荷物少なく、心軽やかに。
薄手のワンピースを買いたくて、仕事帰り、神南にあるヴィンテージショップに寄った。梅雨明け、かんかん照りの日差しのもと、MacBook Airの入った大きなリュックと背中の間は服が溶けているかと思うほどにビショビショだった。
やっぱり帰ろうかな。でも、私は“自分へのご褒美”が大好きなのだ。「お仕事疲れた」なんて気持ちだけで家に帰るなんて、つまらない。でも、あまりに暑くて、リュックは重くて、いざ店に着いたときには疲れで何の感慨もなかった。
「それ、2日前に仕入れたんですよ」
服屋の十八番な営業文句も、ヴィンテージショップだと、なんとなく素直に聞き入れられる。店員はレジの前で、新しく仕入れた50年代の服たちにタグ付けをしながら言った。
手にとって、金具を外して中を見る。このサイズじゃ、MacBook Airどころか、いま読んでいる単行本も、毎日持ち歩く500mlのペットボトルも入らないだろう。果たして、私はこの鞄を買って、何を入れるのだろう。
気が付いたら、その新しい鞄を買って、嬉々として帰路を歩いていた。
家に帰り、背負っていたリュックの中身から、新しい鞄にいれられるものを探す。
財布、iPhone、ポケットWiFi、ハンカチ、名刺入れ、鍵、ファンデーションとリップ、常備薬をいれた小さな巾着、読み途中の文庫本……。250mlのペットボトルなら入りそうだ。
だいぶ余裕を残して、パチンと金具が閉まった。
一体私はいつも、何をあんなに背負っていたのだろうか。リュックの中に残る荷物を覗く。
整腸剤(お腹が弱いのだ)、落書き帳、筆箱、読むかもしれない単行本2冊、MacBook Air、お菓子5種、小さなハリネズミのぬいぐるみ(嘘じゃない、底に仰向けになっていたのだ)……。
世間で人気の“断捨離”って、こういうことなんですか?
不必要ではないけど、なくても生きていける。それを知る価値は、確かにあるかもなあ。なくても生きていけるものを持ち続けるって、実は両手いっぱいに不安とか執着を抱えているようなものかもしれないし。
鞄が小さくなればなるほど、どこででも生きていける気がする、なんておかしな話かもしれないけど。
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