さよなら絶望先生という漫画の皮を被った文学
令和時代となり、徐々に忘れ去られた名作がある。
そう「さよなら絶望先生」である。
『さよなら絶望先生』を不条理や人間の存在論的な観点から考察すると、実に興味深い奥深さが存在する。
糸色望という不条理の体現
糸色望のキャラクターは、不条理な世界に対する人間の反応を象徴している。彼は日常生活や社会現象の中に、人々の矛盾を見出し、それを過剰な態度で「絶望する」。
この行動は、私たちが住む世界は、私たちの期待に応えないというテーマを視覚的かつコミカルに示しているといえる。
糸色望は、不条理に満ちた世界に対して「反抗」する。それは「絶望した!」という形で表現されている。しかし、彼は現実を変えるための行動をほとんど起こさず、むしろその不条理性を受け止め、周囲に発信する。
カミュは「反抗」を「生き続けることそれ自体」としている。糸色望が絶望的な言動を繰り返しながらも、「死んだらどうする!」と生徒を非難し、教師としてあり続けることは、不条理への反抗の一種とも解釈できるだろう。
不条理と日常の風刺
糸色望が絶望する対象は、しばしば視聴者にとって「あるある」と感じられる現代社会の些細な問題や矛盾である。これにより、『さよなら絶望先生』は、読者自身が普段意識していない「不条理」に気づかせる。
例えば、「ああサプライズだよ、と私はうつろに呟くのであった」の話では、「あると思っていたら、逆にないという逆サプライズ」を「矛盾する社会のルール」として問題視している。
「持つ女」では「天が二物を与えないのではなくて、世間が二物を与えない」として「イチローやダルビッシュ、稲川淳二、八代亜紀」などを例に、「もう一つの才能が開花する瞬間を見たかった」と絶望する。
糸色望は、現代人が無意識に受け入れている不条理を浮き彫りにするのである。
絶望の先にある生の肯定
カミュは『シーシュポスの神話』において、人生の不条理を認識した後に、生き続けることが反抗であるとして、生きることの意味を見出している。
糸色望の「絶望」は単なる人生の終着点ではなく、彼が生きるためのひとつの手段であるといえるだろう。
糸色望は絶望し続けながらも、その絶望をユーモアや風刺に転換していく。これは、絶望的な状況においても笑いを見出し、それを共有することで生を肯定する行動とも解釈できる。
また、彼の周囲にいる生徒たちがその絶望を受け流したり、あるいは彼の言葉をきっかけに新しい視点を得る様子は、「不条理を共有し、対話するこ
と」を通じて人間が生きる意味を見出すプロセスを象徴している。
ただ、「さよなら絶望先生」では、木津千里や風浦可符香の暴走によって「不条理を共有しながらの対話」はたいていが「破滅的な結末」を生じさせている。
しかし、その破滅的な結末も読者の間では皮肉的なオチというシステマティックな機能を持つ。
消費文化の風刺と再考
加えて、『さよなら絶望先生』における皮肉を通じた社会批判は、現代社会の矛盾や不条理をユーモアで包み込みつつ、その背後に潜む本質的な問題を鋭くえぐる仕組みを持っている。それはフランクフルト学派の批判理論に通じておりような気もしないではない。
フランクフルト学派は、文化産業(映画、テレビ、音楽など)が商品として消費される中で、個人の批判的思考を失わせ、無意識のうちに体制を支持するよう操作されていると批判した。「さよなら絶望先生」が漫画であり、アニメ化したことも文化産業ではあるが、作者の意図としては商業的な論理よりも、教育の論理が強調されていると私的には考えている。
『さよなら絶望先生』では、作者の作風や作品を含め、消費文化を直接的・間接的に皮肉るエピソードが多数登場する。
「大チョコもり」というエピソードでは、バレンタインデーについて「好きな人の好きな人が分かる日」という絶望が盛り込まれていた。
つまり、広告商戦などでチョコが消費される中で、男が一方的に押し付けられる不条理さというものを端的に表現している。
そこで木津千里が「糸色くんのそーゆうとこ、嫌いじゃないな」と「1/3の愛の告白」という方法で、バレンタインデーの男性を救済する方法を伝授する。
「ティファニーで装飾を」というエピソードでは、過剰装飾という行為が話題になる。かつてガラケーを持っている人の中には、アクセサリーを過剰にする人もいた。車の後部にはぬいるぐみが過剰に飾られる。
それに対して望は「老いも若きも過剰装飾ですよ!ポンパドゥール夫人気取りですか!」と絶望する。
意味があるのかないのかわからない物質主義に絶望する望だったが、そこに可符香がやってきて「過剰装飾ではなく、『オシャレ上級者』ですよ!」と反論する。
商業的な意図を含んだ問題が生じる度、望はそれがいかに無意味で消費的なものであるかを問題視する。読者はそれに笑いつつ、自分たちがその「消費の輪」に絡め取られていることに気づかされるだろう。
インターネット文化の諷刺
インターネット文化に対する皮肉も、作品の重要なテーマである。掲示板文化、SNS、炎上現象など、現代人が情報過多の中で自己表現や他者とのつながりを求める一方で、孤立感や無意味さを感じている状況を風刺的に描いている。
「アンテナ立ちぬ いざ生きめやも」では、メール弁慶の音無芽留が登場する。彼女は引っ込み思案で無口のように見えるが、メールでは饒舌で毒舌である。当時はコミカルなキャラクターとして描かれているが、現代のSNS文化では非倫理的な音無さんが大量に存在する。
望は、音無さんの人物像を分析するにあたって「余計な一言で大変になった例も少なくありません(パンがなければお菓子を食べればいいじゃないと言ったがために、フランス革命になったり・・・・。言ってないのに、言ったことにされる!)」としてしゃべらないことを美徳のように一瞬だけ肯定する。しかし、メールでの過剰な罵詈雑言に辟易するというエピソードである。
インターネットを通じたこのような情報の氾濫や対話の機能不全は、個人の批判的思考を麻痺させるという懸念があある。
「さよなら絶望先生」では、実社会では何も言わずにやり過ごし、ネット上では匿名性を身にまとってネットリンチをする現象を風刺し、それがいかに人間性を損なっているかを示唆している。
また「フランス革命」の事例は「言っていないのに言ったことにされる」という現代のSNS社会を揶揄しているため、先見性があったようにも思う。
作品中のブラックユーモアを通じて、「本当に自分はネットに振り回されていないのか?」と読者に自己反省を促しているのだ。
まとめ
『さよなら絶望先生』は、不条理や風刺とユーモアを通じて現代社会を再解釈し、消費文化、インターネット文化などの問題を鋭く描き出していた。
そして、それらの構造的な矛盾や問題点、生きることへの価値を視聴者に気づかせたのである。
「絶望した!」
この一言で、私たちは救われていたのかもしれない。