私たちは、誰かを殺さなきゃならない。

今朝、精神的にざわついてしまって布団からどうやって出たら良いか分からなくなり、つい横になったままYouTubeをサーフィンしていた。

すると、バンド・水中、それは苦しいの新曲のMVが目に入り、そのタイトルにぎょっとした。

「保育園落ちた、吉田死ね」

分かる人にはきっと分かるだろう。

数年前に話題になった「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログ記事のパロディだ。

「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログが話題になったときのことは私もよく覚えていて、多くのネットユーザーが引用して憂国の念を表していたものだった。

けれども、私がぎょっとしたのは元ネタとなっている「保育園落ちた日本死ね!!!」ではなく、楽曲タイトルの後半。

「日本」が「吉田」になっている箇所だ。

吉田は言わずもがな人名であって、その上、日本ではメジャーな苗字である。街中で「吉田!」と叫べば、きっと何人かが振り返るであろう。

ジブリ映画・千と千尋の神隠しでも、名前を奪われると元の世界に帰れない設定があるけど、人の名前にはそれだけ個人を突き刺す力があると私は思う。

そんな、吉田。
に、死ねと言っている。

私は見た瞬間に、見ず知らずの吉田さんが死ぬ映像が浮かんだ。

(ちなみに余談だけど、水中、それは苦しいの楽曲の「吉田」は、バンドのドラマーであるアナーキー吉田さんのことを指していて、日本社会に降りかかるあらゆるすべての責任をすべて吉田さんに収斂させる意図があったようだ。)

そして連想して、バンド・神聖かまってちゃんの楽曲「夕方のピアノ」で、「死ねよ、佐藤!」と切実に連呼する、あの歌声をも思い出した。
そこでも、佐藤さんは斬殺されている。

日本に「死ねよ」だったら、地球に飛来する隕石にすぎない。
せいぜい人気のない林に墜ちたことがニュースになって、食卓で野菜炒めを食みながら「家に落ちてきたら怖いねぇ」なんて家族と話すくらいのものだ。

けど、吉田は。佐藤は。
銃口は後頭部に押し当てられ引き金が引かれていた。
吹き飛ぶ頭蓋と飛び散る脳漿があった。

日本の死より吉田や佐藤の死の方が、より温度として死を実感する。
それでも、吉田や佐藤が多数いるおかげでギリギリ個人の死へ至らずに踏みとどまっているとは思う。

私たちは毎日、人を殺す瀬戸際にいる。
もはや殺人者も出始めている。

なんとか踏みとどまれている人は、倫理観という安全装置が作動しているのだろう。

「保育園落ちた日本死ね!!!」の筆者も、きっと溢れでる殺意を押し留めて、薄めて、拡げて、日本を殺すことにした。

水中、それは苦しいも、神聖かまってちゃんも、きっとそう。

これは言うなれば、アノニマスの殺人だ。
概念の殺人。

私たちは、誰かを殺さなきゃいけない。
殺さなきゃ生きていけない。

でも、よく殺さずにいるよね。
みんな抱きしめたい。

日本を、吉田を、佐藤を殺してニコチンガムをガジガジ噛んでいるみんなを、よく生きているね、生きているね、と抱きしめたい。



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