なんの面白みもない史実
私は食事中にはやや厳格な父の元に育った。
箸の持ち方は勿論姿勢や食べ方、マナー等厳しく指導されなにか不備がある場合はゴツゴツした大きな手で頭をはたかれた。父に頭をはたかれると頭がぐわんぐわん揺れ視界が揺れる。目の前の皿や机はブレて写り、はたかれた頭の部位からコーヒーのフィルターからコーヒーが染み出すようにじんわりと頭の中を液体で満たし1つ、2つと目や鼻から数滴溢れ落ちる。その姿を見て「男」なのだから泣くな、「泣くくらいなら〜」と続き、それを見た母が苦言を呈す。私が落とした数粒の涙と母親の苦言は父親の怒りのコップを溢れさせあっという間に沸騰してしまう。溢れ沸騰した液体はグツグツと煮えたぎり表面を揺らし激しく机を汚す。一通り溢れ沸騰するとコップのしまい所を探しに何処かへ消える。机には飛び散ったコップの中身と汚れた皿、空っぽになったコップは父親がまた酒で並々と注ぐ。片付けるのはいつも私の役目だ。私はどうやら出来の悪い子供らしくそれが私の日常だった。
その日常の中で特筆すべき日があった。父親の機嫌がいいと料理をする。その日もそうだった。しかし運が悪かった。私は体調不良で食が進まなかった。父親は烈火のごとく怒った。日々の当てつけか、そこまで俺の事が嫌いか。違うんだ父さん。
私は父親を未だ愛していたのだ。厳格で恐ろしいがそれも私を思ってのことだと理解している。父親の料理はいつも美味しい。母親は共働きの為簡単で栄養バランスを考え苦手な料理も出てくるが父親は作る頻度が少ないので拘り美味しいことが多かった。私は否定の為に更に盛られた料理をかきこんだ。味がしない固形物の土石流が舌、喉、胃に雪崩込む。それでも更にどうと鎮座する料理はなくならない。私にとってそれは恐怖だった。眼前の皿にある恐怖が積もった山を切り崩し喉奥へと押し込む。その度に頭の芯のほうからガンガンと警鐘と共に目の奥を圧迫する。しかし間違っても押し出そうとする力に負けてはいけない。父親が怒るから、私がコップに注がなければ溢れないのだから。押し込め、押し込め。
私は全てを食べきった。しかし父親の顔色は芳しくない。無理して詰め込むのが彼の気に触ったらしい。静かに、けど確実に彼のコップは沸騰を始めていた。彼の水面が揺れ今にも縁から1粒、2粒と溢れそうになっている。違うんだ父さん。
私の体調不良をいち早く見抜いた母親が私を心配する。その姿を見た父親の水面がグツグツと揺れ始めた。その後机を汚したのは父親ではなく私だった。
吐いた。
堰を切ったように。母親は大慌てでキッチンに向かい妹は驚きのあまり泣き始めた。私はしまった!と思った。吐いたことにでは無い。机を汚したことでもない。今にも沸騰しそうな父親のコップに溢れるどころかコップを破壊せんとまでの行動を取ってしまった事だ。嗚呼恐ろしい。彼はどうなってしまうのか。彼のコップを度々溢れさしていたがここまでの愚行は初めてだ。真逆殺されるのではないだろうか。嗚呼ごめんなさい父さん。愚図な私で。許してとは毛ほども思わなかった。ただ殺される前に一言ごめんなさいと謝りたかった。それだけ許して欲しい。どうか。どうか。違うんだ父さん。
未だかつて無いコップの洪水を恐れ私は吐いた体勢から動けなかった。ただひたすら洪水の衝撃に備えていた。果たして洪水は来なかった。衝撃を受け止めるべく固めた身体はすかしを食らいつんのめる様にして顔を上げた。父親は悲しそうな顔をしていた。
初めて見る顔。般若よりも恐ろしい顔、眉間にシワのよった顔、何を考えてるか分からない顔、穏やかな顔、豪快に笑う顔、父親の色々な顔を見てきたがその顔は初めて見た。私は動揺した。恐怖や安寧などを司る象徴たる父親の顔から悲しみを初めて見た。私はその時さっきとは違った恐怖を感じた。父親はその日は何も言わなかった。違うんだ父さん。
その日から私は皿にある食物を無くさなければならない、吐いてはならない、この2点が呪いのように染み付いた。
時は進んで高二の頃、2人目の交際相手とオシャレな純喫茶へと足を運んでいた時になる。木目調の店内によく分からないがオシャレということは分かる内装、ケーキにコーヒーメイカー事運ばれたコーヒーが私と交際相手の前に配膳された。私は皿のケーキをすぐさま平らげ並々注がれたコップの中身を全て飲みほした。交際相手はその事を指摘した。
「普通食事のペースは相手に合わせるものじゃない?」
「わかってるよ。わかってやってるんだ。」
「なら、どうして?」
私は返答に詰まった。どうも説明が難しい。父親が厳格で厳しい事は言っている、が私にとって件の出来事は人生の恥部のような出来事だと思っていた。恥の多い人生ではあれど言いたくないと云うてんでくだらないプライドが言い訳を用意する。こう云う所に頭が回る所もそうだ。コップに少しずつコーヒーが溜まる。
「食いしん坊だからさ。私は太ってるだろ?お皿にあるともう辛抱堪らなくてね。早く食べたくなっちゃうんだ。」
「なによ、それ。」
彼女はくつくつと笑う。コーヒーは溜まり続ける。
「まるで犬みたい。そおれ、待て。」
彼女は私の返答を気に入ったらしく上機嫌に冗談を言う。馬鹿にしてくるがいつもの事だ。悪意は無いのだろう。私は彼女の冗談に乗ることにした。
「嫌ァ駄目だね。僕は愚図犬だから先に食べちゃう。」
「ふぅん。私は犬は賢い方が好きよ。」
「僕もだ。犬は賢いに限る。馬鹿は嫌いだ。買うなら柴犬とかレトリバーとか賢い方がいい。」
なら同棲する時は柴犬を買いましょと彼女は続ける。コーヒーは真ん中程まで溜まった。彼女は私より頭が良い。訳あって彼女は学校に通っていないが高校生である私よりも頭がいい事は分かる。なんだか試されてるような探りを入れられてるような気がして緊張して喉が渇く。まだ溜まりきってないコーヒーをすかさず飲む。空になったコップを確認し満足する。コーヒーがまた少しずつコップに重なっていく。その様子を見た彼女は何かイタズラを思いついた幼児のような顔をする。
「またすぐ飲んで。レディの扱いがなってないと愛想尽かされちゃうわよ。」
「私が恋人の扱いがなってないのは君の知るところだろう。何を今更。だいたいレディの扱いだなんて時代錯誤な…」
「あ〜あ〜聞こえない。理屈家も最低よ。」
会話の主導権を握られ手玉に取られる。こうなると私に勝ち目は無い。凡そ3分の1まで重なったコーヒーを横目に見る私を彼女はニヤニヤと眺める。
「貴方、私に嘘ついてるでしょ。」
唐突な問に私は動揺する。
「そのわかり易いところが本当に好き。嘘が付けないのが可愛くて愛おしいよ。」
彼女は上機嫌に笑うが私の情緒はぐちゃぐちゃだ。口が乾いて仕方がない。コーヒーに手を伸ばすが彼女に遮られる。コーヒーはもう中ぐらいまで溜まっていた。
「駄目。本当の事、私に言って。恋人なんだから隠し事は無し。」
口が乾き喋りにくいが致し方なく幼き日の、私の行動の原因の日を説明する。コーヒーは刻一刻と溜まっていく。彼女は私の目を見つめるが私はコーヒーにしか目に入らなかった。コーヒーが滴る。コップに溜まる。コーヒーが滴る。溜まる。滴る。溜まる。滴る。溜まる。私が話終える頃には八割方コーヒーは溜まっていた。彼女はその姿を見て面白くなさそうに呟いた。「ふぅん。君の父親ずっと変わらないのね。」
「いや、私が愚図だから。ずっと僕が変わらないで愚図だから変わったんだよ。昔は優しかったけどずっと愚図のままだったら今になったんだ。だから、私のせいだから。」
彼女はその言葉に少し顔を顰める。私はその顔に心の臓が握りつぶされるような、頭の奥でコーヒーを握りつぶされ搾り取られるような感覚がした。私は、またやってしまったようだ。いつもこうだ。私は愚図なのだ。暫しの沈黙。その後彼女は顔色を変え一言私に言った。
「私はそうは思わない。貴方が愚図だなんて。」
「でも、事実そうだろう。」
「いいえ。違う、違うの。なら、今証明しましょう?コーヒー、我慢して。私の為に我慢してちょうだい。」
地獄だ。コーヒーは溜まる。溜まり続ける。動揺する私の心のようにコップの水面はコーヒーが滴る度に揺れ続ける。コーヒーに映る私の顔は酷く滑稽だろう。その顔を気にしていられないほど私は激しく心の内を乱していた。
ついにコップの縁まできた。彼女は打って変わって愛玩動物を愛でるような顔になっている。まるでころころと云う擬音が似合うような素敵な笑みを浮かべて。嗚呼溢れる。嗚呼恐ろしい。滴り揺れる水面。揺れて溢れる。水面は激しく揺れて今にも溢れる。揺れる。溢れる。溢れる。溢れる。溢れる、溢れる!!!
いつの間にか縁からはコーヒーは溢れ、下のお皿を汚していた。白い皿を黒黒としたあまりにも不似合いな色が皿を汚していた。溢れてしまった。皿を拭かなければ、そう思い机上のナプキンを手に取ろうとすると彼女はけたけたと、でも優しい鈴を転がしたような笑い声を上げた。私はその姿に少しムッとする。彼女は笑いながら続けた。
「嗚呼可愛い。貴方本当に可愛いね。」
やっぱり犬は飼わなくていいわ。そう言いながらまた笑った