“モテ”の病

よほどの大病や大けがをしない限り、「生きたい」なんて思うことは日常生活でなかなかない。しかし、「存在したい」という欲求は、常に誰かしらもっているものなのではないか。

昔から優柔不断で勇気がなくて、誰かの色に染まりたい人間だった。誰かが「愛しているよ」と言ってくれれば、それだけで私はこの世界に存在しているような気がした。しかし、同時に、それは空っぽな私が空っぽのまま生きて行くことの危険に、常にさらされていることとも同義だ。

ネット上には、「〜すればモテる!」のような異性ウケを謳う記事が多く、正直なところ食傷気味だが、しかしああいったモテ系の記事は一定の需要がある。興味がないといいつつ、「男性がセックス時に引いた女性の行為は?」なんてタイトルの記事は、気がつくとクリックしたりしているときもある。

それは恋愛だけではない。フリーランス駆け出しのとき、ありがたくもいろいろな人からお仕事の相談をいただいた。それは人の縁と縁がつながれたものであり、正直なところ私の身分や能力には不相応なものも多かった。しかし私は喜んだ。「私は認められている。“私”を選んでくれている。私は存在している」。

他者からの承認が増えれば増えるほど、私の日々は充実しているような気がした。自分の存在が色濃くなっている気がしたし、その頃は、過去にあれだけ欲しがった友人や恋人すら、今の自分には必要がないと思っていた。いるにはいたが、振り返ってみれば、正直大切にできていなかったと思う。

数年前の話だが、そういった満たされるものがなかったとき、ほとんど破綻した関係の恋人の存在を忘れたくて、色々な異性と毎夜飲み歩いていたときがある。バイトも6個くらい掛け持ちをしていた。“私の存在を認めてくれない彼”から目を背けたくて、何かから逃げたくて、弱さを自覚しながら「私は弱い」と公言していた。

そして、私はそれを“寂しさ”と呼んでいた。

もう寂しさを売りにするのはやめよう。寂しさを売りに寄ってくる人間は、私と同じように、誰かの唯一無二になりたくて、自分の存在価値を感じたい承認欲求の塊ばかりだった。結果、彼らは「助けてあげた」と満たされて去っていく彼らに、私は何も変わらない今を彼らを憎んだ。自分がまねいた災いにもかかわらず。

もう寂しさを売りにするのはやめよう。自分の存在を満たすことができるのは、自分自身だ。仕事がこなくても、好きなひとにふりむいてもらえなくても、家族の愛を得られなくても、友達がいなくても、「私は価値のあるものを生み出している」と、自分で自分の存在を承認できれば、それは未来永劫崩れ去らない宝だ。

誰かの評価や判断に頼ることは、楽だ。責任もないし、相手が凄ければすごいほど、自分まで大きくなったような気がする。

しかし、人生は短く、人は常に動き続け、諸行無常の世界で、自己の存在をひとに委ねることほど恐ろしいことはない。

もう少し賢く生きよう。もっと強靭な生存戦略を。大多数にもてなくてもいい。仕事が減ったってかまわない。大好きな相手にふりむいてもらえなかったとしても、大切な友人が去っていくことがあったとしても、私が私の存在を認めよう。

いつか終わりがくる人生でも、「存在した」痕跡は、環境やものや他者の心に残るだろう。つまりは私たちは生きている、それだけで存在している。そして、その存在の色濃さを決めることができるのは自分だけだ。

他者からの「すごいね」や「愛している」よりも、私自身の「価値がある」という確信を。私は存在している。この世界で。

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