我々は活動ということを、「何かをなすこと」とは考えず、人間の感情的、知的、感覚的な諸経験のうちに、また同じような人間の意志のうちに、働くことのできる創造的な活動と考える。
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p284-285より引用
この引用文の前で、フロムは「積極的な自由は全統一的なパーソナリティの自発的な行為のうちに存ずる」と言っています。この「全統一的なパーソナリティの自発的な行為」というと抽象的ですが、「感情的知的な諸能力の積極的な表現」とも言っています。(*25)
簡単に言うと「自分のしたいことをしろ!」ということでしょう。「したいこと」を「理想」と言い換えても良いでしょう。
これは奔放な自己中心主義や破壊を許容するように思えるかもしれませんが、フロムは人間は生命を成長させ、自身の諸能力を表現しようとする内在的な傾向を持ち、もし、その生命力が妨害されたり、個人が孤独に陥って懐疑、無力感、孤独に打ちひしがれるようなときに、破壊性や権力、服従を求める衝動へと駆り立てられるとします。フロムは、「真の理想」には「個人の成長と幸福が目標」という共通点があるとし、「理想」がなんであるか、は批判的に分析しなければならない、とします。(*26)
しかし、「自分のしたいこと」と言っても、そもそも「何をしたいのかわからない」と悩む人がたくさんいるでしょう。現代日本の人々が企業に就職するとき、「私はこの企業で働きたい!」と心底思って、就職した人は少数でしょう。就職活動の時に、わざわざ「そこで働きたい理由」や「その仕事をしたい理由」をそのとき急いで思い描いた人の方が多いはずです。そして、その適当にでっち上げた理由を自ら信じてしまったり、など。善し悪し両面がありますから、投稿者は思い込みや型にはまること自体を悪いとは言いません。
ですが、「自発的な行動により人間や自然と関係を結ぶこと」は、自分の手で、自分の世界観を形作っていくことを意味します。俗に言う「世界の再魔術化」です。ただ重要なのは、自身の行動に自身が意義づけできることであって、他者に意義づけてもらった時点で「第二次的絆」に近しいものになります。もっとも他者なしに自身による意義づけはできませんが。
要は自分の深淵から湧き出すものを理解し、それに対し、信念を持って行動することが大切なのです。
2-4.世界とつながるために
信念をもって行動する、といっても、それは難しいことです。もちろん、自由な行動に責任が問われるということもあります。ただ、それとは別に社会の要請も厳しいものがあります。
マートンの「個人的適応様式の類型論」における儀礼主義や逃避主義で述べたような、周囲の“まなざし”は苦しいものですし、文化的目標のような社会が個人に行動を要請(強制)している面も否定できません。「大人じゃない」と言われるのも屈辱です。かといって、社会から逃れるのも難しいでしょう。
「信念をもって行動する」などとの威勢の良いことを宣いましたが、そんな簡単にできるのなら、投稿者が数万字もかけて童貞について語る必要なんてありません。フロム先生が何冊も本を出す必要も無かったでしょう。
社会秩序に「同調」しようとしても、残酷なまでに“現実”が横たわっていることは、皆さんご存じのはずです。うまく人と付き合えない。なぜか人が離れていく。この背景に、孤独感による認知の歪みや偏った価値観や知識、前提の他にも文化資本や社会資本を初めとして、親や周囲の人間、経済的環境などがあるでしょう。自己責任だとか、みんな同じ条件だとか、宣う方々はいますが、実態としては様々な条件で各人に差があることも確かです。(もし、幼少期の虐待や友人関係における恥辱や裏切りの経験によって現在も苦しんでいたり、それらが“生きづらさ”の起因になっているのなら、カウンセリングなどで誰かに経験を打ち明けることをおすすめします。誰かに話して、受容されるだけでも楽になるものです)
「じゃあ、童貞はどうしたら良いのだ!?」となるのですが、どんな適応の仕方であっても、「どうにか頑張るしかないよ」としか投稿者は言えません。一応、「童貞とは誰か?」で引用した「恋愛行動における五段階説」など、「同調」のための、少しばかりの道筋は示しはしましたが、個人の心境に全面的に依存する不安定不確実な「恋愛」という所作に保障がないのは確かです(そんなものが社会的制度、社会再生産の基礎となっているのは異常としか思えない。だから少子化になるんだよ)。
「恋愛」は努力し、能力を身につけたところで、それが実を結ぶかは不確実という「終わりのないディフェンス」です。現実を生きていくために逃避しても見返りはない、というのも辛い現実です。「勝利」自体に抗うことは苦しい道です。残念なことに「僕を見つめ続けてくれる君」もいません。
ただ、「恋愛」――というよりも、「孤独を埋めること」に対する行動指針となるものはあります。
ジョン・T・カシオポとウィリアム・パトリック(2019)は「孤独の科学 人はなぜ寂しくなるか」(河出文庫)の中で「他者とつながるための単純な4つのステップ」として「EASE」というものを提案しています。それぞれのステップ名の頭文字を取って、「ゆっくり進める」という意味の英単語「ease」にあやかった名称です。(*27)
Eは「extend yourself」(自分を広げる)、Aは「action plan」(行動計画)、Sは「Selection」(選別)、最後のEは“最善を”「ecpet」(期待する)、です。
ちなみに孤独感に苛まれる人が社会的なつながりを目指すために示されたステップですから、「恋愛」などに対するステップに応用できるかというと、それは微妙です。しかし、「恋愛」のための基礎力となる可能性はあるでしょう。
中村真由美・佐藤博樹(2010)は「恋人との出会い」を「対人関係能力」に注目して、分析しており、男性の場合、「友人つきあいをほとんどしない男性」に比べ、「友人つきあいを月に1~2度以上する男性」は、恋人がいる見込みが1.95倍あるという結果を出しています。ちなみに「友人との付き合いの場に独身の男性が全くいない」と答えた男性に限って分析した場合、「友人つきあいを1~2度以上する男性」は「友人つきあいをほとんどしない男性」に比べ、恋人がいる見込みは7.47倍もの差がありました。これは、ある程度の対人関係能力が、恋人を作るうえで必要、ないし有効だということを示しています。また異性のみならず、同性との友人つきあいであっても、恋愛に役立つ対人関係能力の訓練になりうる可能性を示しています(女性の場合、対人関係能力の程度は影響しないようだ)。(*28)
恋愛に役立つか、役立たないか、はともかくとして、「EASE」は自身の“つながれなさ”を解消していく方策にはなるでしょう。各ステップを要約して紹介します。
(この「EASE」に関しては、「孤独の科学」自体を読んだ方が良い。文庫版で参考文献のページも含め、449ページもの量があるが、この本の内容が救いとなり、足を踏み出せる方はいるだろう。ただ、著者らはアメリカに住んでいるため、「EASE」を実行するとき、日本とは少々事情が異なることは加味しなければならないだろう。)
・Extend yourself(自分を広げる)
寂しくて引きこもったり、消極的になったりするのは、脅かされているという認識が動機になっているからだそうです。危険だと感じずに積極的に行動できるようになるには、安全に実験できる場所を確保し、小さいことから始める必要があります。
例えば、食料品店や図書館などで「良いお天気ですね」や「その本、すごくおもしろかったですよ」と言って、相手から気さくな返事が返ってきて気持ちが良くなるかもしれません。自分の送ったささやかな社会的シグナルに、相手が応答してくれたからです。ただ、全てこうなるわけではありません。きさくに返事してくれなかったり、無視されることもあるでしょうが、それは相手がその日は残念なことがあって、返事をする余裕がなかったのかもしれません。ポジティブな反応を引き出す確率を上げる(がっかりする確立を下げる)には、この実験範囲を慈善活動など、いくぶん良い反応が返ってきやすい“安全な”範疇に留めることと良いでしょう(もちろん、ある程度の慎重さは必要)。
このステップで大事なのは、相手に期待を抱いてはいけないこと。この新しい行動を練習し始めるときは、何事も決めてかからず、目的を絞ることが肝心です。
この小さな実験と練習の積み重ねは、大々的な結果をすぐに引き出すことはありませんが、自分を変える勇気や変えたいという願望を強くし、自信がつき、自分の機嫌や行動を調整する能力も向上していくでしょう。
・Acton plan(行動計画)
自信が付いてきたのなら、地域のサークル活動やボランティアといった活動で、実験、練習の幅を広げてみても良いでしょう。もちろん、先のEの段階で満足しているのなら構いません。「自分にはどの程度のつながりが必要なのか」を把握することが大切なのです。社会的つながりは人気コンテストではないのですから、そこそこ安心して、ありのままの自分でいられ、何に妨げられるのでもなく、他の人達にしっかりと注意を傾け、その人達と自分にとって意味あるつながりを築ければ良いのです。
この行動計画を練る際には、他人のために何かをするのは、他人に搾取されるのを許すことではないことも留意する必要があります。一方で、自身の恐れや感情を言いように操ろうとする相手に注意して、その相手を避けることも留意しなければなりません。健全で長続きする関係は自発的な互恵主義の上に成り立つ者であり、搾取に基づくものではないからです。
肝心なのは、「ただ人間たれ」ということで、聖人であることではありません。自分を消してまで相手に尽くす必要は無いですし、相手を支配し尽くさなければならないわけでもないのです。
・Selection(選別)
孤独感の解決策は、関係の量ではなく、質です。人間のつながりは、当事者のそれぞれにとって意味があり、満足のいくものでなければ長続きしませんし、自分の外にある物差しで測るものであってはいけません。また関係の近しさと熱意の程度が自分と相手、同じくらいなのが長続きします。
ちょっとした世話話でも、みんなが気持ち良いペースで進む必要がありますし、押しつけがましく、相手の反応にまったく気づかないと、あっという間に相手は去っていきます
選別の一部は、これから結ぼうという関係のどれが有望で、どれが見当外れになりそうか、嗅ぎ取ることです。深いつながり――馬が合うか、関係を維持できるかどうかは、共通の考えを持っていたり、人生で同じ段階にいたりするといった要素が大きいのです。特に結婚相手ならば、双方の客観的な外見、双方が望むとされているものばかりに目を向けるのではなく、将来のパートナーとしての実際の相性、チームとして首尾良くやっていけるか、に目を向けるとうまくいくとされます。
また人との出会い方自体も、どんな種類の人と出会いたいかによって探し方は異なるでしょう。読書仲間と出会いたいのにダンスクラブに行ったって、まず出会えません。
・最善を「expect」(期待する)
社会的な満足感を得ると、首尾一貫し、寛大になり、立ち直る力が強まります。楽観性が増し、「最善を期待する」態度によって周りから最善のものを得やすくなります。
ただ、今までのステップによって自分の中で起こっている変化が周りの世界にすぐさま反映されるわけではありません。その反映されるのを待つ間、恐れや欲求不満のせいで、孤独ゆえの批判的で注文の多い態度に戻ってしまうかもしれません。そんなときこそ、他者を満たしたときの生理学上のささやかな報酬に辛抱強く集中することです。自己防衛的で他者から孤立する行動をやめるにはリスクがありますが、その防衛メカニズムの「保護」は短期的には効果的でも、長期的には高く付くとされます。
もし人間関係で大きな喜びが感じられるようになっても忍耐は捨ててはいけません。真友やおしどり夫婦でも意見の食い違いはありますし、傷付け合ってしまうこともあります。こうした現実にもかかわらず成功する秘訣は、摩擦の瞬間を拡大解釈して大げさに受け取らないことです。
以上が「EASE」です。特に重要なのは、性急にならないこと。ゆっくりやることだそうです。孤独だと要求ばかりするようになったり、批判的になったり、行動が消極的になったり、引きこもったりしてしまうそうですが、人には、そういうことが起きる事実を把握しつつ、相手に対しても自分に対しても、気遣っていければ、社会的つながりは結べると言います。
完璧な交友関係を結ぶことは不可能だが、自分の境界を越えて手を差し伸べれば、次善の関係は達成できる。それは、努力や忍耐が必要かもしれないが、豊かで充実感がある社会的なつながりだ。最終的には、その秘訣は、人間ならではの能力を使って、双方のためになる解決策を探すことにある。それは、パートナーがともに貢献する解決策で、どちらも予測が付かず、単独ではなしえなかったものだ。
ジョン・T・カシオポ, ウィリアム・パトリック(2019)「孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか(文庫版)」河出書房新社,p376より引用
私が思うに、少し背中を押して上げるだけで、ほとんどの人はゆがんだ社会的認知の監獄から抜け出し、自滅的な相互作用を修正できるようになる。つまり、独房に監禁されたかのような孤独感は終身刑である必要は無いのだ。
ジョン・T・カシオポ, ウィリアム・パトリック(2019)「孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか(文庫版)」河出書房新社,p46より引用
2-5.「透明な存在」に色を付けるのは欲望
もっとも、現代日本には「人に関わられること自体が迷惑である」という気風があるため、EASEであっても、かなり注意を払いながら、行わなければならない部分がある。現代において、規範よりも各々の心情というものが重要視、正統視される傾向は決して無視できないものである。それでおいて、「相手を傷つけてはいけない」という規範は強まっており、人々の関係性の純粋性は上昇し、それによって傷つけられることへの耐性も下がっている。難しい時代である。必ずしも相手の発言、身振り、表情が相手の真意であるとも限らない。暗中模索の模索すら許されず、それが真実か、欺瞞か、さえもわからない、わかりにくい時代が到来しつつある。関係性の充足だけで成り立つ「純粋な関係」の純粋さの基準が、さらに加速していく中で、童貞――ひいては、人々は何を見るのだろう? 手に入れるのか、失うのか。それとも存在そのものが消えるのか。
しかし、そうした時代においても、貴方の「欲求」は存在する。そうした「欲求」がいかなるものか。それは貴方自身に問いたださなければならないが、「欲求」を諦めるということは概して難しいものである。その欲求が「つながり」であるなら、諦めることは至難の業だ。「透明な存在」に色を付けるのは欲望だ。ましてや人間は社会的な関係性を求める、孤独を痛みとして感じる人間なのである。貴方が生きるのに他者が必要だというのならば、他者を求めることに間違いは無い。
「つながっても、見失っても。手放すな、欲望は君の命だ。」
TVアニメ『さらざんまい』キャッチコピー
参考文献
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小林盾・川端建嗣編(2018)『変貌する恋愛と結婚-データで読む平成』新曜社.
小谷野敦(2000)『恋愛の超克』角川書店.
佐藤博樹・永井暁子・三輪哲編(2010)『結婚の壁-非婚・晩婚の構造』勁草書房.
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ジョン・T・カシオポ,ウィリアム・パトリック(2019)『孤独の科学-人はなぜ寂しくなるのか』(柴田裕之訳)河出書房新社.
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中村淳彦(2015)『ルポ中年童貞』幻冬舎新書.
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脚注
*16
田中亜以子(2019)『男たち/女たちの恋愛-近代日本の「自己」とジェンダー』勁草書房,p22-25
*17
フロムが「自由からの逃走」で意識している人物として、フロイトとデュルケムがいる。フロムは、フロイトは心理的要素ばかり見て社会を見ず、デュルケムは心理学的問題を社会学からはっきり排除しようとしている、として、両者に反対する立場を取っている。
フロイトについては全く知らない(デュルケムもフロムについても詳しくないが)が、デュルケムは心理的要素を排除する姿勢を取っているのも確かであるし、フロムが反対する立場もわかるが、個人的に、フロムとデュルケムは似たものを違う立場から語っているように思う。どちかかというと、「自由からの逃走」におけるフロムの思想はマートンに近いかもしれない。
*18
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p34
*19
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p34-35
*20
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p35,38-39
*21
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p39
*22
竹田青嗣(2010)『恋愛論』ちくま学芸文庫,p210-211
*23
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p29,p40
*24
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p39-40,p175,p283
*25
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p284
*26
エーリッヒ・フロム(1954)『自由からの逃走』(日高六郎訳)東京創元社,p291-293,p296
*27
ジョン・T・カシオポ, ウィリアム・パトリック(2019)「孤独の科学 人はなぜ寂しくなるのか(文庫版)」河出書房新社p361-376
*28
佐藤博樹・永井暁子・三輪哲(2010)『結婚の壁-非婚・晩婚の構造』勁草書房,p64-65,p68-69
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