自分の中にあるナイフの使い道。
私は結構クリティカルな視点の持ち主のようで、何かにつけて斜に構えて物事を見てしまう癖がある。よく言えば、多面的に物事を見て、できるだけ多くの可能性や見方を知っておきたい、という意欲があるのかな。
そのクリティカルな視点を自分で感じる時、まるで自分の中にナイフの先端のような鋭さを感じます。そして、ときにはそれで誰かを何かを傷つけたり攻撃したくなったりしてしまうという、厄介な現象も抱えています。
だから思ったのです。こんなナイフ、捨ててしまおう、って。
ナイフを捨てるよう、頑張りました。それはつまり、自分のクリティカルな視点を無くそう、否定しよう、というものでした。そういうことをやめはじめた今でこそ言えますが、それも結局は自己否定なんです。自分の持っている性質を否定してしまった。それが、苦しくないはずありません。ああ、苦しかったんです。
今は、それを無くそうとするのはやめました。ただ、まだそのナイフの扱い方に困っています。でもこれが自分の性質なら、ナイフは捨てられないし、かといってそれを人を傷つけるためには用いたくない。
それなら、用途を変えて見たらどうだろうか。
ナイフは何も、何かを傷つけるために存在しているわけじゃない。
たとえば、果物なんかの食べられない部分、種や皮を剥くときにも使ったりする。
もしそうなら、私はこの自分の内側にあるナイフのような性質を、世界の皮を剥くために使ってみるのはどうだろうか?と考えるようになりました。
その、「世界の皮を剥く」とは、具体的にどんなことなのか?というのは、自分でもよくわかっていないのに、世界の皮を剥く、なんて、随分面白いことを考えたな、なんて自画自賛していたのは秘密です。笑
平べったく言えば、私が人生経験の中で感じて学んできたことの中で、まだ社会的な通念になっていなくて、これからの時代に必要なんじゃないかな?と思うことを、ひとつひとつ語っていくことで、私を含めた多くの人が持っている固定観念という世界の皮を剥いていって、よりよい考え方を共有できるようになっていけたらすてきだなと思うのです。
ぶっちゃけ自分の人生経験の中で感じて学んできたことは、そうたいしたことではありません。でもその中でも結構、これって重要なことなんじゃないか?と思うことは多かったので、そのひとつひとつをピックアップして文章にできたら面白そうだと今思っています。
まるで、宝探しのようです。
そんなわけで、自分の持つナイフのような感覚で、不要になりつつも固定観念という惰性で纏い続けている世界の皮を剥いていけたらいいな、なんてことを思っています。
できるかどうかはわからないし、もう私の知らない場所でそれは皮でもないかもしれないしすでに剥けているのかもしれないし、わかりませんが、思うままに綴れたらいいなと思います。
この、捨てたい思っていたナイフが、役に立ったらそれって素敵だなと思います。私は自分の中に捨てたいと思っていて、でも実はそれは自分を構成する大切な部分で、でもそれを受け入れられなくて。そんな部分をよろこんで受け入れられたら、自分にもみんなにも、自分を構成する大切な部分、周りからはいろいろ言われるところかもしれないけど、捨てなくていいんだよ、大切にしていいんだよ、と心から言える。それって、ものすごい勇気になる。
そんな希望を抱きつつ、今日もキーボードを打っています。まだまだ精度もないなって、このままじゃ誰にも届かないなって、まあ届かなくてもいいのかもしれないけれど、なんとなく今はただ心のままに、書き綴っていきたいと思います。
このナイフのよりよい使い道が見つかって、
それをうまく使いこなせる日が、そう遠くないことを願いながら。