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印象に残る1990年代のベトナム赴任

1990年代、日本の石油開発会社はまだ現在ほど統合・再編が進んでおらず、特に海外で石油開発を行う会社の多くは、プロジェクトごとに設立された比較的規模の小さな組織で、人のやりくりにも苦労していました。

そのため、石油会社間での技術者の短期・長期の出向や人材サポートなどがかなり頻繁に行われていました。石油開発会社は、探鉱、開発、生産と比較的長いプロセスを踏んでいくため、一つのプロジェクトにいるだけではなかなか効率よく技術的な経験が積めません。なので、他社との人材交流などで他のプロジェクトを経験できることは、技術者としてのキャリアアップにとってもメリットがありました。

1990年代中頃、わたしが所属していた会社とは資本関係のない別会社からの支援依頼で、約1年間ベトナムに出向・赴任したことがあります。

現在赴任中の南国のプロジェクトとは全く違うタイプの探鉱プロジェクトのサポートで、探鉱井2本の洋上掘削現場での地質オペレーションと事務所での坑井完了報告書の作成が主な仕事でした。掘削中は掘削現場と日本の間を4週交代勤務で行き来していました。また掘削終了後、約2か月間ホーチミン市内でオフィス勤務を行いました。

掘削現場はイギリス人の地質屋との12時間交代勤務。私は深夜から正午までの勤務で、朝の事務所への定時報告も担当していました。まだインターネットやemailでの報告はできず、インマルサットと呼ばれる衛星通信回線でのファックスや電話連絡、もしくは無線連絡が中心でした。特に朝の報告以外は無線交信で連絡を取り合っていたため、雑音で英語が聞き取りにくく大変でした。

洋上掘削リグには出向先石油会社が送り込んできた2名のカンパニー・レップが乗っており、この人たちも、2週ずつずらした4週交代勤務でした。つまりカンパニー・レップは全部で4人いるわけですが、一人は日本人でしたが、他の3人はテキサス訛りのアメリカ人と、オーストラリア人で、とにかく英語が強烈にわかりにくく、難儀しました。日本人のレップの時にはホッとしました。

地質屋もリグには2名乗っており、2週ずつすらした4週交代勤務で、2名が日本人、2名がイギリス人でした。もう一人の日本人は私の交代でリグに乗船していたため、私は2週間ずつ別のイギリス人地質屋と組んで乗船していました。

掘削中はわたしたちカンパニー側の地質屋が地層の掘くず (カッティングス) の記載や、油徴などの観察を行うと同時に、やはりカッティングスのサンプリング、保管、記載や、循環させている掘削泥水に含まれるガスなどをモニターしているマッドロギングと呼ばれるコントラクターへの指示を行います。

まずペアを組んでいるイギリス人地質屋との、カッティングス記載の目合わせが大変で、私との交代のタイミングで、何をどう記載するか打ち合わせて合意するのですが、次の交代の時に行ってみると、だんだん記載が変化していて、わたしの記載との整合性が付かなくなってしまうので、彼と交代すると、まず彼が観察したカッティングスを全部見直して、記載のチェック、修正から始めていました。

コントラクターは本当に会社の質というより、エンジニアの質というか相性が大切でした。非常に誠実で、私の言うことを理解して実現しようと努力してくれるエンジニアがいる一方で、私の言うことを十分理解しないまま自分なりに判断して、期待に応えてくれないエンジニアがいたりして困りました。

その中で特に優秀なエンジニアだなと思っていたインド人のエンジニアは、数年後、自分で会社を立ち上げて成功させたようです。私の日本人の同僚が、まったく別のプロジェクトで中東の現場に行ったとき、たまたま会ったコントラクターの代表が、むかしベトナムで日本人と働いたことがあると話しかけてくれて、私の名前を出してきたので、それは同じ会社の同僚だよという話になり、お互いに大変驚いていたそうです。石油業界の狭さに驚きます。

掘削作業が終了した後、現場からホーチミン市内の事務所に移り、約2か月間勤務しました。ベトナムは当時、アメリカのベトナムに対する禁輸措置が全面解除される直前でしたが、社会主義国とはいえ、ドイモイ政策とよばれる開放的経済政策がとられはじめていて、非常に活気がありました。

ホーチミン滞在中は、有名なレックスホテルに部屋を借りていました。近くにはベンタイン市場もあり、活気のあるエリアでした。街中でベトナムの有名なヌードル、フォーやフランスパンがたくさん見られたのが印象的でした。

ただ、当時はベトナム戦争の傷跡も数多く残っていたようで、戦時中のものと思われる火薬の抜かれた銃弾、手榴弾などがお土産物屋で売られていたり、足や手を失った人たちを街中でよく見かけたりしました。当時訪れた戦争証拠博物館は、ベトナム戦争の悲惨さを生々しく伝えるもので、大変衝撃的でした。

私の赴任が終わった後、ベトナム – 日本間には直行便も運航されるようになり、現在のベトナムはさらに大変発展していることと思います。いつかまた機会があったら行ってみたい国です。

そういえば、一時期オフィスがサイゴン川に浮かぶフローティングホテル内にありました。最近ニュースサイトで、フローティングホテルに使われていた浮遊式建築物は1997年にホーチミン市を離れ、現在は北朝鮮の金剛山リゾート地近くの港に係留されているとのニュースを見つけました。グーグルマップで確認してみましたがこの建物はまだここにあるようです。


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