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卒業文集まで報じる意義とは?-マスゴミという名のスティグマ-
死者に権利はないのか?
これは多くの哲学的、社会的、政治的な議論の上でなされてきたが、未だに誰も明確な答えを得られずにいる。
その隙を突いて、マスコミは被害者報道をよりセンセーショナルに、より過剰にすることで、被害者意識と加害者への過剰な憎悪を煽っている。
果たしてこれは正義だろうか?
カントは他者を目的として扱い、手段として利用することに疑義を呈した。現状の日本のマスコミは、まるで崇高なる目的があるかのように振る舞うが、世論が過剰な被害者報道を「害悪」と認めている以上、そうした崇高なるものは目的ではなく、手段にあるのではないかと疑わざるを得ない。
そもそも、マスコミは数字が全てである。つまり数字という目的が存在する以上、被害者を過剰に報道することはその手段であると言わざるを得ない。
つまり、現状のマスコミ報道は被害者という他者の権利全てを「数字の手段」として利用している、極めて非倫理的な行為なのである。
死者は権利の主体としての地位を失うという議論もあるが、この「数字という目的」が存在する以上、死者を手段として利用するという倫理的問題は付きまとうだろう。
また、死者が存在を喪失している状態だとしても、その記憶や遺品には「他者性」が存在すると解釈することが可能である。もし、死者という他者性が認められないのならば、裁判などする必要はないのである(言い過ぎかもしれないが)。
また、被害者と加害者に関する情報には「非対称性」が存在する。
私たちは、加害者をあまり知らず、被害者ばかりを知っている。このことに果たして意味はあるのだろうか?
追悼の意味を込めて、被害者を知ることには意味があるだろう。
しかし、過度に同情を強要することはできない。マスコミが行っていることはまさしくこれである。
手続きに基づく正義論では、裁判の公平性を維持するために、加害者の権利が守られることが正当化される場合がある。そのため、加害者の情報を保護することは必要な措置と考えられる。
こうしたものは加害者の情報保護の「方便」であるが、妥当性は存在する。ただし、これをもって「ならば被害者の情報を垂れ流そう」という発想は正義ではない。
被害者の情報が公開される一方で、加害者の情報が保護されるのならば、それは無知のヴェールにおける公平なルールであるとはならない。なぜなら、自分が被害者となった時のことを考えると、私たち自身の情報が公開されることは尊厳を損なうからである。
また、マスコミは自らの報道が「公共善」にどの程度寄与するのかを明らかにするべきである。事件の詳細を報じることが社会的利益に資する場合もある。例えば、被害者も犯罪者であったり、怨恨においてある社会問題と密接につながった人物である場合は情報公開もやぶさかではない。しかし、無辜の未成年者や社会的弱者が被害者である場合、マスコミの行為が許容されるとは言えないだろう。
卒業文集の公開が孕む非倫理
卒業文集の公開にはどのような社会的意義があるのだろうか?
第一に、被害者や加害者の人物像を理解することができる。「社会にはこのような人間がいた」という「鏡」として機能する。
事件に関する社会的な関心を換気する上でも機能するだろう。
しかし、マスコミは個人情報や文集の公開を遺族の同意を得ずに行っている可能性がある。この場合、以下の非倫理的な問題が浮き彫りになる。
まず、たんなる視聴者の好奇心を満たすだけの行為である。「数字という目的」のためならば、なぜだかマスコミは、普段、無意味かつ様々なことに配慮しているにもかかわらず、「遺族感情を配慮する」ことだけは忘れる。
次に、事件の詳細を知りたいという「知る権利」などの社会的利益のために、個人のプライバシーを侵害するという倫理的な議論に決着をつけぬまま、報道を断行している。
最後に、個人の情報、尊厳、人生を「消費される対象」としてみなしている危険である。マスコミは「故人を消費する」。
以上のように、事件報道・犯罪報道におけるマスコミの非倫理性は今に起きた話ではない。しかし、これらの問題から目を背け続け、令和の時代になっても未だに解決する素振りすら見せないのは、傲慢極まりない。
おごれる人も久しからず
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