昨日、わたしによくない知らせが届いた。
わたしに言われのない、ふさわしくない言葉を、
払おうとしても、何度も張り付いてくる、言葉を
焼き払うことにした。
オラクルカードは、自己(へび座)と再生(南十字星)
他人の言葉に乗ることは、そう、
他人の敷いたレールだ。
わたしは自分の敷いたレールの上を走ると決めた。
評判というのは想像の押し付けもあるんだね。
だって、評判が良い=売れる ではないし、評価はお客様がするものだよ。買ってもないものを評価するって、どゆこと?
言葉で切り裂くのは、マウント取り。あるいは、イジメ。
わたしの舵を切るのは、わたしだ。
作品なら、なおさらだ。
もう、50人の方に作品を届けているのだ。
人気だけ欲しいなら、ロボットでも回せば出来る時代だよ。
承認欲求と商いを一緒にされても困る。
こういう行動を見ていると、自分の目に映っているものは、たまたまそう見えただけ、というのがわかる。
以前書いたのですが、布や編み物は真っ直ぐではない。三角を積み上げていたり、縦横交互だったりする。定規で合わせて目鼻をつけたとしても、位置がずれる。
慣れないうちは下書きをしていたが、今はほとんどしていない。
あと、写真ではバックの線が斜めになるとおかしいと思う現象があります。
しかし、絵では逆に斜めの方が躍動感が出る。
つまり正解なんてない。
見え方がおかしい、というのは目の錯覚に引っかかっているのだろうし、両目が揃ってる動物や人間っていないぞ。(両目や口は筋肉で吊り上げているため、可動域が広く、年齢とともにゆるんでゆくらしいし、首が傾いても揃ってるのは重力だそう)
人形だと両目揃ってないと不良品と扱う所もあるらしいですが、
角度によって揃わなくなることもあるので絶対揃ってないとダメってことはない。
でも、矯正する施設がいっぱいある、ということは、人間がバランスを気にし過ぎなんだろう。
大体、そういう比喩が全部差別用語になるってことは、バランスは「絶対値」にするな、という意味だと思うんだよ。
なのに、人間はその追求をやめようとしない。バランスが悪いと思い込んだ人が、泣きながら、治して欲しいと来るのだそうだ。
実際、どんなバランスであろうと、脳が勝手に慣れるらしく、きれいに見えるようにすると違和感が出るとのこと。
「受け入れる」ことって、何故そんなに苦しいのか。わたしには、目の錯覚にしか見えないので、そこに「在る」ものを受け入れてるだけなのです。
目の錯覚を絶対値にしている人が多いのなら、あえて合わせるよう頑張る方がいいのか?
目を離すとバランスがとりにくいから、近くすればいいだけなんですけど、そうすると本物と違う風になるわけで、正直わたしの仕事じゃないなー、と感じるのですが。
視えるものを写しとり、再現しているわけで、わたしの仕事は「再生」なのですね。
だから違和感があったんだ。
人形って、本物に似せたらダメって人が多いってこと?
でも、どちらを選んでも自由だ。
少数派でもわたしらしく、在ればいいじゃないか。
まあ、今度、紙に書いた正面顔を忠実に正面に乗せてみる、みたいなこともやってみるよ。
ps.久しぶりに仕事休みました。台風直撃、雨風強く外出も出来なかった。警報は解除されましたが、まだ雨は降り続いています。