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決別と解放。

「本当は、作家になりたいんです」

とりあえずのビール、大好きな芋焼酎をロックで3杯、酔いもずいぶんとまわったころだった。

ほぼほぼ初対面のライター仲間に面と向かって言い放ちながら、ふわふわとした頭の奥で、「私は何を言ってるのだろう」と思う冷静な自分がいた。

先日友人のお誘いで、生まれて初めてヒップホップのライブに行った。「フリースタイルダンジョン」などの隆盛でにわかに人気を集めているヒップホップ。興味はあれど、どこに良さがあるのかは皆目検討もついていなかった。

まだ1度しか見ていないし、私はまだ何も語ることができないが、脳天をがーんと打ち抜かれるくらいの衝撃はあった。ただただ、格好よくて、興奮した。

「結局、行き着くところは彼らの生きざまなんだよ」とヒップホップ好きの友人に言われ、ヒップホップ特集の雑誌を読み、夜な夜なYouTubeで気に入ったラッパーの曲を再生しながら、なるほどなと再認識した。

A(ANARCHY) ストリートに足引っ張られるとかいろいろな話があるけど、ストリートのやつだろうがなんであろうが結局は人と人だと思ってるんで、付き合い方はどういう世界の人間に対しても一緒なんですよね。俺らがストリートであることは事実だけど、それだけで決めちゃったら狭いでしょ。そういう垣根は潰したくないですか?

漢(漢a.k.a.GAMI) そう。そういう考え方を出来るのは、ANARCHYが世の中と人を舐めてないからなんだよね。「ストリートだからーー」って言いわけばかりしていると自分の可能性も狭めると思う。

(『ユリイカ』6月号 「[対談]漢a.k.a.GAMI×ANARCHY(司会=二木信) “ヒップホップ”の証明ーーストリートを超えて」)

「僕も、作家にになりたいんですよ!!」

私の一言に、相手は身を乗り出した。「賞とか出してるんですけどね、まだ引っかかりもしなくて…」。

「そうなんですか。」一緒じゃないですね。

私は、賞なんて、一度も出したことは無かった。「ライターの仕事が忙しいから」「書きたいものがないから」「どうせ小説なんて誰にも読まれないから」……自己満足で途中まで書いては捨て、途中まで書いては捨て、の繰り返しだった。

漢氏の言葉を借りるなら、私は「なめて」いたのだ。世間を、人を、ひいては自分の可能性までも。

それまでは、正直なところ、ラップとはただの言葉遊びのような類だと思っていた。実際、私はまだまだこの文化について未知なところが多すぎるし、ダサい奴らもそりゃいるのだろう。

ただ、この世界にはこんなにも格好よく生きている人達がいる、と知る事は、幸福だ。

つまりラップとは自由な解放を求める者の生存をかけた、自己を維持する手段なのだ。己自身であろうとすること、そこにすべては賭けられている。

((『ユリイカ』6月号「RAP ATTACK 日本語ラップは何を歌っているのか」二木信)

ダサい自分とお別れしたら、私は書くものが変わるのだろうか。せっかくなら、格好よく生きたい。誇らしく己を証明したい。


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