見出し画像

サテニウムについて

フォロワーが以下の記事を書いた。


サテニウムについて大方書かれているが私も書いてみる。

サテニウムは喫茶店にて人と会話することによって摂取出来るものである。喫茶店と呼ばれるモノは数多く存在するが、それが摂取できる喫茶店は限られる。

採光が入る窓は少なく外の喧騒とは無縁。人の出入りは激しくなく、それぞれの席が孤立した世界であり混ざり会う事なく調和が成されている。コーヒーカップの音や灰皿に吸い殻が溜まり、煙の煙草が漂い空間を満たす。そんな環境が好ましい。

彼は純喫茶と言ったが、私の考えでは阿片窟という表現の方が好ましい。

そこではよく思考の整理を行う。相手との精神や知識の交換、補完が行われ思考の補強が成される。アウトプットやインプットは何も作品だけで成されるだけではない。

そしてよく行く喫茶店のリストが自然とできる。ルノアール、アルル、シルエット、タイムス、椿屋珈琲店……勝手知ったる喫茶店を巡りその日も暮れていく。

綿密な待ち合わせはなく、ただ話したいというシンプルな動機で声をかける。「○日に何処で」昼過ぎ、夕時、早朝。互いの動きで時を決め、待ち合わせた改札からそのまま喫茶店へ、或いは喫茶店で合流。

いつも行く喫茶店に一人で入るという事はあまりない。いつもの相手の思考や自らの思考が反射することなくループしていく。進まぬ長針、減る珈琲、増える吸殻。中毒物質がバッドにキマり悪酔いする。隣人の会話は月並みで自らの関わりの範疇から外れるほど興味は薄れる。それが雑事なら尚更。とはいえ、一人で入る喫茶でサテニウムが摂取できないとは限らない。観光地ではない街中の地元の人間だけが慎ましく入る喫茶も格別である。特殊な例であるが。

サテニウムが満足に摂取できなくなる事も多々ある。

いつも行く喫茶がなくなる。都庁に続く長い地下道にあった喫茶店。一段上がったカウンター席の付近ではボーイが暇そうにしており、奥の席は普段から灯りがなく閉鎖されていた。薄々なくなる気配は感じていたが、無くなったときの喪失感は言い難い。

禁煙強化。個人的にサテニウムを摂取する上で欠かせない要素の喫煙行為が世の健康中毒者によって脅かされた。閉鎖的な喫茶店も例外になく、席で煙草を吸える喫茶店もだいぶ減った。ルノアールも紙巻煙草が吸えなくなってしまった。嘆かわしい。

会話相手の離散。いつも会う相手は都内や近辺に住んでいたが、年が変わってある者は西に、ある者は東に、ある者は南に……といった感じで、東京に集うということが極端に減った。まあ、その代わりと言ってはあれだが上記のフォロワー宅に訪れるようになった。自宅でサテニウムが摂取できるとは、何とも羨ましいかぎりである。

サテニウムには中毒性があると彼が言ったが以前の奢り中毒にも一枚噛んでいたかもしれない。

今回は珍しく人の記事に呼応して書いた。今年はサテニウムが欠乏し人との対面会話がまともに出来ず、大学時代とは違った荒廃の年であった。とはいえ健康的な日々も気持ちが悪い。差支えない程度に不健康でありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?