猫猫年表(1986.8.4~)その3
ひたすら語学漬けな大学時代(後編)
2008年6月のある週末、ミュンヘン旧市庁舎広場近くのスタバに私は友人と向かった。
友人がタンデムパートナー(言語交換の相手)に会いに行くということで、なぜか私も誘われてついて行ったのだった。
そこにいたのは、なんと身長2mを超えるドイツ人!(背が高いドイツ人は多いが、さすがに2m以上となるとそう多くなかった)
不思議なことにお互い惹かれ合い、2週間ほどで私は彼と付き合うことになる。
それまで片想いばっかりだった私にとっては初彼氏!片道45分の距離があったが、時間を見つけては会いに行った。本当に幸せだった。
しかし、付き合い始めたときにはもう日本帰国までちょうど2ヵ月というところ。あっという間に時間は過ぎて、超遠距離恋愛が始まる。
が、彼との超遠距離恋愛は10ヵ月ほどで幕を下ろす。
彼は私が日本に帰国して間もなく別の日本人女性と出会っていい関係になるも、そのことをずっと私に隠したまま、ずるずると超遠距離を続けてきたのである。(簡潔に言えば、「二股をかけられていた」ということだ)
しかしその彼女の存在が明らかになるのも、別れを告げられてから数ヵ月後のことで、本当の理由がわかるまで、「別れは告げられたけど変わらず連絡は取り続ける」という宙ぶらりんな状態であった。(好きな気持ちが大きくて、私も離れられなかったのだけれど……)
彼の嘘が発覚したのにはアラビア語が関係しているのだが……これはまた別の機会にでも!
外国語漬け生活と留学ですっかり飛ばしてしまっていたが、大学でも音楽は続けていて、管弦楽部(サークルではなく部活)に入り、長期留学前まで活動していた。
バイオリンではない弦楽器がやりたいなと、今度はチェロを選ぶ。
(今まで高音パートで、チェロで初めての低音パート=楽譜がハ音記号になり、ますます意味不明に……苦笑)
世界的にも有名なベルリンフィルハーモニーのメンバー5人が通っていた大学に来てレッスン・コンサートをしたときには生演奏を聴けたりとレアな経験もさせていただいた。
チェロは人の声に近いと言われているが、癒やしの音色だった。(またいつか弾きたい!)
そういえば、大学では中学ぶりの共学だったわけだが、私は同学年の男子が極端に苦手になっていることに気づく。
(もうこれは小6のときのアイツらのせい!!)
「1歳上も1歳下もたった1年の差で、別に同学年とそう変わらなくない?」と言われてしまえばそうなのだが、男性でも先輩・後輩は普通に話せたのだ。
あと、外国人の友人(というか外国語でコミュニケーションを取る人)も問題なかった。
大学生らしく?バイトもいろいろした。
お弁当屋さんに始まり、塾、カフェ、高級めのスーパー、バレンタイン・ホワイトデーの催事、……一番長く勤めたのが、専門学校時代まで続けたクレープ屋さんだった。
「クレープ焼けるよ!」というのは密かに自慢だった。笑
話が飛んだが、留学から帰ってきて、同級生はみんな就職活動。私自身も進路を考えなければならない時期になっていた。
ただドイツ滞在中になんとなくのビジョンは浮かんでいた。
「普通に就職はしたくない。いつかドイツで日本語教師がしたい」
「普通に就職したくない」の理由だが……私はあまりお酒が得意でなく(美味しさも酔っ払う楽しさ?もよくわからないので、今ではまったく飲まない)、会社=飲み会のイメージが強かったため、「飲み会ばっかりの会社員なんて嫌!」と思っていたからだ。(もちろん職場にもよるんだろうけど……)
それにやっぱり外国語を生かした仕事がしたいという気持ちがあった。
ドイツ滞在中に大学の日本語の授業を聴講させてもらって、「日本語教師も面白そうだな」と思うようになったが、ドイツの大学で日本語を教えるには(今はわからないが、その時点では)修士以上の学位が必要だった。
ということで、まず大学院に進むことにした。
第一志望の院は二次試験で不合格。第二志望はネットで情報を集めてなんとなく決めたところで、直前になって「やっぱり違うかも」と、受験はしなかった。
そして最終的に、都内にある日本語教師養成課程を設置している専門学校に進むことに決める。
毎日往復4時間強の専門学校時代
私が入学した日本語教師養成課程は1年間。
通学に往復4時間強かかったが、1年だけなので電車通学を続ける。
音声学や日本語教授法、テスト作成、模擬授業など盛りだくさんな1年だった。
クラスメイトは比較的同年代が多かったが、早期退職した方々、主婦、さらに外国人4人(中国・台湾・韓国・ベルギー)と多様なバックグラウンドを持つ人たちと一緒に学んだ。
実際に留学生も学んでいる学校(というかそっちがメイン)だったので、留学生と接する機会も多く、模擬授業も課程の後半は留学生たち(有志)に向けて行うという、とても実践的なものだった。
10月には日本語教育能力検定試験(日本語教師として就職する際に一つの基準となる資格試験)を受け、2回目にして合格!(実は大学4年のときに一度独学で受験していた)
山盛りの課題、4時間強の通学、バイト、試験勉強、台湾研修旅行(初台湾!)、クラスメイトとのごたごた、ドイツ人元カレとのごたごた(なんだかんだでこの頃までいろいろあった)に揉まれながらも、なんとか台湾の日本語学校に就職が決まる。
台湾行きの日も決まり、晴れて卒業!……というところだったのだが、卒業式の真っ最中に大きな揺れが起こる。そう、東日本大震災だ。
(その日は電車が動かず、通っていた専門学校の姉妹校?に宿泊。幸い翌日には帰宅できた)
2011年4月、日本語教師として台湾へ
震災の影響で、3月下旬に予約していた台湾行きの飛行機はキャンセルになるも、4月頭に無事渡台。
最初は教案作成やら勉強会やら、その前に授業に慣れるのにいっぱいいっぱいだった……。
(しかも渡台に備えて買ったパソコンが3ヵ月で壊れるというトラブルまで発生!)
でも、台湾の学生さんは年齢関係なく「先生、先生」と慕って親切にしてくれる人が多かったので楽しかったし、慣れない台湾生活をしていくうえでもたびたび助けられた。
日本語教師を始めて3ヵ月が経過した頃、とある日系の会社に教えに行くことが決まる。
(30人近くいるクラスはそれが初めてだったので、すごく緊張したのを覚えている!)
50音からのクラスだったのだが、最初のテストで一人だけ100点を取った学生がいた。……そう、(未来の)夫である。笑
出会って1ヵ月ほどでFacebookで毎日メッセージのやり取りをするようになり、さらにその1ヵ月後には付き合うことになる。
(私はまだその頃基礎の基礎程度しか中国語がわからなかったため、筆談用ノートが欠かせなかった。笑)
おまけに付き合って2日目くらいで「結婚を考えている」とまで言われ……私にとっても「えええええ」な展開。
人生で2回目の「うまくいくときはうまくいく」だった。笑
台湾に来たときの私のプランとしては、
台湾で2年日本語を教える経験を積む→日本に戻ってドイツの大学院に進む準備をする→渡独
だったのだが、夫との出逢いでこのプランは消え去ることになる。
まぁちょっと大変なこともあったが、2013年4月に結婚。
……と、そんなこんなで今に至るわけだが(え!8年くらいすっ飛ばしてますけど?笑)、今台湾で暮らしていることに後悔はない。
「人生本当に何が起こるかわからない」と、自分自身ひしひしと感じている。
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