第二話 閉ざされた道
話道の道は、結局僕にとってなんの意味があったのだろう。
あの努力した日々は無駄で、夢や幻でしかなかったのだろうか。
僕は話道師によって変わった人たちを大勢見てきた。
例えばその昔、収拾がつかぬほど人を騙してばかりだった商人がいたが、突然、自分の子供だけを愛でるようになった。もとは自分の子供のために盗みを働いては食料を得ていた商人だったようだが、だんだん騙すことに執着していった結果、子供もほったらかして夜な夜な出掛けて。結局賭博だのなんだのに手を付け、終いには人まで殺しそうな勢いのところまで行ってしまいそうな、とんでもない悪人に成り上がってしまったという。
それを見かねた話道師は、その商人の子供に、「君のお父さんは盗みや騙しを働いて、君を育てようとしている。これで君は納得するか?」なんて、まだ言葉もろくに分からないであろう子供を捕まえては、至極真っ当ストレートに物事を伝え、諭してしまうなんて者も居る。
こんなことで改心するのか?と、思うようなこともある。しかし話道師というのは、ただ話すだけではない。その人物にとって、よりよい道へと導いていく働きもある。
正直なところ、この商人の親子関係にズカズカと入っていく邪魔者といえばそうなのかもしれないが、この商人は観念したのか、和道家の前で「ありがとう、ありがとう」と言って、何度も額を打ちつけながら土下座していた。
一見すると、果たして本当に話道師は必要なのかと思ってしまうのだが、時には大勢の前に、時には誰かと誰かの間に立ってみたり、そんな面倒なことを今まで和道家はやってきたことで、誰かが必要のない悪に染まらずに居られるのかもしれないと、僕はそうやっていつも話道師を見ながら思い、またそうなれるように日々鍛錬してきたというのに……
僕は結局、独り立ち出来なかった。というより、僕が自らそれを選択してしまった。親戚の人たちは僕の事情も察してか、目が合うたび優しく扱ってはくれたが、内心はきっと大恥をかいたと嘆いていることだろう。だって、今まで独り立ちしなかったものは、この和道には居ないのだから。
肝心の声。いつも以上に腹に力を入れてみても、出ない。僕の中に多分、この声という概念がもとから無かったみたいになっている。もし、この姿を父が見たらどう思うだろう。また叩かれるだろうか。叱咤されて、真っ暗なところに閉じ込められるのだろうか……それに、祖父は笑ってくれるだろうか。皆、大恥だと言って、どこか遠いところに捨てられるのだろうか。いっそ捨ててくれと思ってしまうが、こんな状態じゃ、ひとりでも暮らせない。
あの寝床に現れた男。すべては男に会ってからだ。不敵な笑みを浮かべた後に苦しくなったことまでは、しかと覚えている。でも、それだからといって、あの男とこの失声が関係があるのかと言うと、それはハッキリしない。もしかすると、僕は幻覚を見ていたのかもしれない。あまりにうだつが上がらない状態が嫌になって、自分であの恐怖ばかりの男を無意識に作り出してしまったのかもしれない。
このまま失声した状態では、普通に生きることすら叶わない。大好きな話道師、和道家に生まれて、父には最期の最期まで認めてはもらえなかったけど、いつかいつかと願って、独り立ちの日を楽しみにしていただけなのに。何故僕だけがこんな風になってしまったのだろうか……何かの罰が当たったのだろうか。
―――
――半年後
それからいくつの月日が経っても、僕は失声のままだった。
親戚も僕には見せないが、きっと呆れ顔をしているだろう。このまま話道の道を行けないのなら、僕はどこかでけじめを付けなければ。
久しぶりに外に出た。外の世界は、僕の心をさらに踏み潰すかのように、恐ろしく輝いていた。今頃は培った話を人に披露して、皆の反応を見てはまた考えて、よりよい話を……なんて思っていただろうに。もはや僕にだけ聞こえるように誰かが楽しそうに笑っているようにさえ思えてくる。あんなに憧れていた世界が靄にかかって見えなくなるなんて、夢にも思わなかった……
いっそ、夢を見なければ良かった。
いっそ、和道家なんかに生まれなければ良かった。
そうだ、いっそ消えてしまおう……
このまま橋から身体ごと落ちてしまえば、もうこんなこと考えることはない。今まで思ってきたことも、無駄な努力など消えても、今更取り返せない。これで良かった。これで良かったんだ……だからもうこれで……
「アンタの声、取り戻してやろうか?」
遠くから聞こえてくる声。あの男を思い出すような、不気味な声に嫌気が差してくる。もはや声というものすら恐怖で、身体中が固まるような感覚になる。でも、その感覚を無視するように、近付いてくる足音。ただ、この足音に少しだけ希望を持ってしまうくらい、僕は何もかも失っていたから、言葉にも耳を傾けてしまったのだろう。
橋の下の水面に映る月の横に、髪の長い……思わず咄嗟に、横にいる姿を見た。またあの男なら、今度は死ぬかもしれないと思った。でも、その姿はとても綺麗な黒髪の、着飾った女の姿だった。
ただ、さっき聞いたあの声は、とても女が出すような声でなく、大男がいるかのような声だった。まさか、この女が? いや、そんなわけがない。だってこんなに華奢で美しいものからあんな声が出るわけが……
「今、何を思った?」
「まさか女からこんな声が? なんて、思っていないだろうね?」
恐ろしく図星で、思わず身体が反応してしまった。まぶたのあたりが意思と反して動いてしまった。女だからと何故思ってしまったのだろうと、今更ながら後悔をしていた。それよりも、この女は考えていることが伝わるのか?そうだとすれば、今この考えている一言一句もわかるというのか?
「アンタ、アイツに声を奪われたんだろ?」
「ったく、和道の人間は本当に脇が甘いんだねぇ」
脇が甘い?和道の人間が?一体どういうことか、全く話の見当がつかない。かといってこの女にどうやって問うたらいいのか、それすらも分からない。声が無いというのはこんなにも不便なのかと思い知るばかりで、なんだか情けないという気持ちだけが募ってきた。
「分かった。 アンタ、喋りたいんだろう?」
「私の声をくれてやるから、それで喋れ」
女がこちらに近付いてくる。綺麗な丸を描く黄色の満月に照らされて、女の顔がくっきりと見えてくる。この顔に似合わない声だなとつくづく思ってしまうのは、僕も悪い人間なのかもしれないが、その女は、赤い口紅のついた唇で、僕にささやかな口づけをした。
思わず驚いて女を突き飛ばした。女は何も言わず、こちらをしっかりとした目つきで見ている。でもその目つきの中に、どこかさっきのような威勢がなくなったような気がした。それと同時に、僕の中の細胞が突然起き上がるかのように、昔の記憶をたどって、僕の首のあたりに何かを宿したような感覚を覚えた。これは、声だ。声が戻ったのか?いや、これは……
「僕の声、じゃない……」
突然喉に詰まっていた餅が外へ出たような、苦しかった靄が一気に消えかけたと思ったが、まだ何か詰まりを覚えている。女は、それを見て無音でクククと笑っている。一体何が起きたのか分からなかったが、動揺した脳内の中で必死に整理した結果、わかったこととして、この女の声が僕の声になり、女は失声した……ということになる。
女はそのまま僕の手を取って、和道家のほうへ走って行く。僕は女が引っ張るがままに、息を切らしながら走って行くが、なんだか胸騒ぎがしていた。
その胸騒ぎは嫌というほど的中していた。親戚の家が火事を起こしている最中だった。木造家屋だから、燃え移りが早い。もし、この家に居たら……
親戚の姿は近くに見当たらない。まさか、そんなことがあるのだろうか……
しばらくして運び出されたのは、親戚の遺体だった。笑っていた親戚の原型すら留めていなく、ただ運び出されるのを見守るしか出来なかった。
親戚の家はとても優しくしてくれた。こんな僕にもちゃんと食事を与えてくれて、何も不自由なかった。だから知っている。この「愛」に溢れた家は、決して自分たちで火を灯すことなどはしない。これは、確実に和道の人間を狙っている。だけど、それが誰なのか……
仮にそうだとして、この横に居る女は何故ここが分かり、僕をここまで連れてきたのだろう。何かの事情を知っているのだとは思うが、失声したであろうこの女からどうやって聞き出すべきか……
「おい。 お前、お前は何を知っている?」
「……」
やっぱりこの女は失声している。
この状態でどうやって聞き出せばいいのか……
そうこうしているうちに、女が燃えている家屋のほうへ走り出した。
このまま死ぬつもりか?いや、この女から聞き出さないと……
ただ、追いかけることに必死になった。そして、家屋の隅にあった物置に入っていく。そこに居たのは、親戚の女の子だった。
女の子は、とても怯えながらこちらを見ている。でも、顔は黒く染まって、声もかすれて……
「おにいちゃん……」
僕を必死に声を振り絞って呼ぶ声に、燃え盛る家屋の臭いをかき分けて、女の子のもとに駆け寄った。
「わたし、おにいちゃんのパパを見たの……」
「見た? どこで?」
「赤ちゃんのとき。 おにいちゃんのパパが、怖い人と一緒に居たの……」
「怖い人? 怖い人って?」
「ごめんねって言ってたよ…… おにいちゃんのパパ……」
女の子は、そのままその場で倒れ、生命を失った。
「……アンタが知りたいこと、教えてやるよ」
髪の長い女から小さい子供の声がした。僕は慌てて女の子に駆け寄って、泣きながら声をかけることしか出来なかったが、女は違った。女はまたも口づけを交わし、新たに声を手に入れたようだった…… (続)