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文系神様とはわかり合えない
夜の研究施設はしんと静まり返り、廊下の灯りだけが薄ぼんやりと白いタイルを照らしていた。奥の部屋の扉の隙間から、微かに光が漏れている。そこだけが別世界のように明るい。
その部屋の中央に設置された長机には、膨大な数式が書き殴られた紙が散乱していた。彼女――白衣に身を包んだ若い研究者は、うんざりした表情で書類を見つめ、ペンをテーブルに叩きつけるように置く。
「何でもできるって言うのに、結局なにも干渉しないのが神だというのであれば、それはただの存在否定ではないか」
吐き捨てるような声が、深夜の空気を静かに震わせる。疲弊しきった視線を上げると、そこには不自然なくらい物腰の柔らかい青年が佇んでいた。まるでどこかの詩人が迷い込んだような風貌で、手には小さな革装丁の本を抱えている。
青年は微笑みを浮かべると、言葉より先に一節の朗読を始めた。古い詩を思わせる、優雅な響き。彼女の耳に心地よいと同時に、妙にイラつかせるような、それでいて不思議な余韻。
「世界の一切は流動し、言葉も数も永遠には定まらない。……そういう風にどこかの詩で読んだことがあるんだ。君の苛立ちも、きっと一時の揺らぎさ」
目の前の彼が、とんでもなくこの場違いな空気を醸し出している――それがまた、彼女の苛立ちをさらに掻き立てる。机を挟んで向かい合うと、彼女は研究資料を青年の鼻先へ突きつけた。
「私が今取り組んでいるのは、相反する定理を統合しようとする実験なのよ。絶対に両立しないとされてきた数式を、どこかのパラメータが繋ぐ可能性があるって仮説を立ててる。でも、どんなに検証しても矛盾が生まれる。もしあなたが『何でもお見通し』なら、私の実験を最終的にどうまとめればいいか教えてみなさいよ」
彼女の言葉には、期待というよりは嘲笑じみた挑発が混ざっていた。青年はそれを聞くと、顔をわずかに横に振る。
「君は矛盾という言葉を嫌悪するようだけれど、詩の世界じゃ矛盾こそが美しさを生む鍵にもなるんだ。たとえば、凍える炎とか、沈黙の歌だとか。言葉にすると成立しないはずのものが、かえって人の心を打つ。詩の行間を読んだことはあるかい? そこには書かれていないはずの何かがある。数式でも、いわゆるパラドックスは時に新しい領域を切り開くきっかけになるしね」
「……理屈になってない。その美辞麗句がどう世界を説明してるって言うの? 観測できない概念を詩的表現で包んだって、証明にはならないでしょ。……私が知りたいのは、もっとはっきりとした論理的根拠なの」
彼女は紙に目を落とし、書き散らかした数式をそっと指先でなぞる。無数の線と記号が交錯して、今にも彼女の心を呑み込みそうだった。
「論理は大事さ。けれど、人間の思考はどこまで数式に従うべきなんだろう。私のような存在から見れば、どんな絶対性を振りかざしても、最終的に人々はこころに行き着くものだよ。つまり情動や感性、感情こそが、可能性を開く鍵なんじゃないかと思うんだ」
青年はそう言って、先ほどの小さな本を優しく閉じる。まるで大事な約束ごとを仕舞いこむような所作だ。
彼女は嫌でも言葉に詰まる。けれど、それは納得できたからではない。むしろ、どれほど耳障りのいい台詞であっても、その内容が何ひとつ証拠を伴わないからこそ、戸惑いを感じるのだ。彼女の口許にはうっすらと笑いがこぼれそうになるが、それをぐっと噛み殺した。
「そうやって詩や物語の話だけして、実際の現象にはろくに触れない。もし本当に何でもできるのなら、私の研究を一瞬で完成させてみせてよ。観測不可能な事象まで解き明かす、真の理論を提示してよ」
青年は肩をすくめて寂しそうに笑った。研究室の天井に取り付けられた蛍光灯の光が、彼の髪にうっすらと陰影を作る。
「君が苦闘するからこそ、生まれる世界もある。私が手出しをし過ぎれば、その可能性を奪ってしまうだろう。正直に言うと、私はあなたたちを観察する読者でもあり、時には物語の書き手でもある。干渉するのは簡単だけど、それこそ結末を知っている本を読むようなものになってしまうんだ」
「……都合のいい言い訳にしか聞こえないな」
彼女がそう吐き捨てると、青年はわずかに苦笑したあと、ほんの一瞬だけ背後がかすかに揺らめいた。蜃気楼のような揺れに、彼女は驚きと困惑が混じった視線を向ける。しかし、青年の姿はそのまま音もなく消えてゆく。まるで彼女の研究を嘲笑うかのように、淡く消えていくのだった。
静かな室内に取り残された彼女は、しばしの沈黙に耐えきれず、フッと笑い声を漏らす。あれほど真面目に罵り合っていたのに、結局お互いの会話が噛み合ったのか噛み合ってないのかすら分からない。全てを有耶無耶にされた気分だ。
「……なんだか馬鹿らしくなってきたわ。証明も結論もないなんて、まるで厄介な無限級数じゃない」
彼女はこぼれ落ちそうになる書類の束を抱え直し、深いため息をついた。まだ夜は長い。机には解きかけの数式が山積みだ。それでも微かに残る不可解なやり取りを思い返すと、どこか胸の奥があたたかく疼くような、不思議な感覚があった。
このまま頑なに数式を追い続けるのか、それとも詩のような曖昧な何かに身を委ねるのか。彼女の眉間には依然シワが寄っているが、その唇の端にはいつの間にか消えない微笑みが浮かんでいた。