Paraphrase感想
MMDやBlenderで映像作品を作っているvonveさんの最新作「Paraphrase」を見ての感想を書きます。解釈は間違っているかもしれませんが、内容についてのネタバレを含むので視聴後に見てください。要約すると既に10回くらい通してみてるくらい好きという話です。
「日本が戦争に巻き込まれて民間人が招集されることになり、自分が出征する瞬間で多くのひとに見送られている」という夢を見たことがある。なにかと戦争のニュースを目にする機会の多い昨今だけれど、日本で平和に20年そこそこ暮らしている自分には本質的に無縁の出来事だと、私は認識しているのだと思う。心を痛めたとしてそこに当事者性を感じることはない。
けれど夢の中ではそれを夢とは自覚していないので、そこでの体験は今まさに自分の身に降りかかるものであると思ってしまう。だから軍服を着て隊列の中にいたとき、緊張で吐きそうになったし、覚悟なんてできていない死への恐怖で立ったまま気絶しそうな気分になった。朝起きて普通の日曜日で心底安心したものだった。
なんだか見ていてそんなことを思い出した。
Paraphraseは映像作家のvonveさんが9月に発表した24分の短編映画である。
Paraphraseは置換を意味する名詞で、物語は健忘症の赤い目の女性を中心に描かれていく。作品冒頭で雨の降る駐車場、映画館、寝台、路地裏、バスの車内と連続性のない場面が提示されるが、赤い目の女性の一人称視点でもそれは同じようにつかみどころのないものらしい。ナイフを携えて短髪の女性を探しているこの女性は現在進行形の記憶喪失であり、知らない場所で目覚めることや自分のことなのか定かではない記憶に悩んでいる。
赤い目の女性は自分の症状についての悩みを情報屋らしき男に相談する。すると男は女性に暗示をかけるかのように、短髪の女性を探すこと、すなわち復讐が誰に向けられたものなのかを探すことが解決の糸口になることを示唆する。彼はその答えを知っている様子だ。
赤い目の女性は明らかに一人で暮らしているが、ベッドに2つ枕が用意されていたり、食器が3人分あったりと不自然な家に住んでいる。そして女性にとって不自然な家具や食器から、彼女自身のものとは疑わしい記憶がフラッシュバックする。
日々の繰り返しの描写とともに、寝台の上で聞かされたと思われる男の独白が挿入される。「自我はよく孤島に例えられるが、この実験は互いに離れた島同士をつなぎ合わせようとする試みといえる」「従来の復習は体験を再現することに比重を置いてきた」、これらのセリフから、男は自身の体験を赤い目の女性に継承させようと何らかの実験を行っており、それがどうやら復讐であるらしいと提示される。身に覚えのない記憶は、女性が住んでいる家は、実はこの男のものであるらしい、そればかりか煙草を吸う習慣さえ女性由来のものではないかもしれない。情緒に混乱をきたしたのか、継承が完了したのか、繰り返し提示される絵に暗示されたのか、赤い目の女性は短髪の女性への復習が果たされたら海に行きたいと男に告げる。
すなわち筋書きはこうだった、赤い目の女性は14年前の短髪の女性であり、男の妻と娘を殺している。しかし殺人のショックで健忘症に陥った女性は罪自体の認識もできず、男の苦しみも理解しえない。男は復讐のために罪悪感を植え付けるべく、何らかの技術を用いて自分の感情を女性に継承させる実験をおこなっていたのだ。雨の降る町で短髪の女性を探す日々の繰り返しは、その過程の心象風景であった。
海の上で拾い上げた傘を女性から受け取ったとき、男の実験は成功したらしい。女性への意識の同期に成功した男は命を絶ち、女性は現実世界で目を覚ます。
現実世界の「海」は心象世界のそれと異なり雪が降り荒れた様子である。男が望んだとおりに罪悪感を植え付けられた女性は自らそこへ身を投げ、物語は幕を閉じる。
連続性が完全になくなった人格において自己を定義することはできるのか?
作中で赤い目の女性はほとんど意見らしいものを述べないが、男と初めて会話する際にやたらと哲学的な問いを提示する。それは女性の立たされている状況における不安の表現でもあるし、男に復讐が本当に成立しているのかを問うささやかな抵抗のようにも感じられる。あるいは男の不安を代弁しているようにも。
つまりは全編を通してみてみると、女性は殺人を犯した時点以降で健忘症を発症しており、記憶の前後が曖昧な状態が続いている。そうした状況で(殺人については忘れているが)赤い目の女性の人格として連続性のある自己を保てているのかを不安に思っている。そして彼女の状態は復讐を実行中の男にとっても不安視されるものなのだろう。男は女性に自分が家族を殺されたことによって受けた精神的苦痛を「継承」させることで「目には目を」というべき復讐を果たそうとしている。しかしこの前提は、何らかの精神的苦痛を与えた主体と客体の関係が成り立つことが不可欠だ。すなわち赤い目の女性をして殺人の記憶のある人格として自己を認識しているからこそ、継承によって「なんてことを私はしてしまったのだ」と共感ができる。しかし女性にとってもはや自己の一貫性が成立していないとすればどうだろうか、継承の結果女性の中に生まれるのは「殺人という行為をした主体としてその行いに罪悪感を感じている」人格ではなく、ただ家族を殺され絶望の淵に立たされた男の複製なのではなかろうか。とすれば復讐における主体と客体の関係は成立せず、男の望みは果たされない。なので上述のあらすじの中で、女性は最後に「罪悪感を植え付けられた」ために身を投げたのだと書いたけれど、果たしてそうなのかは確定していないようにも思う。
男はそのことを自覚しているのではないだろうか。女性が自己の連続性に関する不安を提示したとき、「過去の経歴ではなく現在の自分が何を求め行動するかが自身を定義する」という考え方が好きだと語る。これは男がいつから持っている信念なのかはわからないが、少なくとも自分の復讐の意義が揺らいでいる(女性の自己の一貫性への疑問)状況において、この定義に立つということは女性の在り方に関わらず復讐を論理的に成立させる。
この揺らぎは映画全体のテーマとして暗示されていて、場所を求めていた男に対し、継承のプロセスを終えた女性が海に行きたいと言ったことは、果たして女性が成り果てた姿がどちらであるべきなのかという示唆となっている(気がする)。
また映画は男の復讐に関する独白に支配されていて、これはともすればやや難解な映画の設定に対する説明的な表現ともとれる。しかしこれが意図された演出なのだとすれば、男が自殺する直前に女性に感謝を告げる瞬間にまで、一切独善的で自分の信じる結論以外を受け入れようとしないということの隠喩にもとれる。
もちろん、路地で銃を向ける男の姿が自分自身に変化する描写は彼女が潜在的に自らの罪を認識したということかもしれないので、作者的には女性への継承はストレートに成り立ったのだとしているのかもしれないが。
健忘症というほど深刻な状況でなくてもこの自己の一貫性に関する問いは普遍的に人々に投げかけられるものなのかもしれないと私は思ってしまう。
自分語りだけれど、私は自分の人生の一貫性に関して他者に比して優れていると自負している。映画の設定に対してチープで世俗的だが、ほんの幼いころからゲームクリエイターを志向して、まがりなりにも今それを生業にして生きていること、そのための努力や局面における決断を一貫して続けてきたと思っていることがその理由である。私はどちらかといえば高学歴に属する部類だが、偏差値を評価軸にするならば必ずしも人生で属した集団の中で突出していたわけではなく、完全に望んだ通りの道を歩んできたわけではない。自分の根本的な能力に対する正当性のある(と信じる)自任とコンプレックスは私の価値観を貫いていて、だからこそ時折、自分よりも優れた能力をもっていたであろう友人が、流されるまま人生を送っていることに腹が立ったりもする。別に年収や家庭といったステータスに特別差があるわけでもないし、お互いに幸せに過ごしていると思っている。けれど志をもって選んだ学問と全く異なる業種に就職したこと、時間を切り売りするようにバイトに明け暮れて刹那的にタスクをこなしていくような人生の在り方がその人が授かった能力に対して正しく社会への還元をする在り方なのかと感じてしまうことがあるのだ。すなわち「自分自身の洞窟を掘り進める」こともせず「現在の自分に自身の定義として比重をかける在り方」に対して私はやや否定的であるということだ。
もっと本を読んで、議論をして、信念をもって突き進めば、あなたはもっと偉大で人々を導けたのに!自分が人生を賭して大きなものを成し遂げようと挑戦していると思ったとき、それ故に苦しめられるときに思わずそうした怒りがこみ上げるのだ。(まあそこまで大それた大義を抱えて生きてるわけじゃないけれど)
だがそれは私の視点での一面的な解釈であるということは、この話が何を前提として書いているかからして明白であると思う。自己の人生の一貫性について、他者の人生の一貫性についての認識は私の独善的な主観であり、私にとってのそれも、彼らにとってのそれも成立しえないのかもしれないし、「偶然の連鎖による現在の在り方」がすべてであるうえでの誤差なのかもしれない。でも少なくとも私にとって、自分の世界観から逸脱することはあまりにも彼らの人生との学歴やらなにやらの世俗的な評価軸において、あまりに寄る辺がないではないか。だからこそ私はこれからもこの人生を生きるし、それが自分の主観であることを否定するつもりもない。とするのであればParaphraseにおける男がともすれば哀れな復讐者であった可能性にも私は共感を禁じ得ないのである。
SPACE CEMETERYのときも思ったが、フィルム・ノワール的ニュアンスを持つ作品としてこれほどまでに洗練されたものを私は他に知らない。哲学的な隠喩を持ったセリフや情景描写は一見するに難解な表現にも見えるが、その実一切の無駄がないように思う。ほとんどのカットに伏線が張られているか、あるいはその前触れとなっていて、それは24分の中で1つの大きな物語に集約される。キャラクターの掘り下げや親しみのために用意された小話の類はそこになく、最小要素で構成してやろうという意図を感じる。これは短編の尺だからなのかもしれないが短編映画サブスクに登録して一時期同じくらいの短さの作品を見まくっていたので、それらと比べても本作は突出してストイックだと私は思う。(尺が先か物語が先かはわからないけれど)だから作者の人が何かつぶやいていたけれど、もしかしたら男の独白なんかももっとカットしたかったのかもしれない。
直接的に現在の行為や心情を表さないので1回見ただけではつかみきれないところもあるかもしれないが、このストイックさが作品全体を通した美しさになっていて私には本当にたまらない。
シネマトグラフィも上品ですべてのカットがいわゆる「画」になっている。液体や火に注目させるシーンは単純にCGアニメーションとしての喜びがあり、手先や目線での心情描写はシンプルなモデルでも十分余韻を残してくれる。アニメーションすべての演技が、彩度を抑えた青みがかった画面に単なる色調補正ではない妥当性をもたらしているように思う。この作品の魅力はこうした構成の妙なのかもしれない。
というのも、「妻と娘を殺された男の復讐劇」といってしまえば、シナリオ自体は結構通りがいい。この題目だけならスティーブンセガールが主演でだって成り立ちそうだ。でもそれを言ってしまえばクリストファーノーラン作品も実はシンプルだったりする。セリフとシネマトグラフィで作品の雰囲気をコントロールし、説得力を高められるところが映像作家としてのvonveさんのセンスなのだと思う。(どの目線でものを言ってるんだという話だけれど)
まあ簡単な話、私は今日知って既に10回くらい見ているくらいにこの作品が好きってことだ
前作もそうだけれど、私はこの作品が芸術の水準にあると思っている。誤解を恐れずに言えば、ニコニコ動画やYouTubeのもっと世俗的なそれとは一線を画すものだ。
失礼な話で恐縮だが、そんな作品に対する評価として再生数という指標を採用するのであれば、あまりに過小評価されていると言わざるを得ない。vonveさんはこの分野で納得されるだけ評価されているのだろうか、私の知らないところで正当に報われているのだろうかと気がかりにさえなってしまう。短編映画の賞なんかに応募できないものなのだろうか。
でも、もっと失礼なことを言うかもしれないが、今のvonveさんの作品の在り方は私にとって勇気をくれるものだったりもする。文句のつけようなく素晴らしい作品をこだわりを追求して紡ぐという作為は立ち返ればクリエイティビティの神髄で、その信念はSNSに代表される世俗的評価の中でしばしばクリエイター自身に過小評価されてしまう。けれど作家が自分の審美眼を信じて突き詰めて生み出された作品が、それでも確かに私の心の奥に深く刺さっていて、いつまでも残り続けているという事実は確かに存在している。これは一般大衆に向けた消耗品としてのコンテンツたり得なかった(作者の意図関係なく)ことの解釈を私の中で明らかに多様化させていて、割と創作活動のために人生を捧げてきた人々に残酷な昨今にあって、私にとっては文字通りの生きる希望になっている。だから燃え尽きるまでvonveさんには映像作品を作ってほしいと思う。自分語りで恐縮だが、クリエイターワナビー的立場から私もvonveさんのようにありたい。美しい作品を作って再び見返したときに美しいと思えるということを大切にしたい。
でもやっぱりもっと評価されてほしいしParaphraseで1億くらい稼いでてほしいし既に私の知らないところで1億くらい稼いでてほしいと思う。
Paraphraseは本当に素晴らしい作品だった。どうにか私の力でもっと多くの人に広められないものだろうか。とりあえず週明けには同僚に紹介してみようと思う。
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