恋人はカフェテリア④(完璧な自由がこだわりをとおして顔をのぞかせたとき)
「独房は?」
「快適だった。」
「2週間もいて?まさに地獄だ!」
「音楽を聴いていた。」
「あなぐらで……レコードを?」
「頭の中でさ。心でも……。音楽は決して人から奪えない。そう思わないか?」
――『the shawshank redemption』より引用――
人間、頭のなかでかんがえていることだけに、完璧な自由があります。
だれにも侵す権利はないですし、手段もありません。
私のような物書きは、自由を文字で叶えようと試行錯誤するまいにち。
まっしろな余白にコレでもか、と書きだすことで、それは現実になるとしんじています。
けれども、文字(げんじつ)になってしまった自由はどうしても、データを圧縮され、ピンぼけになった写真のようになってしまうんですね。
だから完璧な文章というものも、この世にはありません。
ひとつだけ確かなことは、書き終えた文章は私にしか書けないものだ、ということ。
もしも――私の想い描く自由が、ちょっとでも読み手につたわれば、それがこだわりになるのでしょう。
きっと、オーナーさんのカフェへのこだわりも、同じと思います。
完璧な自由がこだわりや、センスをとおして顔をのぞかせたとき、訪れたお客さんはつぎつぎと魔法にかけられてしまうので、お先にテーブルでおちついて紅茶をいただいている私は、そのようすをながめているのが好きです。
文字とはちがって、カフェにはオーナーさんの想いが、そのままの情報量で反映されるところがうらやましいかぎり。
カフェが好きなんです、という想いがかたちになると、カウンターや棚、つくえ、食器、内装そのものから、自然と独特の香りが立ちはじめます。
それが空間をつくり、おいしさを際立たせ、やすらぎをうむことで似た者どうしをたくさん呼んでしまうのですね。
今のご時世、純粋に空腹を満たすため、カフェを訪れる人はまずいないはずです。(その理由もないとは言いきれませんが。)
街中を歩いてみれば、コンビニだってありますし、ファストフードやファミレスだってありますね。
少しのお金さえあれば、そうそう餓死することはないでしょうし。
ではどうして、人はお気に入りのカフェに集まるのでしょう?
じつは、はっきりとした具体的な答えはありません。
逆にいえば、すべてが答えになります。
どういうことかというと、そのカフェには人々の『すき』が集まるからです。
コーヒーの香りがすき。
甘さひかえめなチーズケーキがすき。
テーブルの木目がすき。
音楽のテンポがすき。
店員さんのえがおがすき。
すきな人と時間を忘れておしゃべりするのがすき。
色々な『すき』をもとめて人はカフェに足をはこびます。
そう、ほんとうに空腹なのは、あなたのお腹じゃなくって、あなたに与えられた時間だったんです。
『すき』で自分の一日を満たしたい――。
そういう空腹を感じ、人々はお気に入りのカフェに集まります。
さて、こだわりとは人々の『すき』でいっぱいにならない限り、ただの『頑固』となんら違いはありません。
でもオーナーの『すき』がこだわりをとおして、来てくれるお客さんに伝わったとしたら、その空間にはたしかな自由が存在します。
お客さんが自然と集まってくる素敵なカフェは、例外なく、さまざまなかたちの『すき』で満たされている場所なのです。
――ななびのちょっとしたあとがき――
ゴールデンウィークは暦通りのおやすみでした。
基本的にはインドアの私ですが、今回は驚くべきことに家の中にいる日の方が少なかったです(笑)
『ちはやふる――下の句――』を観てきたのですが、私は学生のころ合唱部に所属していた経験からか、いわゆる『チームで一丸となって大きな目標に取り組む』という物語に弱いです。
ああいうのは本当にやめていただきたい!!!すぐに泣いちゃうので(笑)
私も書くことで、青春します。
読む人のために何かできると信じて。
ななびでした。
私はいま全国でヒーリングの旅をしようと、画策しています。もしも、サポートいただけたら、それは旅の資金にしようとしていますので、私の作品に少しでも感銘を受けてくださいましたら、ぜひ、サポートよろしくお願いします。旅のレポートが書けるのを楽しみにしています。今からワクワクです☆☆☆