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「誰かの役に立とう」なんて思わなくていい。

人に相談したいと思う機会が全然ありません。

10代の時に友人から「悩んでいる事があるならいつでも相談に乗るよ」と言われ、

しかしいざ相談してみたら「なんでそんな事でいちいち悩んでんの?」とピシャリと言われてしまい、以来ほとんど誰にも自分の事を相談しなくなってしまった。

「まあ、他人って基本そういうものなのかも」と、ぶっちゃけ当時はショックを受けたけれど、これはすごく良い経験だったと思う。

というのも単純にそのあと、一人で調べて解決する癖が身に付いたからだ。

今やスマホやPC、タブレットがあれば、私個人が知りたい情報はほとんど拾えてしまう。一時間もあれば大体集まる。そういう「時代の恩恵」を受けている。

どうしても分からない事があった場合には専門家に聞く。体調が悪くなればお医者に行くし、noteのサポートの計上方法とかは税理士さんに相談した。

そもそも身近に漫画家を目指している人間がいなかったので、漫画家として生きていくための知識なんかについては、小さい頃から自分で集める必要があったし、そうしてきたように思う。私に限らず漫画家に限らず、何か目指す先がある人は、概ねそうやって自分で情報をかき集めるんじゃないだろうか。

親も兄弟もそれほど漫画を読む人間ではないし、詳しくない。個人事業主の税金についてもそうだった。親も兄弟も会社員の経験しかないから頼るというわけにはいかない。お陰で調べ癖はかなり鍛えられた気がする。

そういうワケで、私が人に相談するのは、調べても本当に分からなかった時くらいなもので。

そんでもって私が愚痴や弱音を吐くのは、ストレスの原因を断とうとしても一向に改善しない時だけという事にしている。

だから若干の溜め込みグセがある事は否めない。でも自分の問題をなるべく自分でどうにかしようとしてきた事に、なんというか、自負みたいなものがあった。

ところが。

そうやって「自分の問題をなるべく自分で解決する事」に異義を唱える人が時々現れて、私の悩みのタネになります。

その人はまずこう言ってくる。

「私ばかり悩みを聞いてもらってズルい」

言い換えれば「私の悩みをいつも聞いてもらっているから、そっちが悩んだ時は私を頼ってね」という心優しい意味である。

昔から悩み事や過去の過ちについて人から打ち明けられる事が多いのだけど、前述の通り私は「人に打ち明ける能力」に乏しいので、聞き役に回るのが常だ。

「いつも聞いてもらってごめんなさい。だからそちらが困ってる時は力になるよ」という意味の「私ばかり聞いてもらってズルい」。その気持ちに対しては素直に、ありがとうって思う。

のだが。

話すたびに「何か悩みとかないの?」「もっと打ち明けてほしい」「信頼してほしい」「愚痴でいいから溢してほしい」と言ってくる人がいて、一時期メチャクチャ疲れてしまっていた。

他意はないのかもしれない。

本当に純粋に、私の力になりたいと思ってくれてるのかもしれない。

でも、「話すほどの悩みは今のところ無いです」と言った時に、その人が落胆を滲ませてきたので段々違和感を覚えていった。

『まるで私が困るのを待ち望んでるみたい』

って思ってしまった。

申し訳ないけど、あなたのその要求に私は今一番困っているんですよ。

と本人に言いたかったが、さすがにちょっと言いづらい。

そもそもなんでそんなに人の悩みを聞きたがるのか。

答えは割と簡単で「『人の役に立てた』という達成感は自分に自信をもたらすから」である。

個人的な感覚で話すと、だから、ぐいぐいと人の悩みを聞きたがる人の中には自分に自信がない人が多いように感じる。

誰かの役に立つ自分でありたい、いい人でありたいという焦りが「前面に出て」しまっている。

「透けて見えて」いるんです。

誤解の無いように言っておくと「誰かの役に立つ自分でありたい」「いい人でありたい」と思うのはむしろ普通の事だと思っている。

人間は社会的な生き物だから人の役に立てると喜びを感じるように出来ている。貢献活動を行なうと脳の前頭前野が活性化するらしい。

だから、「役に立ちたい」自体は健全。

だけど。

他人の問題って、自分の問題よりもデリケートに扱う必要がある。

こちらの返答如何では地雷を踏む可能性もあるからだ。

実際に困っている人の力になるのは良いことなんだけれど、それが「ありがた迷惑」に変わる境界線は見定めなければいけない。

これって難しくて、私も学生時代に失敗した事がある。自分では友達を助けていたつもりが、いつの間にかお節介になっていたっていう黒歴史が実際に存在する。

ありがた迷惑を押し付けて、一人で勝手に「私は役に立っている」と満足する羽目にはなりたくないじゃないですか。

だから人の問題に手を出す時って、客観視が欠かせない。

「聞きたいから聞かせて」で済む問題ではないんだ。

間合いを取りながら、相手と自分を交互に見ながら、境界線を進入していないか確認しなきゃならない。(※この辺のさじ加減が上手な人の中には詐欺師もいるから要注意。)相手の地雷を踏まないよう、金属探知機を持って、じわじわゆっくり進むのです。

そんな金属探知機をぶら下げる生活に苦痛を覚えるようになった私は、人付き合いそのものをかなり手放してしまったけれど、結果として生活はめちゃくちゃ快適になりました。

最近は誰かのためになんて動いていません。

せいぜい実家で皿洗いしてるくらいなもんです。

でもそういう事を言うとですね、少なくとも数人の方からは

「名仁川さんが作品を届けてくれるだけで私の心は助かってます!」

って言ってもらえたりするんですね。

でも作家って読者がいないと成り立たない職業なので。

皆さんからお支払い頂いたお金が名仁川さんを助けているワケでして。

購入者がいなければ、生産者は生産者でいられないので。私もまた助けられているのですね。

つまり。

お金を払ってものを買い、楽しく消費して生きていてくれれば誰かの役には自然に立ちます。

立っちゃうんですよ。

だから。誰からも頼られないからといって無力感を感じる必要はないし、感謝されたいと思う必要もない。

お米を買って、炊いて食べる。

服を買って、着ては洗う。

いただき物を、ただ消費する。

すべてのものに、当たり前だけど生産者がいるんだから。

消費者に手を合わせている生産者は実際大勢いるんです。

「誰の悩みも解決出来ない自分には存在価値がない」とか、深刻に言う人をたまに見るんですけど。

ただ毎日生きているだけで、顔も知らない誰かの生活を潤わせている事をもっとちゃんと知ってくださいって思う。

だから、自分の事で精一杯な時には、寄付も募金もしなくていいし。

余裕のある人に任せていい。

食べて眠れば、必ず誰かが助かっているんだから、

躍起になる必要は本来どこにもないんです。


ーー


そして複雑な事に、

あなたが「もっと頼ってほしい」と何度も言ったのに全然頼ってくれないその相手は、

実際に今困った状況にいたとしても、あなたの事をあえて頼っていない可能性が大いにあります。

うまく言えないんですけど、「頼って」と言われた側は自分の悩みが「食い物」にされそうで怖くなる時がある。

他人と一定の距離を保ちたいと思っている人は特にそう。

悩みを皮切りに、つけ込まれるんじゃないかと怖くなる。

プライベートにまで土足で上がり込まれるのではと恐怖するんです。

私もどちらかというとそういう人間なので。

ぐいぐいと距離を詰めてくる人とは基本的に親しくなりたくない。

話はちょっと変わりますが、

むかし、特別仲良くしていたワケではない女の子からポロポロと弱音を零された時に、

「るいちゃんは私に興味がなさそうだから、逆に話しやすい」

と言われて、

彼女とは普段全くつるまないし、

その後も特に目立った関わり合いは無かったのですが、

しかし、たった一回のその出来事で謎の親近感をおぼえたっていう、そういう経験をした事がありました。

なんでかは分からないんですけど、

なんか、そういうものなんです。

言うとか言わないとか、頼るとか頼らないとかって。

親密だから何でも話せるというワケではないし、

明け透けに何でも語れるからといって親密であるとは限らないし、

なにか秘密を打ち明けたからといって必ずしも親密になりたいと思っているかと言ったら、そうとも限らないのです。

…。

風情のある、人間関係を。




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