多様性社会をどう生きるか
日本人にありがちな批判への批判ってのがあって、なんで批判的なことを言うんだっていうのがあるんだけど、それって意見の多様性を無視した時代遅れな考え方なんだよね。批判は意見の一つ、考え方にも多様性があることを受け入れるしかない。自分の意見を認めてもらうには他者への理解が必要なのよ。
それが多様性。批判意見は同意しなくていい。そういう考え方もあるのかと受け入れる。それが多様性なの。
批判や意見を否定してしまうと多様性を無視し同一思考や意見に従うしかない。そういった考え方は非常に良くなく、同調圧力やマジョリティとマイノリティの考え方へ戻ってしまう。すべてがマイノリティと考え、多様性があると考えないといけない。反対意見は聞きますよなんていう考えではだめで、自分の意見や考えも多様性の一つであり他の人の意見も多様性の一つであるという考えでないと多様性の社会は成り立たない。
あと人格への批判もやめてくれ。
意見の相違というのは、考えとか意見への相違であって、人格の相違ではない。人格というのは100人いたら100人違うのでそもそも違う。だから意見の相違で人格を否定するのは愚かでしかない。
人間へのリスペクトや敬意はまず大事で、それがあるから意見の相違も理解するということ。
意見の相違を受け入れない人はまず人への敬意が欠けている。基本的にどういう人であってリスペクトは大事ですよ。お互いに尊重しあっている社会こそ多様性を認め人の個性や考え方や生き方を認められる社会だと思うな。立場を利用して意見を押し通すのはただのパワハラでしかない。
何の話をしてるかというと、今日GoogleのPixel6の発表会があったんだけど、つっこみどころが多かったので、文句言ってたら、文句がある奴は見るなって言われたんだが、それは人格の否定であって意見への否定ではないってこと。あとなぜみんなでワイワイみてるのに批判するのかというから、批判は意見の一つだということ。批判をすること自体を批判するのは、それは人格の否定でしかない。みんなが仲良くやってるのにというのは多数派の少数派への批判や異論は認めないという古臭い考えしかない。
私は製品を批判したんであって作った人を批判したわけではない。よくあるアンチがいけないというのは人格否定になっているからで、批判そのものが問題ではなく、批判の的が発言や行動ではなくその人の人格自体を否定するからだということで全然違うんだけどなあとYouTubeライブで思った。
このあたり日和見主義の日本では意見を聞く場は難しいかとすぐ人格否定に走る日本人の多いこと。
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