「今にも狂いそう」というひとは100%狂わない

「いまここで狂え」と言われたら、大概の人間は、困惑するだろう。よほどの演者でなければ、恥ずかしげもなく狂人のフリをすることはできないし、そもそも演者かどうかに関わらず、言われるままに根っこから狂うことって不可能だ。

“認知する”というのは、コントロールの手綱をもつことだ。“私”や“その他”を認知することで、私は私のふるまいをコントロールする。逆にいえば、“認知し得ない”ことに対して、私たちはほとほと弱く、簡単に狂うことができる。

たとえば、理由はわからないけどお腹が痛くて仕方ないとする。突然の腹痛にひとは「これからどうなっちゃうの?!」と脂汗を垂らし混乱する。しかし、それが急性の腸炎だとか、盲腸だとか、病名が分かった途端に、痛みの苦しみはあれど、一息つく程度には落ち着いてしまう。それは、私たちがよくわからない不運から解放され、治療というコントロールの手綱を握ることができたからである。

昔から、どうしてもなめられやすい人間だった。私自身流されやすい人間であったし、見た目通りの気の弱さと意志薄弱さを持ち合わせていた。

「なめてんじゃねえよ」と怒り狂いそうになる瞬間があった。相手はそんな気もなく、私に向けて、ただ友好的にコミュニケーションをとろうとしていたのだろう。しかし、その軽薄な言葉や距離感を無視した図々しさに、私はすっかり嫌気がさしていた。連絡が来るたびに苛立ちは増すし、もはやそこから逃れるために全てのSNSを退会してしまおうかとも考えていた。

……と言ったって、20代も折り返しを迎えた、曲がりなりにも大人だ。少し頭を冷やそうと、心を落ち着かせた。そして、ふと、なぜ私はこんなにも怒っているのだろう、と不思議に思った。

その怒っていた理由について書くと脱線してしまうからいまは書かないけど。簡単にいえば、「なめられていることに怒ったのではなく、身の程知らずの相手に苛立っていた」というだけの話だった(これだけ書くと誤解されそうだけど)。あまりの自分の稚拙さに顔が熱くなるが、それと同時に、「もう怒れないな」とも思った。

怒りたくても怒れない。私の感情はすっかりと牙を抜かれていた。

怒り狂う人間は、“私が怒る理由”を認知していない。怒りの根源的な原因をつかむ冷静さを持ち合わせる人間は、狂うことができないのだ。

狂う人間は、自分を表す言葉を知らない。逆にいえば、「今にも狂いそう」っていうひとは、絶対狂わないんですよ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?