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【第1章試し読み】ブラッド・スティール~最後の吸血姫~

第一章「砂漠と高校生」


 赤茶けた大地が延々と広がるこの荒野で、ぽつんと一人で歩く人影があった。白いシャツを着た少年は、両手で制服のジャケットを屋根のように掲げながら、ただひたすらに歩き続けていた。

 何時間も歩き続けたせいで、時間の感覚はほとんどなくなり、風景はどれだけ歩いても変わることはなかった。肩に食い込んだリュックの痛みと、汗で張り付いたシャツの感触が、呪いのように体力を奪い続ける。

 水筒を持ってくれば良かったと後悔するが、そもそもこの状況では家に帰れるかどうかすら怪しかった。額から流れた汗が目にしみるような痛みをもたらし、口に入った汗の味は塩辛く、ますます気力を奪っていった。

 ネットも、電話も、あらゆる文明的な利器を絶たれ、砂漠に一人放り出された少年は、何もかも見放されてしまったように思えた。それでも足を止めなかったのは、ある種の意地だろうか。しかし体力、気力共に限界に達していた少年の中でその質問は意味消失し、無意識の闇の中に溶け込んでいく。

 うつむきがちだった視界を正面に向ければ、蜃気楼に揺れる地面と、大小さまざまな岩が転がっているのが見える。生命のいた痕跡すら確認できないこの場所は、あらゆる『生』を拒絶しているようだった。

そしてとうとう体力が尽きた少年は座り込み、やがて仰向けに寝転がっては空を見上げた。少し前まであれほど欲していた太陽が、今は痛いほどじりじりとこちらを焼いている。額に浮かんだ汗が、砂にシミを作っては蒸発して消えていく。

長時間高熱に晒されたせいで、自分自身が燃えているように感じられた。生命力を燃料に、自らを焼き尽くしてしまう炎。少年は動く気力すら奪われた状態で、ただただそこに横たわっていた。このままではいずれ燃え尽きて死ぬのは分かっていたが、それすらもどうでもいいと思えるようになってしまっていた。

 傍から見れば彼は砂漠に迷い込んだ哀れな少年だが、実際はそうではない。

 それはいくつもの偶然が生み出した、彼の『運命』だった。


 冬の到来を告げる、冷たく乾いた風が、波留風(はるかぜ)ハヤトの頬を撫でた。ハヤトはその冷たさに体を震わせつつ、電灯が照らす人っ気のない道を進んでいた。

 波留風、少し字を変えれば春風。それが示す通り、ハヤトは寒さが苦手だった。しかも今は、世界を温めてくれる宇宙の小さな恒星があの地平線の向こうにある。月の光では到底温められない、この冷え切った世界で、ハヤトは体を震わせるしかなかった。

「……早く帰りたいな」

 そうボソリと独り言をつぶやいた瞬間、突如正面から突風が吹いた。二年間着続けた高校の制服の裾がパタパタとはためき、腕で顔の前にひさしを作って風を防いだ。

 それから風がやみ、顔を上げると、頭上の電灯が点滅して消えた。前、そして後ろにあったはずの電灯も消え、周囲は完全に真っ暗な闇に覆われた。

「停電、にしては急すぎるよな」

 急に不安に駆られたハヤトはポケットからスマホを取り出すと、その左上に映し出されていた『圏外』の表示に目を疑った。それによって不安は頂点に達し、世界から突然切り離されたような感覚に陥ったハヤトは唇を震わせた。

「一体何なんだよこれ……」

 電話をかけようとしても、繋がらないという自動メッセージが繰り返されるばかりで、何の役にも立たない。

 見上げても、星はおろか月さえも見えなかった。まるで、空が全て黒いペンキで塗りつぶされてしまったかのような有様だ。

 その時、正面に小さな光が見えた。それは、この道をずっと進んだ先にある。もしかしたら車のヘッドライトか何かだと思ったハヤトは、そこに向かって走り出した。足元が見えないせいで何度もつんのめってしまいそうになるが、それでも走り続けた。

 息が切れ、久々に酷使した肺がヒュウヒュウと鳴る。どうしてこうも急いでいるのだろうと自分に問いかけて、どこからか不安そうな気持ちが返ってきた。しかしそれを言語化する術を、ハヤトは未だ持ってはいなかった。

 そして光に辿り着いたと思った瞬間、ハヤトは砂漠の真っ只中に立ち尽くしていた。


 こうして、現在に至る。ここがどこなのかも、どうして急に砂漠にいるのかも分からないまま、ハヤトは歩き続けていた。が、いよいよそれも限界だった。

 熱せられた鉄板のような砂に抱かれながら、じりじりと迫る死の予感を待つことしかできなかった。

 焼かれるような暑さも、からからに乾いた喉も、どこか自分の外で起きているような気になっていた。そしていよいよ意識もおぼろげになってきたという時、遠くから低く唸るような音が聞こえてきた。

 その音に飛び起きたハヤトは、音のする方向に体を向かせて、じっと耳をすました。ブーンという、車のエンジン音にも似たようなそれに心がざわめき、思わず笑みがこぼれた。誰かいる、得体の知れない孤独感から解放され、心の奥底から喜びが湧きあがるのを感じた。

「おーい! こっちだー!」

 両手を大きく振り、今まで出したことのないほどの大声で、音の方向に呼び掛ける。そして相手もそれに気づいたのか、先ほどの唸りが段々と大きくなり、こちらに近づいていることを告げていた。

 だが喜んだのもつかの間、砂丘の向こうから現れたのは、二台のバイクのような乗り物だった。砂漠でバイクが、と疑問に思うハヤトだったが、さらに奇妙なことにそのバイクには車輪が見当たらなかった。

 それからその乗り物の運転手は、腰から何やら棒状のものを取り出した。その様子を見ていたハヤトは身の危険を感じ、反対方向に走り出した。後方に砂を蹴り上げ、少しでも身軽になろうとリュックを捨て去る。軽くなった肩が心持ち全身から倦怠感を取り除いたような気がしたが、結局は気のせいだった。

「何だなんだ、何だってんだよぉ!」

 情けない叫び声を発しながら、必死に逃げるハヤトだが、今や獰猛なモンスターの唸り声に聞こえてくるエンジン音が迫っていた。そしてついに追いつかれ、ハヤトは硬いもので後頭部を強く殴られた。

 ゴッ、という鈍い衝撃が駆け巡ったかと思うと視界が薄暗くなり、全身から力が抜けた。それはまるで、一撃でハヤトの神経という神経が全て抜き取られてしまったような感覚だった。時間、色彩、触覚、全てが抜け落ちた世界で、ハヤトはその顔を砂にうずめて気を失った。


◇◆◇


 最初に感じたのは、どこかに浮かぶ『自分』という存在だった。手足どころか世界すらない場所で、酷く弱々しい存在としての自覚。それから何かに引き上げられるような感覚があり、今までのことが一気に脳裏に蘇った。

 学校から帰る途中で砂漠に迷い込んだこと、それからタイヤのないバイクに追われたこと……きっと夢だと心の中で笑い飛ばし、それから醒めるのをじっと待ち続けた。

起きる時間だ。頭の後ろの辺りに鋭い痛みを感じたハヤトは、目を覚ました。

「ここは……」

 そう呟き、先ほど起きたことを思い出したハヤトはがば、と起き上がって辺りを見回した。今いる場所はどうもどこかの牢屋らしく、鉄格子の向こうにはまた別の監房が見える。足元に敷かれた藁は薄汚く、長い間ここに置かれていることを示していた。

 夢じゃなかったんだと落胆し、先行きの見えない不安感が強い重力となって全身を覆いつくすような感覚に襲われた。後頭部に手を触れると、殴打された時の鈍い痛みが蘇ってきて、思わず身震いする。

どういう理由で捕まったのかまったく想像できなかったが、少なくとも直射日光の下で死ぬよりかはマシだ。が、それでも茹だるような暑さであることには変わりはない。

 しかもどういうわけか、地面がゆっくりと揺れているように感じていた。そう、まるでこの場所自体がどこかに移動しているような。ここは船なのかなと思ったのもつかの間、砂漠で捕まったのだからあり得ないと否定する。ならこの揺れの正体は何だろうか。

 考えても答えが出るはずもなく、諦めるように頭を振った。結局それを理解したところでこの場所から抜け出すことなどできないのだ。ならば限られた頭の処理能力は、脱出する方法に振り分けたほうが合理的だろう。

 そう考え、今は自分の置かれている状況を理解しようと努めた。着ていた制服は脱がされ、代わりに粗末な貫頭衣を着せられている。捕まった人間が囚人服に着替えさせられるのは分かるが、ここまでするだろうか。

 裸足で藁の感触を確かめながら立ち上がると、鉄格子越しに上を見た。正面には囚人たちが入っているであろう監房が、壁のようにずっと上まで続いていた。おそらくハヤトのいる側も同じような構造なのだろう。

「抜け出すって言ったってなぁ……」

 そんな映画みたいなことが出来るはずがない、ここで一生を過ごすんだ。その自覚が胸から頭に向かって登り、重くなった額を掴んだ鉄格子に押し当てた。ひんやりとした鉄が少しは頭を冷やしてくれるかと思ったが、感じたことのない恐怖はずっと心に残り続けた。

 それから崩れるようにその場に座り込むと、正面の監房に入っている人物と目が合った。赤の長い前髪が顔の右半分を覆っていて、露になった右の水色の瞳は、真っすぐこちらを捉えていた。その眼差しはまるで抜き身の刃のようで、放たれている気迫たるやただの囚人とは思えなかった。

 海外のドラマかなんかでよく見る、囚人たちのボスなんだろうか、と考えを巡らせていると、突然目の前に四人の人影が立ちふさがった。

 とにかく何か聞いてみようと顔を上げると、まずその風貌に圧倒された。

 その四人のうち三人は何と牛の頭を持ち、黒い表皮をもつ体は盛り上がった筋肉で埋め尽くされていた。そして残りの一人は黒いローブを羽織った女性のように見えたが、頭をすっぽりと覆うマスクのせいでよく分からなかった。腕は異様に長く、背骨が歪んでいるのか、老婆のように背中を丸めていた。

 マスクは黒く塗られた金属でできていて、機械のように直線的な面で構成されている。額からは鬼のような二本の角が生えており、それが底知れぬ不安感を見るものに与えていた。口の部分は般若のように大きく開かれた口から、牙が飛びだすような意匠が施されている。

 尋ねようとしていた疑問は霧のように消え、代わりに恐怖だけが頭の中を支配した。見たことがないとか、斬新な見た目とか、そういったものを超越した何かが駆け巡り、脳裏に『不気味だ』という文字を刻みつけた。

 女性がハヤトの知らない言葉で何か言うと、隣に立っていたミノタウロス――何と呼ぶかは分からないが、ハヤトはこう呼ぶことにした――が頷いて、監房のカギを開けた。

 その複数の囁き声が共鳴したような声音は、聞いたものを震え上がらせるには十分なほどの恐怖感を伴っていた。

 金属特有の軋みを上げてドアが開き、二人のミノタウロスがハヤトを無理やり立たせて、羽交い絞めするようにがっしりと固定した。急なことに抵抗しようとしたハヤトだが、高校生の筋力ではこの筋骨隆々な牛男たちに敵うはずもなかった。

 汗混じりに感じる体温が、彼らが全く別種の生き物だと告げる。何が起ころうとしているのかさっぱり分からず、心臓の鼓動が早鐘のように鳴り続け、呼吸は荒くなった。そして監房に入ってきた女性が、その腰からキラリと光るナイフを取り出したのを見るや、ついに足腰から力が抜けてしまった。

 だがミノタウロスたちはハヤトが崩れ落ちることすら許さず、しっかりと支え続けている。女性はナイフの先をゆらゆらと揺らすと、その切っ先を首元に突きつけた。先ほどまでぼんやりと感じていた『死』が、急速に迫ってきた感触にハヤトは唾を呑み込んだ。

 だが女性はそのナイフでハヤトの喉を刺し貫くことはせず、代わりに右の手のひらをさっと切り付けた。それは一瞬の出来事で、最初はほとんど何も感じなかったが、遅れてきた痛みに思わずうめき声を上げた。

 手のひらから溢れ出した血が、生暖かい温度を保ったまま滴る。そして女性はベルトから試験管を取り出し、その滴る血を何滴か入れた。それからコルクで栓をして、満足そうに頷くと、外に連れていくように手ぶりで示した。

 がっしりとハヤトの体を固定していたミノタウロスたちが慣れた手つきで手錠をはめ、彼らに連れられるようにして、ハヤトは二人の男に引きずられるように監房の外に出た。

 外に出ると、監房が連なる壁と壁の間から差し込む眩しい陽光に目を細めた。砂漠に出てからどれほどの時間が経ったのかは分からないが、太陽の位置は変わらないように思えた。

 床は木で出来ていたが、積もった砂のせいでやけに熱く感じられた。それからゴンドラのようなものに乗せられた。レバーを倒し、ガチャリと落下防止用の柵が閉まると、ゴンドラはゆっくりと上昇を始めた。

 ゴンドラが上がっている間、男たちは何も言わず、ただじっとしているだけだった。もっとも、何か喋ったとして、ハヤトには理解できないのだが。

 しかしおかげで監房エリアの全貌を見渡すことが出来た。高さはおよそ三十メートルあり、それが五十メートルほど奥に伸びている。これ以外にも別の監房エリアがあるのかは分からないが、ここだけでもかなりの囚人を収容できそうだった。

「あの、これからどうなるんです……」

 恐る恐るそう口に出したが、誰もこちらに視線を合わせようとすらせず、何も答えなかった。やはり、先ほどの女性もそうだが、ここで使われている言葉はハヤトの知っているものと大きく異なっているのは確かだった。

 それか、ただ単に無視されているだけか。

 ゴンドラが停止し、ハヤトは男たちに続くようにして降りた。大勢の人が通りを行き来していたが、誰がどれほどの地位の人間なのかは見るだけで分かった。ハヤトと同じような貫頭衣を着ているのが囚人で、ミノタウロスたちが看守か何かなのだろう。

 上を見上げると、何か塔のようなものを建設しているのが分かった。それは黒曜石のように滑らかな表面を持っており、その頂点には何か赤く輝くものが設置されていた。それを覆うように建てられたやぐらには、人の姿は見えない。

背後には監視するためなのか、建設中のとは別の塔が威圧的にそびえていた。

 それから歩くこと数分、薄暗い小さな部屋に案内されたハヤトは、そこで手錠を外された。看守たちが離れ、代わりに鎧を着た二人組が奥に進めと言わんばかりに槍を突きつけた。きらりと光る切っ先が、先ほどのナイフと同じように危険信号を発しているように見えた。

 何をしているのかはさっぱり分からないが、新しい監房に移されただけだと信じたかった。しかし一歩進後ずさると同時に奥の扉が開き、そこから歓声が聞こえてきたとなれば、この先に待ち受ける結末は容易に想像できた。

 武器を持っている相手に逆らうことなどできずに、ハヤトはじりじりと出口まで追いやられていく。そしてついに部屋から追い出され、ドアが閉まったのと同時に、ハヤトの抱いていた想像は現実のものになった。

 眩しい陽光に目を細めたのもつかの間、光に慣れた目に飛び込んできたのは、闘技場としか表現できない場所だった。

 サッカーコートが入るくらい大きい円形の地面に、それを囲うように設置された観客席。満員になったそこからは、おおよそ応援とは思えない声が上がっていた。

こういう場合、大抵犠牲になるのは挑戦者の方、そして今回の場合はハヤトだ。全身をざらりとした悪寒に貫かれ、肌が粟立つ。何が相手なのかは分からないが、ロクな死に方をしないというのは、まず間違いない。

 向かい側の門が開き、周囲の歓声がより大きくなる。あそこにハヤトを殺そうとしている何かが潜んでいるかと思うと、言葉には言い表せられないほどの恐怖に襲われた。喉がキュッと締まり、声すら上げられなかった。

 そして門から現れたのは、ひょろりと細長い『人間』だった。しかし、それは普通の人間ではなく、肌はしわがれて骨に張り付き、顔はまるでゾンビのような有様だった。しかも長い白髪を振り回して甲高い声で吠えている。

 服も着ているには着ているが、もうただのボロ布のようにしか見えなかった。

「こ、これは……」

 てっきりライオンのような猛獣が現れると思っていたハヤトは拍子抜けしたが、それでも恐ろしいことに変わりはなかった。いや、なまじ人型だからこそ、その異形の存在にハヤトは恐怖した。

 相手が絶叫し、そのガラスを引っ掻くような金切り声に耳を塞いだ瞬間、ハヤトの体は吹っ飛ばされていた。化け物は、その体の細さからは想像できないような力で地面を蹴り、一瞬でこちらに接近してきていたのだ。

 何が起きたかを理解する間もなく、衝撃で宙を舞ったハヤトは地面に落下すると同時に、肺から押し出された空気を求めるように喘いだ。動かなければ死ぬと本能的に理解し、立ち上がって走り出そうとしたが、足に中々力を入れることが出来なかった。

「クソッ! 動け! 動けってんだよ!」

 それでも足は言うことを聞かず、怪物はこちらが動けないと分かったのか歪な歩き方でこちらに迫ってきていた。これで今日何度目のピンチかは分からないが、こうも連続されると化け物より心臓の発作で先に死んでもおかしくなかった。

 何か武器はないかと周囲を探るも、囚人が死ぬことを楽しむ闘技場には、そんな気の利いたものが落ちているはずもなかった。右手で砂を掴み、切り傷の痛みに耐えながらもそれを相手の顔めがけて投げつけた。

 やぶれかぶれの一発だったものの、さすがに化け物でも目に砂が入ると痛いのか、うめき声を上げながら両手で目を覆った。しかし問題なのはこの先だった。視界を奪ったのはいいが、この先どうにかしてこの化け物を武器なしで倒さねばならないのだ。

 そこでふと冷静になって考えてみると、この相手に武器は必要ないのではないかと思い始めた。つまり、あの細い喉を両手で掴んで絞め殺してしまえばいいのだ。これはライオンなどといった猛獣には効かないが、この相手なら効果があるはずだ。しかも今は視界が塞がれている。この隙に背後に回ることさえできれば……!

 見え始めた勝機に、全身に活力が漲ってきたのを感じたハヤトは、でたらめに振り回される両手を掻い潜ろうとする。が、距離を見誤って頬を鋭い爪で引っ掻かれてしまった。ピリッとした痛みに冷や汗が噴き出る。

 目を閉じた顔が一瞬こちらを向くも、すぐさまその場から飛びのいて爪を避け、背後を取ることに成功した。それから抱き着くようにして、枯れ枝のような首を腕で締め上げた。

 残酷な死にざまを見られると期待していた観客たちからブーイングのようなものが聞こえてくるが、ハヤトはそれを無視して締め続けた。無理やり引きはがそうとしてくる化け物に対し、ハヤトはその腰に足を巻き付けて意地でも離さないようにした。

「早く……落ちろよ……ッ!」

 しかしそんな願いも虚しく、首を絞めている腕を掴まれたハヤトは、そのまま前方に投げられてしまった。そして地面を転がって砂まみれになったハヤト目掛けて、化け物が跳んだ。細い足からは考えられないほどのパワーだったが、事実は事実だった。

 立ち上がっている隙はないと考え、寝転がって回避。肩越しにこちらに向いた化け物の目が、砂煙越しに赤く光る。急いで体勢を立て直すと同時に、ハヤトは再び右手に砂を握った。同じ手が通用するかは分からないが、これしか対処のしようがない。

砂煙が晴れ、殺意の籠った目線がハヤトを刺し貫く。相手に目潰しのことを悟られないように砂を握った拳をさりげなく背中に回した。

今は、あらゆる感覚が鋭敏になっていた。化け物の饐えた匂いに、観客の歓声に混じる洗い吐息。切られた頬から滴る血が、地面に落ちる。

そしてその刹那、化け物が飛びだした。

動きは一直線。

やれると確信したハヤトは、隠し持っていた砂を煙幕のように前方に投げた。

「クソッ!」

 砂を投射した瞬間、マズいという予感が冷たい悪寒となって背筋を駆け抜け、無意識の内にそう叫んでいた。煙幕を張る前、化け物の目が開かれていなかったのだ。目を閉じたまま、こちらに向かってくる。驚きはしたが、ハヤトは素早くその場を移動していた。

 煙幕攻撃は避けれても、視界がないのではハヤトの動きを追うことはできまい。状況は先ほどと同じまでになったが、ここからどうすればいいのだろうか。再び首を絞めようとしても、パワーが違い過ぎてすぐに引きはがされてしまう。

 必死に考えていると、化け物と目があったような気がした。目が見えない中、化け物は確かにこちらをしっかりと見たのだ。未だに目は閉じられているのに、どうにかして化け物は追跡しているのだ。

 その時、ハヤトは自分が血を流していることを思い出した。確かサメは、十メートルくらいの範囲内なら血の匂いを追跡できるのだと、どこかで見た。それに犬は人間の嗅覚の百万倍だという。もしこの化け物がそういう嗅覚を持っているのなら、この狭い空間でハヤトの血を嗅いで追跡するのはワケがないということだ。

 つまりこの闘技場(フィールド)全体が、奴にとっての殺戮領域(キルゾーン)なのだ。

目を、その目を開くな、とハヤトは強く念じた。こちらの姿を見られてしまえば一巻の終わりだ。もう逃げ切ることは出来ない。しかし運命はあまりにも残酷で、無慈悲だった。

見開かれた赤い瞳がこちらの姿を捉え、風のように距離を詰めた化け物はハヤトの肩を掴んで壁に押し当てた。

それと同時に観客のボルテージも最大になったようで、一層大きな歓声が湧きあがった。歓声がどこか遠いところで発せられているような感覚に、目の前に迫っていることが現実ではないと錯覚する。

 だが怪物が口を大きく開け、その鋭い牙のような歯が露になると、もはやそうも言っていられなかった。ついに終わりかと覚悟したハヤトは何とか抜け出そうと抵抗するが、相手の力は見た目以上に強く、びくともしなかった。

 ふと横を見ると、そこには皮だけになって干からびた死体がいくつも折り重なっているのが見えた。相手の化け物は吸血鬼だったのだ。だがそれを知った所で、どうにもならないのは事実だった。

 ハヤトはその瞬間、真の絶望を味わった。まるで手掛かりのない壁が、目の前にそびえているようだった。この向こうに希望があるはずなのに、自力で登ることも、壁を壊すこともできない。出来ることと言えば、壁が勝手に崩れてくれるように祈ることだけだ。

 しかし祈りも虚しく、その牙が首筋に突き立てられた。ハヤトは舌がピリピリするのを感じ、死が近づいてくるというのは、こういう感覚なのだと痛感した。それから世界がぼやけ、熱に浮かされたように頭がぼうっとした。痛みはなく、ただ眠気のようなものが意識を混濁させているのを感じる。

 どさりと地面に落ちると、霞んだ視界で吸血鬼がよろよろと後ずさるのが見えた。何やらうめき声を上げているのが聞こえたことから、どうもこの血が気に入らなかったのかもしれないと思った。どうだ、俺の血はマズいだろうと心の中であざけり、口元に微かな笑みを浮かべるので精いっぱいだった。

 しかし実際はその全く逆だった。

 ひび割れた地面を思わせる肌は徐々に生気を取り戻していき、歪んだ骨格が音を立てて元に戻る。それから老婆のそれを思わせる白髪が金色を帯びると、ギラギラと光る赤い瞳がこちらを見据えた。

 復活した吸血鬼、それも女吸血鬼が、ハヤトの前に立ちふさがった。状況が状況でなければ、その美貌に見とれてしまっていたかもしれない。だが今、とてもそんな余裕はなかった。

 どうにか逃げ出そうとするが後ろには壁があって、吸血鬼の手から逃れられるほどのスペースはない。そしてもう一度吸血鬼はハヤト両肩を掴むと、壁にぐっと押し付けた。血の通った肌が、目の前のそれが生き物であると実感させる。

「イ、  イ……」

 言葉を思い出そうとするかのように数回唸り声を発すると、はっきりとした声でこう言った。

「生きて……出たいか?」

 最初、ハヤトには言っている意味が分からなかったが、その顔を見てようやく理解した。彼女も、この場所から抜け出したいのだ。

「あぁ……あぁ! 出してくれ!」

 ハヤトが頷くや否や、彼女はその身体を抱きかかえて跳んだ。五メートルはあろうかという壁を軽々と飛び越え、パニックを起こした観客席に降り立つ。それからハヤトをそっと横に降ろすと、正面から剣を振り下ろそうとする男の手首を掴んだ。その手を捻り、逆側に向けた切っ先を男の腹に深々と突き刺す。

 男の絶叫が耳朶を打ち、ハヤトの顔から血の気が引ける。だがそんなことおかまいなしに吸血鬼は力の抜けた男から剣を奪い取ってその体を蹴り飛ばし、奥から迫ってきていた別の男の喉を切り裂いた。

 溢れる血を押さえようともがく男を横に押しのけると、吸血鬼がこちらに手招きした。

「おい! ここから生きて出たいなら、来なよ!」

 一瞬、ハヤトは呆然とした。なぜなら、先ほどまで全く言葉が通じないと思っていたのに、こうやって今は相手の言葉が理解出来るからだ。それから意を決して立ち上がると、今度は足に触れた血の感触に小さな悲鳴が漏れた。

「情けない奴だなぁ……ほら、連れてってやるから!」

 吸血鬼の眉がハの字になり、仕方ないというようにこちらの手を取った。その手は冷たく、まるで死人のようだった。

「どうして、助けてくれるんです?」

「優しいのさ、アタシは」

 彼女は肩越しにニヤリと笑った。その細くも力強い指が、こんな異世界の中でとても頼もしく感じられる。

 だが、「それって――」と言いかけた所で吸血鬼は再びジャンプし、ハヤトは危うく自分の舌を噛み切るところだった。

 浮かんだハヤトの体を抱きかかえ、闘技場の外に着地する。急激にかかったGにうめき声を漏らすが、吸血鬼の方は全く平気のようだった。だがその背後からは、剣を持ったミノタウロスたちが大勢迫っていた。

「お前! 走れるんだろ?」

「た、たぶん!」

「なら、全力で追いついてこい!」

 走り出した吸血鬼に何とか必死に追いつこうとするが、そのフォームはまさにプロのランナーのそれだった。しかもそれで進路を塞ごうとする敵を一瞬で切り伏せてしまうのだから、化け物という他なかった。

 そして先ほどのゴンドラまでたどり着くと、ハヤトの腕をぐっと引っ張って三度目のジャンプを行った。胃が持ち上げられるような感覚に、足元がぞわぞわとする。吸血鬼は空中でハヤトの体を抱え、着地に備えた。

 そんな二人の真下には看守ミノタウロスが立っており、ハヤトがそれを認識した瞬間には、顔は地面に叩きつけられてスイカのように破裂していた。クッション代わりになった看守の横にハヤトを放り投げ、吸血鬼は剣のバランスを確かめるようにくるりと手首を回転させる。

 その動きはまるで舞を行うが如く優雅で、煌めく刃の輝きは危険な光を放っている。しかし思わず見とれてしまって、正面から近づくミノタウロスの群れに気づかなかった。

 何か身を守れるものはないかと、必死に周囲を探ってみる。あの吸血鬼は今のところ仲間のようだが、この先何があるか分からない。何かあった時のために、こちらにも装備が必要だ。

その時倒れていた看守の腰に、監房のカギを見たハヤトは赤髪の少女のことを思い出した。燃えるような赤髪から覗く、力強い目線。どういうワケかハヤトは、彼女のことを放っておけないという使命感に駆られた。

 潰れた看守の頭を極力見ないようにしつつ、その腰に手を伸ばしてカギを取った。そして吸血鬼が戦っている様子を一瞥すると、先ほどの少女がいた監房に向かう。その脳裏には、はっきりとあの青く鋭い瞳の彩が焼き付いていた。

 彼女のいる牢に辿り着くと、少女の視線がハヤトを捉えた。

「あなたは……?」

 凛とした声音が、喧騒の中に確かな存在感を伴ってハヤトの耳にまで届いた。だが当の本人は、なかなか開かないカギに苦戦していた。再び吸血鬼の方を見やると、激しい乱闘になっているのが見て取れた。

 舞い散る血しぶきが、周囲の砂をあっという間に深紅に染め上げる。

「よし、これで……開いた!」

ドアを開け放ち、少女に向かって手を伸ばす。だが何を言えばいいのか迷ったハヤトは言葉に詰まり、結果的に無言で手を差し伸べるだけになった。少女は恐る恐る手を伸ばすが、その腕にはケロイド状の火傷の痕が痛々しく刻まれていた。

一瞬ぎょっとするハヤトだが、小さく、そして少し冷たい手を握り返して引っ張り上げた。麻の貫頭衣から覗く慎ましい胸元にちらりと目線がいき、そこにも同じような火傷が見られた。

「あなたも、反乱軍なの?」

 顔の右側はその炎のような髪に隠れていたが、露になっている方の瞳が一心にこちらに据えられているのを感じて、思わず気恥ずかしくなって目を逸らした。

「反乱軍? いや、どうかな、実は俺にも分からない……でも彼女なら、何か知ってるかも」

 吸血鬼の方向に視線を戻すと、最後の一人に止めを刺している最中だった。傍に転がる大量の死体が、その戦いの凄惨さを物語っている。場が静まり返り、顔についた血を拭った吸血鬼が、こちらに走り寄ってくる。赤く濡れた金髪をかき上げ、ため息をついた。

「彼女は? お前の知り合いか?」

 ハヤトが首を横に振ると、吸血鬼は不思議そうに片眉を吊り上げた。

「イセラ!」

 突如として響いた特徴的な複数の囁き声に、三人は振り向いた。ゴンドラの方に立っているのは、あの黒いマスクを被った女性だった。ローブの裾が乾いた風に揺れ、手を横に薙ぐような仕草をすると、どこからともなく漆黒の細身の剣が現れた。

「イセラ・フラニツェ!」

 名前に反応したのは、あの女吸血鬼だった。彼女はあからさまにマスクの女性を睨みつけ、むき出しにした牙の奥からは獣じみた唸り声が聞こえていた。

「どうしてアタシの名を知ってる!」

「フフフッ、どうしてかって? 私があんたをよく知ってるからさ!」

「バカにしてッ!」

 吸血鬼――イセラがマスクの女性に向かっていこうとしたとき、赤毛の少女が手でそれを制した。その腕が燃え上がり、髪の毛先に炎がくすぶるような淡いオレンジ色の光を灯した。火傷はこの魔法のようなもののせいなのだろうかと考えて、

「吸血鬼がいるなら、魔法もありってことか……」

 突然のことに驚いて思わず呟いたハヤトだが、これまでの出来事を考えればそこまで不思議ではないことに気づいた。これはどうも、ハヤトはいわゆる『異世界転移』をしてしまったらしい。それでなら、これまでの一連の出来事に説明がつく。

「〈ハンドラー〉は、私が止めます。今のうちに逃げてください」

 〈ハンドラー〉、そう呼ばれた仮面の人物に目を向けると、無数に空いた覗き穴の奥にある瞳と、目が合った気がした。得体の知れない悪寒が胸を突き抜けていくような感覚に、ハヤトは後ずさってイセラの陰に隠れるようにした。

「英雄気取りなら……」

 イセラが押し通ろうとした瞬間、腕に巻き付くように燃えていた炎が勢いを増した。何が何でもあの少女が、一人でこの場を守り切るつもりのようだ。

「気取ってなんかいません。私は、そこの少年に借りを返したいだけです……だから、さぁ! 早く行ってください!」

 渋々といった様子でハヤトの腕を掴むと、イセラは少女とは反対の方向に走り出した。

「ちょっと! 本当に一人でやらせる気なんですか!」

「本人がやるって言うなら、止める義理はないだろう」

「でも……」

 再び少女の方を見やると、そこでは炎の渦が乱舞し、その中で黒い影が激しく動いているのが見えた。確かに彼女の魔術はすごいのだろう。しかし自分と同年代の少女が命を懸けて戦う姿に、ハヤトは歯がゆさを感じていた。

「『でも』、じゃない。アタシは生きてここから出たいし、お前もアタシのために必要だ。死んでもらっては困る」

「必要? どういうこと?」

「血だよ。お前の血。お前が一体どこの誰かは知らんが、その血がアタシに力を与えたのは確かだ」

 恐る恐る首筋の噛み痕に触れると、二つのくぼんだ小さな孔が空いているのが分かった。先ほどはたぶんここから血を抜かれたのだろう。それに、死ぬと困ると言っているのだから、すぐに食われるということはなさそうだった。

「他の人じゃダメってことか」

 あぁ、とイセラは顔をしかめて、まずいものを吐き出すように舌を出した。

「全然ダメだ。マズ過ぎるし、たいして力もありゃあしない。それで、あんな酷い姿になっちまったんだよ!」

 思い出せば、今のイセラは闘技場で初めて会った時とはかなり違っていた。その時の彼女はまるで……動くミイラというべきか。それに比べて、今はモデルとも見間違えるほどの美貌の持ち主となっている。

黄金のように輝く長い金髪、瞳は鮮やかな赤で、磨かれたルビーを思わせる。それに声も、あのしわがれた声ではなく、しっかりとした重みを感じさせた。外見からは二十代半ばに見えるが、吸血鬼というからには百歳近いのかもしれない。

すると何かを察知したらしいイセラがその場で急反転して、ハヤトの背中を自らの後方に押し出した。突然の衝撃にうつ伏せに倒れてしまうが、彼女はそんなことに構う様子も見せずに炎の渦を凝視した。

その時、渦から飛び出した巨影が一直線にイセラに迫り、ハヤトがその姿を認めた瞬間には、二人は切り結んでいた。衝撃波が風となってハヤトを襲い、思わず腕でひさしを作って風を凌いだ。

「一体どこから……」

 食いしばった歯の奥から、イセラは苦悶の声を絞り出した。その正面には、黒塗りの鎧を着た男が、その鎧の全長ほどあろうかという剣で彼女を押しつぶそうとしていた。体に纏う二メートルほどの鎧の表面には霜が降りていて、ひんやりとした空気が肌を舐める。

 こんな男、つい先ほどまでいなかった。イセラと同様の疑問が渦巻く中、ハヤトは彼女を助けることもままならぬまま、二人の戦いを眺めることしかできなかった。鎧の男がその巨体から繰り出す攻撃は、どれも目の前を列車が通り過ぎるような質量を伴っており、当たってしまえばミンチになることは容易に想像できた。

 大きく振りかぶって放たれる斬撃を間一髪で避けながら、イセラが剣を閃かせる。だがよく見るとそれは相手への攻撃ではなく、床に向かっているように見えた。それが数回続き、イセラが足をくじいたように片膝をついてしまう。そのチャンスを見逃すはずもなく、敵はその剣を大上段に構えた。

 全身から吐き出される冷気が足元を刈り取り、次の瞬間にはその大剣が風を切る音と共に振り下ろされていた。だが当のイセラは、それを間一髪で回避していた。相手を失った剣の切っ先が突き刺さり、イセラの攻撃によって脆くなった床がミシミシと音を立てる。

 相手がそれに気づいたときにはすでに遅く、さっきの衝撃と鎧の自重で崩壊した床と共に、階下へ落下していった。

「もう少し痩せた方がいいな!」

 穴に向かって捨て台詞を吐いたイセラが、尻もちをついたままのハヤトに手を差し伸べた。その手を掴んで立ち上がると、少女と〈ハンドラー〉が戦っていた場所から爆発音が聞こえてきた。

「あれで奴が死んだとは思えないけど、急ごう」

 彼女を、あの赤い髪の少女を助けたいという思いが全身を駆け抜けていったが、恐怖で震える足を動かすことが出来なかった。情けない奴だと自分を罵る一方で、仕方ないという諦めも頭のどこかにあった。明らかに自分で対処できるような状況ではないことは、分かっていたからだ。

 吸血鬼に連れられて走る中、後悔と悔しさが入り混じる胸中のざわめきは、止まることはなかった。

 すれ違い様に看守を切り裂いて監房エリアを抜けると、そこはどうも格納庫のようだった。砂漠で見たバイクのような乗り物があちこちに置かれている。周囲に壁はなく、柵で仕切られた外界は砂が立ち込めていた。それに規則的な巨人の足音のようなものが聞こえ、向こう側にある砂丘がゆっくり動いているように見えた。

侵入者に気づいたミノタウロスたちがこちらに向かってくる。あまり時間はないようだ。

「これ、運転できます?」

「運転? お前がやれ! アタシは後ろで守ってやるから!」

 げっ、と声を上げる間もなく肩を押して座席に座らされたハヤトは、とにかく運転席の前面に配置された二本のレバーを握った。ペダルはなく、足元にあるのはあくまで馬の鞍の鐙(あぶみ)めいた役割を果たしているのだろう。

「どうやって動かすんですか?」

「レバーを倒せばいいんだ! 簡単だろ!」

 レバーのほかにも色々スイッチ類が見えるような気がするが、それは気にしないことにした。

「ええい! ままよ!」

 祈るようにレバーを倒すと、乗り物は甲高い音を発しながら急に飛び出した。そしてそのまま柵を突き破って砂漠に向かって落ちていく。砂嵐のせいで下が見えず、そのせいでますます恐怖感を煽られたハヤトは情けない叫び声を上げた。

「うわあああああ!」

 数秒間の浮遊感のあと、強い衝撃と共に地面に着地した乗り物は、砂を巻き上げながら一目散に走り出した。

 それからちらりと視線を背後に戻すと、砂煙の奥に細いフレームで組み合わされた足が見えた。その数は数百ほどあり、せわしなく動き続けてその上に乗せているものを運んでいた。

 そしてその足の森の上にそびえているのは、一つの『監獄』だった。足のついた監獄が、砂漠の上を歩いていたのだ。

「アハハ! ほら見ろ! 簡単だったろ?」

 そう言ってハヤトの肩を叩いて笑うイセラに苦笑を返すと、視界に映ったもののせいで表情が凍り付いた。そこにはハヤトの乗っているものと同じ機械が、三台もこちらを追跡してきていた。

「ちょっと! 笑ってないであれ見てくださいよ!」

「え? うわ、ここまで追ってくるの?」

「追ってきてるんです!」

「なら黙ってスピード上げる!」

 そう言い放つと、イセラは後部座席の上に立ち上がった。そして驚異的なバランス感覚で立ったままの状態を維持して、手に持った剣をくるりと回転させ、ついで放たれた石弓の矢を剣ではじき返した。

 前を見続けなければならないハヤトは、後ろで聞こえる金属同士がぶつかり合う音に震え上がることしかできなかった。その時、ふと視界の端に岩山が見えた。あそこなら、どうにかまけるかもしれない。

「あの岩山! あそこでまきます!」

「分かった! 後ろは任せろ!」

 この乗り物の扱いにも慣れてきたハヤトは、ぐんとスピードを上げて岩山に向かった。相手もその狙いが分かったのか、石弓での攻撃が激しさを増す。が、イセラは人間とは思えぬ剣さばきでそれらを全て防ぎっていた。

 飛来する矢を弾くのは、野球のボールを打ち返すのとはワケが違う。矢はボールより小さく、そのスピードも速い。だが彼女は一寸もたがわぬ正確さで、矢を全てしのぎ切っていた。今は彼女の技量を信じる他なく、恐怖心を少しでも紛らわそうとさらにスピードを上げた。

 岩山に到達したハヤトたちは、その速度を緩めないまま険しい渓谷の中に突入した。こんな狭い道でスピードを出すのは自殺行為だということは分かっていた。それもバイクにすら乗ったことのないハヤトが操縦するのなら尚更だ。しかし、少しでもスピードを落とせばすぐさま追いつかれることも、十二分に分かっていた。

 道端に転がっている人の身長ほどの岩石に擦ると、後ろで立ちながら攻撃を防いでいたイセラが危うく転倒しそうになった。

「おい! ちゃんと運転しろ!」

「これでも精いっぱいやってる!」

「文句は言わない!」

 言ってるだろ、とツッコみたくなったハヤトだが、何されるか分からなかったので自重した。それに、守られている立場でもある以上、最低限の礼儀は守っているつもりだった。

「なら、やるしかないか!」

 飛んできた矢を回避したイセラはそう言って、手に持った剣で左手のひらを切り付けた。頭上を矢が通り抜けて、サッと血の気が引いたハヤトは後ろのイセラに罵声を浴びせたくなったが、すんでのところで踏みとどまった。

「何してるんです?」

 だがハヤトの問いかけを無視して、彼女は左拳を握りしめた。そこから血がポタポタと垂れ、赤い点を船体に残す。

「血晶術(ブラッド・クリスタ)……〈束縛鎖(エル・エルダ)〉!」

 そして左手のひらを前方に掲げると、そこから飛び出した赤い鎖が渓谷の岩肌に突き刺さった。

「耐えろよーッ!」

 それからイセラが両手でぐっと鎖を引っ張ると、崖から巨大な岩塊が引きはがされた。その反動で大きく傾き、抵抗しようとすると機体が悲鳴を上げた。そして岩塊を完全に引き抜くと、追手たちを瞬く間に押しつぶしてしまった。

 役目を果たした鎖は空気に溶けるように消え、明らかに消耗した様子のイセラは座りこんで、ハヤトに自らの背中を預けた。

 急にのしかかった重みにどきりとしたハヤトだが、動揺が表に出ないように平静さを装った。だが、これくらい近いと無意味かもしれない。

 追手がもういないのを確認し、ほっと胸を撫でおろしたハヤトは乗り物のスピードを少し落とした。いつぶつかるかもしれないヒヤヒヤとした追跡劇を、いつまでも続ける気はない。

 そして渓谷を走りながら、どうしてこんなことをしているのだろうと、ふと不思議になった。つい数十分前までただの高校生だったのに、今じゃ吸血鬼と一緒に何かから逃げている。しかも乗っているのは車輪のない、浮遊するバイクだ。それに魔法だって見てしまったのだ。

 それにこの体に流れる血は、あの吸血鬼にとって特別なものだという。ハヤトはあまり運命というものを信じてはいなかったが、もしかしたらこれが『運命の出会い』というものかもしれない。

 フィクションの中でしか起こりえないと思っていた出来事に、正直胸が高鳴っているのも事実だ。しかし、自分は映画の中の主人公のように強くはないし、今までが上手くいってきたからと言って、これからも同様に上手くやれるとも限らない。

 ずっと胸の中に渦巻いていた不安を吐き出すように、ハヤトは口を開いた。

「……これから、どうなるんです」

「へぇ。『どうする』、じゃなくて、『どうなる』、か」

 背中合わせだと、彼女が声を発するたびに肺の方から振動が伝わってくるのが分かる。それに心臓の鼓動だ。彼女の鼓動のペースは恐ろしくゆっくりで、あれほど激しい動きをした後でもまるで早まっていなかった。

「だって、俺にどうにか出来るんですか?」

「無理だね……あとさっき聞いたと思うけど、アタシはイセラ・フラニツェ。見ての通り吸血鬼さ。お前は?」

「波留風、ハヤトです」

「不思議な名前だね……ハヤト。アタシのことはイセラでいいよ。これからよろしく」

 渓谷の間から見える空はオレンジに染まり始め、太陽が沈んでいることを告げていた。そしてその色は、あの『歩く監獄』で出会った赤髪の少女のことを想起させた。自分に借りを返すとだけ言って、時間を稼いでくれたあの少女……無事でいてくれと願うと同時に、もう一度会ってみたいという思いが頭の中を通り過ぎていった。

 一目惚れか、そう意識してしまっては止まらないのは分かっていたので、それ以上考えるのはやめた。

「あの子、大丈夫だといいけど……」

「気になる?」

 自分の胸の内を見透かされてしまったようで、思わずどきりとしてしまった。

「え、まぁそりゃあ、助けてくれたわけですから」

「あの子は魔法使いだ。あの歳の魔法使いは聞いたことがないが、生まれ持った素質があるのだろうし、簡単にくたばりもしないだろう……それと、敬語もいらないからな」

「あぁはい……あ、いや、分かった……」

 元々コミュニケーションが得意とは言えないせいで、会話が成立しているような気がしなかった。それと、女性経験の少なさも影響しているのだろう。

「このまま走ろう。どうも水の気配がするぞ」


 それから一、二時間ほど走り続けると、イセラの言っていた通りそこには小さな池があり、奥には川が続いていた。周囲には何かトーテムのようなものが置かれ、何らかの聖地であることを示していた。

 その中でもひときわ大きいトーテムに向かおうとすると、その途中で乗り物が急に停止してしまい、ハヤトたちは降りなければならなかった。

「動力切れらしいな」

「燃料は?」

「そんなことも知らないのか?」

 まったく、といった様子でイセラは首を振ると後部から降りた。もはや動かない乗り物の座席からハヤトも降りて背筋を伸ばす。長い間同じ姿勢でいたため、各部の関節がボキボキと音を立てた。

 正面のトーテムはそこの現住生物をかたどるように作られていて、どれも極彩色で塗装されていた。その独特な色使いはどこか既視感を感じさせたが、こういった芸術品には全く興味がなかったハヤトには、その正体は分からなかった。

「本当に異世界なんだなぁ」

 そう空を見つめながら感慨深げに呟くと、唐突にイセラがハヤトの肩を掴んだ。

「待て。何かいる」

「何かって……何?」

 暗闇に目を凝らすが、特に何かが潜んでいるようには見えなかった。隠れられるものと言えば近くにある大小さまざま赤茶色の岩だが、もしやあの裏に何かいるのだろうか。

 ハヤトには感じられないものを、見えないものを、彼女はその深紅の瞳で見ているに違いない。そうしてじっと待っていると、待ちきれなかったのかとうとうイセラが口を開いた。

「隠れてないで出てこい!」

 声が数回こだましたあとに静まり返る。それからしばらく反応がなかったが、岩の陰からそろそろと出てきたのはグレーの肌をもつ小人だった。それも一人ではなく、全部で六人がハヤトたちを取り囲むように現れた。その体表には血がこびりついていて、その不気味さを強調させていた。

 大きさはハヤトの胸の所ぐらいで、目は大きく黒目がちだった。下半身にはかすかな知能がそうさせるのか、急所の部分を布で覆っている。

「これって……」

「ゴブリン。人間を襲う畜生以下の化け物だ。さぁ! これを!」

 そう言って剣をハヤトに向かって投げて渡した。急に渡されたこと戸惑いつつもなんとか柄を持つと、その重さに驚いた。竹刀くらいは持ったことはあるが、本物の剣を持つなんて始めてだ。

 正面にいるゴブリンたちは互いに何かしらの言語めいたものを発し、どうやって襲おうかプランを立てているようだった。どこかで読んだ本によれば、禁断の果実を食べた最初の人類とされるアダムとイヴは、知能を得たことにより羞恥心を知り、自らの秘所を木の葉で隠したという。

ならばこの小さな小鬼たちも、それなりの知能を持っているということになるのではないだろうか。

 そんな自分たちと同じくらいの知能を持つかもしれない相手を、殺そうというか。帯を巻かれた柄から感じる金属的な冷たさは、これが相手を傷つける道具だということを痛感させた。

「剣は初めてか? 間違ってアタシを刺すなよ?」

「ど、努力はする……」

 それからイセラはくるりとハヤトの背中側に回ると、短いフレーズを詠唱した。

「血晶術、〈紅の剣(シャール・イガス)〉」

 瞬間的に左手に赤い結晶で形作られた剣が現れ、イセラはそれをしっかりと両手で握った。

「ハヤトは攻撃しようとしなくていい。ただ振り回して、自分が襲われないようにしておけ!」

「イセラは?」

「アタシはいつだって自己流さ!」

 一歩踏み出し、つま先でくるりと回転すると、その勢いを乗せた切っ先がゴブリンの首をバターのように切り裂いた。それが合図かのように、他のゴブリンたちも一斉に飛び出してきた。

 もちろん全てがイセラに向かって攻撃しているわけではない。三匹はイセラ、残りの二匹はハヤトに向かって攻撃を仕掛けようとしていた。

 ゴブリンたちは武器を持っておらず、手の先にある鋭く黒い爪が武器代わりだった。リーチがある分こちらの方が有利ではあるが、相手は小柄で、結構すばしっこい。

 追い払うようにして剣を横に振ったハヤトは、その重さで逆に振り回されてしまう。それによって足元のバランスが崩れ、前につんのめってしまった。このチャンスをゴブリンが逃すはずもなく、容赦なくその両手が突き出される。

 その先についた爪に突き刺されることを想像し、全身から生気が失われた気がした。だがその刹那、突き出された両腕はイセラの剣によって両断され、返す刃で首を刎ねていた。赤黒の血が噴水めいて吹き上がり、地面に赤い一直線を描いて倒れる。

「死にたいのか!」

「だって俺――」

 虫だって殺したことないのに、と言い終える前に、イセラはすでに他のゴブリンと戦っていた。彼女は一秒でも惜しいと言わんばかりに戦っている。しかしハヤトはまともに戦うこともできず、かといって死にたくもなかった。

 だがそれでも、まだ話し合えば通じ合えるのではないかという考えが、頭の片隅に残されていた。

 そしてそれがこの状況では命取りになることも、十分に理解していた。

「……クソッ!」

 悪態をつき、再び剣を構えた。今度は一対一だ。二人は互いに距離を保ちながら、円を描くように移動する。手の毛穴という毛穴から、汗が噴き出てくるのが分かる。湿った柄を握り直し、視点を真っすぐと相手に固定した。

そして一瞬の硬直があり、ハヤトは直感的に相手が仕掛けてくると思った。

 その直感は当たり、ゴブリンの脚部の筋肉が盛り上がったかと思うと、一直線に飛び出してきた。それを冷静に避け、左足を軸に半回転してゴブリンの背中に相対する。

 背中はがら空きで、こちらはいつでも攻撃できる体勢にあった。あとはこの剣を突き出すだけで、その命を奪うことが出来る。たとえできなくても、重傷を与えることが出来るはずだ。

 だから、そうした。剣を突き出し、その身体を刺し貫いた。

切っ先が硬い肌にぶつかった瞬間は、確かに手ごたえがあった。それからはただ一心不乱に剣を奥へ奥へと突き刺すことしか考えられなかった。そして剣を通じて、命を奪ったという感触に体をぶるりと震わせた。

貫通した剣を引き抜き、肩で息をするように荒い呼吸を繰り返したハヤトは、目の前でゴブリンが絶命するときの叫びを聞いた。悲痛な甲高い声が耳から全身に押し広げられ、全ての感覚が鋭く尖るような感覚に陥った。

その時、何者かが肩に触れ、ハヤトは反射的にその方向に剣の切っ先を向けた。

「おいおいおい、アタシを殺す気か?」

 そこに立っていたのは、敵意がないと示すように両手を挙げるイセラだった。背後には三体のゴブリンの亡骸が見える。どうやら彼女は自分の分を終えたらしい。それから彼女はハヤトの肩越しに死んだゴブリンを見ると、その肩を叩いた。

「……よくやった。大変だとは思うが、まぁよくやったと思う」

 その時右手のひらに鋭い痛みが走り、ハヤトは思わず持っていた剣を取り落とした。痛みの元を見てみると、あの黒いマスクの女性に切られた傷が開いて、そこから血が出ていた。今の戦いで塞がりかけていた傷口が開いてしまったのだろう。

「どうした?」

「さっき黒いマスクの女の人に切られた。大した傷じゃないと思う」

「どれ、見せてみろ」

 差し出すまでもなくひったくるようにハヤトの手を取ったイセラは、じっと傷口を見つめた後に、流れる血と傷をぺろりと舐めた。生温かい舌の感触に背中を震わせ、その手を引っ込める。

「何すんだよ!」

 すると悪びれる様子もなく、彼女は少し驚いたように肩をすくめた。ハヤトは唾液で湿る手のひらを、まるで汚れたものを触れてしまったかのように服で拭った。

「傷を舐めれば治りが早くなるっていうだろ。それにさっきも言ったけど、お前の血は特別だ。一滴も無駄にしたくない。それに、アタシは優しいんだ」

「だからって!」

 今度は仰々しく頭を下げると、

「じゃあ、その手の傷と血を舐めさせていただけますでしょうか?」

「……断る!」

 そのはっきりとした物言いに折れたのか、そもそも本気じゃなかったのかは分からないが、イセラは仕方ないというふうに肩をすくめただけだった。するとその時、彼女の目が大きく見開かれた。

「伏せろ!」

 背中を押されて地面にうつ伏せになるように押さえつけられると、その直上を何か大きなものが通り過ぎていった。ついで春一番のような大きな風が吹きすさび、その轟音が耳を聾(ろう)した。

「今度は何だって……!」

「ワイバーンだ! これであのトーテムの意味が分かった!」

「どういうこと?」

 イセラはトーテムの頂上にある、羽を持った緑色の置物を指し示した。

「ここは奴の狩場で、あれはその警告だったんだよ!」

「どうしてもっとはっきり言わないんだ!」

「アタシが知るかよ!」

 叫び返したイセラはハヤトの持っていた剣を奪って、闇夜に目を凝らした。その視線を追うと、黒い鳥のような大きな影が空を舞っているのが見えた。尻尾は長く、先は槍のようにとがっており、頭は爬虫類のように細長い。

それは空中で大きく弧を描くようにして旋回し、再びこちらに迫ろうとしていた。濃い緑色の鱗が夕日の光を照り返して不気味に輝き、そのスピードと巨体から生まれる圧倒的な存在感が、ハヤトの全身を圧した。

鱗の奥では分厚い筋肉が躍動して、羽の膜がその身体を支える風を捕まえようとしてはためく。もし恐竜が現代に生き残っていたらこんな感じなのか、と呆然と考えているとイセラが金色の髪を振り回してこちらに顔を向けた。

「ハヤトは! あの岩に隠れる!」

 示された岩陰に身を潜め、そこから顔を出すと、ちょうどイセラが二本の剣でワイバーンに斬りかかる瞬間だった。

 低空飛行で突撃しようとするワイバーンに対し、イセラは右手に鋼の、そして左手に血の剣を持って相対していた。いよいよぶつかると思った瞬間、翼をかいくぐって彼女はその脇に飛び込むと、二本の剣ですれ違いざまに腹を斬った。

 柔らかい腹部に二本の赤い線が刻まれ、ワイバーンは苦悶の声を上げる。それから着地すると、振り向きざまに鞭のようにしなる尻尾を振った。ブン、と風を切る音がここまで聞こえるが、イセラは屈んでそれを避けた。

 そして逆に尻尾の付け根を斬り、流れるような動作で距離を取っていた。ワイバーンの方は傷つけられてはいるものの、どれも致命傷までは至っていない様子だった。白っぽい横腹に赤い血が滴る一方で、その鱗にはいくつもの切り傷が付けられているのが見て取れた。

 イセラは雄たけびを上げ、今度は正面からワイバーンに迫る。だがワイバーンは、片方の足を大きく振るうと、足元の砂でイセラの視界を奪った。

この時、彼女が何を考えていたかは分からないが、相手の攻撃を避けてその隙に攻撃しようとしたのだろう。しかし、ワイバーンの方が一枚上手だった。おそらく、何度もイセラのような狩人に狙われ続けてきたに違いない。そして戦うたびに学習していたのだ。

 全く予想外の反撃に足が止まるイセラ。視界はゼロ、しかもワイバーンの真正面に立ってしまっている。急いでその場を飛びのこうとしたが、もはや手遅れだった。

 まるでメイスのような尻尾に全身を打ち付けられ、彼女の体は軽々しく宙に舞った。まるで雷に打たれたようにビクリ、と跳ねた体が、もう駄目だと悟るように弛緩する。だがそれでもまだあきらめず、残った力を振り絞って、声帯に力を込めた。

「イセラ!」

 だが彼女はうつ伏せになったまま動かず、手から離れた鋼の剣が地面に転がっていた。左手にあった血の剣でさえ、ボロボロに崩れて消滅しかかっている。

 絶体絶命の状況に、ハヤトは判断を迫られた。彼女を置いて逃げるという手は最初からなかったが、さっき初めて剣を握ったような人間に、この状況を打開する手段もなかった。唯一出来ることと言えば、時間を稼ぐくらいだった。

 迷えば迷うほど動けなくなると知ったハヤトは、本能のまま走り出すと、地面に落ちていた剣を拾った。そして、動けないイセラに近づこうとするワイバーンの前に立ちはだかった。

「おい化け物! 俺が相手だ!」

ワイバーンの猫のような黄色い瞳がギョロリと動き、ハヤトを射すくめる。だがそれにもひるむことなく、威嚇するように剣をでたらめに振った。相手が警戒し、少しずつ後退する。

「イセラ! 立ってくれ! そうしないと……」

 威嚇がただのこけおどしだと理解したのか、ワイバーンは後退するのをやめ、つんのめるように首を伸ばして大きく吠えた。空気がビリビリと震え、熱された吐息が肌を焼く。そのあまりの勢いに目を閉じると、腹部を何かが突き上げ、次の瞬間ハヤトの体は空を飛んでいた。

 足元に地面はなく、全身が風を切る感覚に、神経が危険信号を出していた。しかし人間は空を飛ぶ生き物ではない。空に打ち上げられれば、落下する運命だ。背骨を冷たいものが這い上がり、全身の肌が粟立ったが、もはやなす術はなかった。

 背中から地面に落下し、強く後頭部をぶつけた衝撃で目の前に色とりどりの火花が散る。右の手の平からは、血が心臓の鼓動に合わせて溢れだしてくるのを感じていた。

 それでも、ハヤトは立ち上がろうとした。死ぬ恐怖には今日だけで何度も遭遇している。そしてその度に何とか生き残ってきた。

心臓は今までにないほど強く鼓動し、真新しい血を全身に送り続けている。そうだ。まだ生きているのだ。全てを終わらせるには早すぎる。だが、この場を乗り切る力を、ハヤトは持ち合わせていなかった。

 その時、『血がアタシに力を与えたんだ』といういつか彼女の言っていた言葉が頭の中にこだまし、何度も何度も反響した。そして幾重にも折り重なった声が、叫んでいた。

 力を。力を使え、と。

「俺の血が、イセラに力を与えた……」

 咆哮するワイバーンの奥に、倒れている彼女が見える。

「ならそれを、俺が使うことだって……」

 右手を滴るふと血は地面に落ちることを止め、代わりに細い筋となって血管が伸びるようにあるものを形作っていく。

 ワイバーンがこちらに突進してくるが、ハヤトはピクリとも動かなかった。これまでに感じたことのない高揚感を感じていたのにも関わらず、その意識は冴えわたっていた。

 全身に張り巡らされた鋼線のような神経が、体を動かす瞬間を今か今かと待ちわびていた。今にも暴れだしそうな筋肉を手懐け、最適なタイミングが来るまで待てと諭す。恐ろしいほどの冷静さに自分でも驚いていたが、今はこの流れに乗るしかないと判断した。

 そして右手に完成した紅い剣を握ると、くるりと回ってすれ違いざまにその脳天に突き刺していた。少しの狂いもなく脳を破壊されたワイバーンはしばらく硬直すると、その場に崩れ落ちた。

 まさに一瞬の出来事だった。このワイバーンは痛みを感じる間もなく絶命したに違いない。突き刺した剣からどす黒く染まった血が流れだし、周囲を鉄の匂いで包んだ。ワイバーンがもう動かないことを確認してから、剣を引き抜く。同時に疲労がどっと押し寄せ、思わず両膝をついた。右手の剣は、イセラの剣と同じく崩壊しかけていた。

「ハヤト!」

 意識が戻ったらしいイセラが、こちらに駆け寄ってくる。それから倒れないように支えてくれたが、ハヤトは目を開けるので精いっぱいだった。彼女はハヤトの顔を見て、それから右手の剣に視線を移した。

 驚きに満ちた表情で、イセラは尋ねた。

「お前……何者なんだ?」

「そんなこと……分からな、い……」

 こうしてハヤトは、人生二度目となる気絶を味わうハメになった。


◇◆◇


 夢の中で、ハヤトは見知らぬ場所にいた。薄暗く、乾燥していて埃っぽい。しかも両手首を天井から吊るされていて、動こうとするたびに拘束された手首が痛んだ。口は猿ぐつわのようなものを噛まされていて、息が詰まりそうだった。

 痛くならないようにつま先で立とうとするが、それも長くは続かない。痛みと疲労が交互に押し寄せてくる現状は、まさに地獄のようだった。

 おまけに見えるものと言えば正面にある殺風景な鋼鉄製のドアだけだ。足を伸ばせばドアノブに届きそうだが、もはやそんな力は残されていなかった。

 どれくらいの間ここにいたのだろう。数日、数年、数十年にも感じられる長い長い期間……正気と狂気の狭間でずっと堪え続けている。しかしそれもそろそろ限界が近づこうとしていた。

 するとその時、正面のドアが開いてあの黒い仮面の人物――〈ハンドラー〉が現れた。手には松明を持っていて、その明るさに思わず視線を逸らす。

「何と醜い……」

 〈ハンドラー〉は言った。

「これが吸血鬼の成れの果てとは、考えたくもないな……なぁ? イセラ・フラニツェ」

 仮面の無機質に空いた無数の穴から、赤い瞳がこちらを見た。そこには、ゾンビのように干からびたイセラの姿があった。


 頭を殴られたような衝撃に目を覚ますと、自分が地面に寝転がらされているのに気付いた。空はちょうど白け始めたという具合で、冷め切った空気が意識にかかったもやのようなものを吹き飛ばしてくれた。

 先ほど見た夢が、焼きごてを当てられたように頭の中に残っている。熱を持ってうずくそれに触れようとすると、痛みを伴った。額に触れた右手を見ると、傷のあった個所には包帯が巻かれていた。きっとイセラが巻いてくれたに違いない。

「起きたか。体は動かせるか?」

 寝返りを打つと、炭化して黒くなった薪の奥にイセラの姿を見た。彼女はあの『歩く監獄』で出会った時のようなボロ布めいた服ではなく、ちゃんとした服を着ているようだった。煙たい空気が鼻腔に絡みつき、何とか解消しようと咳き込んでみたが、この妙な感覚が消えることはなかった。

「大丈夫か?」

 それを見てか、心配そうに顔を覗き込むイセラに手を横に振って、大丈夫だと返す。それからイセラを着ている服を指さして、ハヤトは言った。

「それ、どうしたの?」

「あぁ、これか」

 男物なのか、窮屈そうに襟の辺りを引っ張る。胸部に余裕を持たせるためなのか、シャツの裾部分は巻き上げられ、へその上辺りで縛ってあった。そのおかげで、豊満な胸がより強調されるようになった。

実際その服の胸部ははちきれんばかりに膨れていて、いつか破れるのではないかと心配になった。もしそうなった日には、見てしまった人間は生きて帰れないだろう。彼女のことをよく知っているわけではないが、何となくそう思った。

「周囲を散策していて、壊れた荷馬車を見つけたんだ。持ち主は恐らくワイバーンに食われたんだろう……お前の分もあるぞ」

 体を起こし、服を受け取る。前の世界で着ていたものとはだいぶ違うが、この貫頭衣よりはマシだ。見た目は、中世の西洋風といったところだろうか。質素な柄で、派手さは感じられない。

「お前もアタシも、聞きたいことは山ほどあるだろう」

 イセラは燃え尽きた薪の前に座り、そばにあった棒で燻る木をいじり始めた。一晩中焚火のそばで眠っていたせいだろうか、自分の体にも灰の匂いが染みついてしまったような感じがした。元の世界にはない、異世界の匂い。

「だがまず、お前の話を聞かせてくれ。どこから来たのか、何者なのかをな」

 ハヤトは頷くと、これまでのいきさつを話した。自分が異世界から来た人間であるということ、最初は言葉が分からなかったが、イセラに噛まれた後に分かるようになったこと。それにワイバーンと戦った時は、無我夢中であまりよく分かっていないということを話した。

 しかしさっき見ていた夢については話さなかった。個人的なものに思えたし、今の状況にはあまり関わっていなさそうだと思ったからだ。

 荒唐無稽な話だが、彼女は最後まで真剣に聞いていた。時折細かな質問をしただけで、それ以外はずっと何かを考え込んでいるようだった。

「なるほど。にわかに信じがたいが、それが真実なんだな?」

 ハヤトは再び頷いた。だが今になってみると、これも夢なのではないかと思い始めていた。明らかに出来すぎているように思える。あのワイバーンの時なんかは特にそうだ。ああやって土壇場で力を発揮するなんて、よくありそうなストーリーじゃあないか。

「まぁでも確かに、納得は出来るし、そうでなければ説明がつかないこともいくつかある」

「例えば、俺の血とか?」

「そうだ。お前のような人間は〈保血者(キャリアー)〉と呼ばれている。太古の昔には大勢いたが、現存する〈保血者〉はいないとされていた。お前を除いてはな」

「それは……イセラに噛まれた時から言葉が分かるようになったり、手から武器を作ったりするのにも関係ある?」

 どうかな、とイセラは肩をすくめた。

「〈保血者〉はずっといなかったし、記録も相当古い。この件に関しては正直、何でもありだと思うしかない」

「そういえば、血はどれくらいの頻度で必要なの?」

 その問いを投げかけた瞬間、彼女はびくりと背筋を伸ばし、少し恥ずかし気に頬を赤く染めた。何かマズいことをしたに違いないと直感が判断し、図らずも今度はハヤトが問い詰める側になっていた。

「実は、お前が寝てるときに少し……」

 イセラはバツが悪そうに縮こまって笑った。これに関してはハヤトも苦笑するほかなく、首筋の噛み痕に触れると確かに少し濡れている感触があった。まだこの程度で済んでよかったと安心する一方で、この異常な状況に慣れ始めている自分にも驚いていた。

「まぁ別にいいけど、ほどほどにしてくれよ……」

「分かってる。分かってるって! そうだ。パンとかも一緒に拾ってきたんだった。それを食べよう!」

 近くに置いてある背嚢を探りながら、明らかに話題を変えようと躍起になっている彼女に対し、これ以上追及しても仕方ないと悟った。

 彼女に貰ったパンは、今まで食べていたものよりも固く、パサパサしていた。しかし状況が状況なので文句は言えず、ぼそぼそと食べ続けた。

「異世界から来たって言ってたけど、そこに帰りたいのか?」

「うん? まぁ……たぶん親も心配してるし……」

「アタシ的には、ずっとここにいて欲しいけどな」

「血が欲しいから?」

「もちろん」

 血液袋のような扱いに、少し悲しくなった。

「でも、お前には助けられたしな。借りは返すさ。優しいからな、アタシは」

「……元の世界に帰れる方法があるのか?」

「さぁね。少なくともアタシは知らない。心当たりはあるか?」

 パンの最後のひとかけらを口に放り込み、ハヤトは顎に手を当てて必死に思い出そうとした。異世界に来るのに何か兆しのようなものがないかと思ったが、世界が急に真っ暗になっただけでは不十分だ。

 その時、ふと〈ハンドラー〉が脳裏をよぎった。あいつはハヤトの血を採取し、どうも何か知っているような感じだった。

「〈ハンドラー〉はどうかな。どうにかして聞き出せない?」

「あのヤバいところに戻れっていうのか! お前正気か!」

「じゃあ他にいい案があるのか?」

 腕を組んで首をすぼめると、イセラは気難しそうな顔をして何かしらの案を絞り出そうとしていたが、

「分かった分かった。確かにあいつに聞くのが手っ取り早そうだ」

 ついに折れてため息をついた。

「まぁ何にせよ、このままとんぼ返りでは返り討ちに遭うだけだ。援軍がいる」

「そういえば、あそこで助けてもらった女の子が、反乱軍がどうとか言ってた気がする」

 思い付きで言ったつもりが、またあの少女に会いたいのではという問いが一瞬ちらついて、ハヤトはバツが悪そうに顔をしかめた。

「反乱軍? いやいや、そんなんじゃない。家族に手を貸してもらうんだよ」

 それを聞いて、思わずホッとする。会いたいというのも、単にお礼がしたいだけなのだと自分に言い聞かせた。

 気取られなくてよかったと胸を撫でおろすハヤトをよそに、イセラは立ち上がって手を差し伸べた。

「そうと決まれば、さっそく出発だ」

 太陽が地平線から顔を出し、日の光を受けた彼女の金髪が、黄金のように光輝いて見えた。


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