居場所を作る熱量

昔、友人に「あなたからは好意が感じられない」と言われて驚いたことがある。ちゃんと好きだったからだ。過去に付き合っていた恋人にも「熱量が感じられなかった」と言われて驚いたことがある。やっぱりちゃんと好きだったからだ。でも、なんとなく彼らが望む関係性を聞いていると、やはり私の熱量は、彼らにとって低かったのだろうなあとも思う。

昔からどこにいても、居場所がないように感じていた。どこにいても、ちょっとだけ違和感を感じる。もっと落ち着く場所があるのかもしれないし、ないのかもしれない。海外に行ったら変わるかなと思って、フランスやスペインに旅行したこともあったけど、「世界は広いなあ」という人並みの感動と、やはりどこか現実感のない雰囲気を楽しんだだけだった。

熱量ってなんだろう。情熱の国スペインに行ったときは、確かにスーパーの店員一人からも凄まじい熱気を感じた。日本でも、エネルギッシュな友人からは、会うたびにものすごい“熱波”を感じる。捨て身でタックルされているような気になるときもある。

同じく過去の恋人に「男性は女性に母性を求めているんだよ」という話を聞いて、なんとなく熱量について思ったことがある。それは、許されている、という実感なのかもしれない。血の繋がらない赤の他人に“母親の無償の愛”を求めるのは酷だなあと思ったけど、でもそれは男女問わず欲しているものなのかもしれない。

つまりは、熱量とは、単なる「好きだ!」という情熱の話ではない。自分が好きなように感情や行動を発露させること。裏を返せば、「あなたにだったらなんでも話せる」「あなたがしたことならなんでも許せる」「あなたといると私はこんなに開放的になれる」という証だ。

一緒にいて全力で楽しそうにしてくれているひとといると、やっぱり私も楽しくなる。私といてくれることで楽しいと感じてくれていることに嬉しくなる。私は、多分、友人や今まで付き合ってきた恋人の多くに、そういった感覚を与えることができていなかったのだろう。「どこかいつも距離がある」と言われてハッとした。

つい最近「私はあなたと生身でぶつかりあうつもりがある」と、数年来の友人に言われた。「だからあなたも生身でぶつかりあいたいと思える相手が現れたら教えてね」と言われた。即座に「あなただよ」と言おうと思ったけど、多分私はまだ臆病で、きっとまだそれは無理だろうと思ってしまった。まだ、即答するには早いと思った。

私にないのは、居場所ではなく、生身でぶつかる勇気であった。傷つくことを恐れないという心。「私はこんなに弱い部分があります」と言ったら去っていった人ももちろんいるし、そこで「やっぱりな」と閉じた心もある。

でも、やっぱり世界は広かったのだ。この小さな島国ですら「生身でぶつかる気がある」と言ってくれたり、傷つけないように気遣ってくれたり、私といるだけで楽しそうにしてくれたり、そういう私を大切にしてくれるひとたちがたくさんいる。私はその人たちを“居場所”と呼べばいい。

居場所を探すことも、腰を据える勇気も、探す努力もしていなかった私は、確かに熱量が足らなかったのだ。傲慢な私に気づかせてくれて、これからの希望や勇気を与えてくれた友人や過去の恋人に感謝して。いつか臆病者の仮面がとれるといい。


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