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スルースキルって、戦わないってことだ

意を決して、歯医者の予約をした。実に1年ぶり。口に何かを突っ込まれるのも、痛いのも、どちらも大変苦手なので、心の準備ができるまでに毎回1ヶ月くらいかかる。いざ検診日になれば、心臓はバクバク。

治療が始まり、「痛かったら手を上げてくださいね」の言葉に、躊躇せず左手をスッとあげる。しかし、これは世の常。歯医者はあげた左手をスルーして治療を続ける。私はあまりの痛さに「死ぬ……これは死ぬ……」と体を硬直させ涙目のまま、左手をゆっくりと下げた。

いつでも何かにつけて怒っているひとがいる。かつて私もどちらかといえば憤ってばかりの人間だった。なんだかよくわからないけど、許せない。思春期の特徴だ。要は、すべてを自分ごととしてとらえる生真面目さをもち、独善的な正義感に溢れ、“スルースキル”が著しく欠如している。

『あたしンち』は大変な名作だが、とりわけ最終巻は人生の滋味に富んだ回が多く、単なるコミカルな日常ものに終わらない凄さがある。その中でも、みかんの友人しみちゃんが成功したダイエット話が面白い。

みかんは、久しぶりに会ったしみちゃんから「2キロ痩せたの」と聞いて驚く。どうやって痩せたのかと聞くと、特に何か食べ物を減らしたわけではない。“ダイエットとして食欲と戦う”ことをやめたのだという。食欲に抵抗しようとすればするほど、なぜか美味しいものが目につく。嫌いなひとほど、つい視界に入ってしまうように。抵抗することをやめれば、執着は消え楽になるのだという。

こんな画期的なダイエット方法があっただろうか。確かに、何かを断とうとすると、どうしてもそればかり目につくものだ。

私も以前、糖質による肌荒れや胃もたれに悩み、糖質制限をしようと思ったことがあった。しかし、制限しようとした途端、大して好きでもなかった白米が食べたくて仕方なくなる。毎日カレーが食べたくてウズウズしてしまう。結局、1日1食は糖質をとることで妥協したが、「大して好きじゃなかったものでも、抵抗しようとすると辛くなる」という現実に驚いた。

スルースキルとは、つまりは戦わない、ということだ。ただし、負けるということではない。負けないために、戦わない。某アニメの言葉を引用するのであれば、それこそ「生存戦略」。いつからか私も、なんでもかんでも抵抗する馬鹿らしさに気づき、だいぶ生きやすくなった。抵抗なくスイスイと泳ぐ心地よさというのはある。

ウィィィィィンという耳ざわりな機械音と、行き場を失った左手。「ごめんなさい……許してください……」と心の中で大号泣しながら土下座をし続けていたが終わらない。次第に痛がり疲れて、心の中の私が降参した。

「もうどうにでもして……」

体の力が抜け、うつろな目で天井を見上げる。歯医者は変わらず私の口の中を削り続ける。おかしいな、さっきほどの痛みがない。それどころか、美人女医に見下ろされながら口の中を好き放題されている現実に、どこか恍惚とした気分になる。

たたかわない、で楽を得る。苦しみとは、抵抗するから生まれるのかもしれない。

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